朝日新聞元旦紙面での川崎レナさん
我が家は新聞を購読していないが、1月1日は、いつもと同じ価格で拡大版が買えてお得なので、朝日新聞を購入した。
11面のオピニオン欄は「『覚悟』の時代に」と題されて、山折哲雄(宗教学者)と並んで川崎レナさん(国際NGOアース・ガーディアンズ・ジャパン代表)のインタビュー記事が紙面を飾っていた。
www.asahi.com
これまで知らなかったが、川崎レナさんは2005年生まれの17歳。15歳からユーグレナのCFOも務めていたという。
自ら活動として立ち上げた「政治家と話してみようの会」では、大阪府議や地元の市議らとオンラインで中高生と政治家の交流会をしている。
Twitterなどで行われる「議論」には「心理的安全性」が欠けているため、「一人ひとりの意見が、建設的な状態で議論されるようなプラットフォームを提案し、実行していきたい」という考え方は非常に真っ当で、理想を理想だけにとどめない「覚悟」を示す姿は眩しい。
今の時代に夢や希望を持つことは難しいと思う。幼稚だと言われるかもしれないけれど、ファーストペンギンになれる人を私は尊敬します。(略)
周りの子と話しても「いや、やっても変わらないよ」、日本だから」と言われることがある。でも私は、その日本が好きなので「変われる」と思う。幼稚な理想を、現実に変えたい。それが私の覚悟です。
しかし、その一方で「両親の勧めで大阪のインターナショナルスクールに通い、様々な活動を通じて60カ国以上に知人がいます。」「テキサス州の企業が、教育・社会問題のオンラインイベントへの参加者を探していた。それに応募して…」など、彼女のバックグラウンドに触れた部分を読むと、親が金持ちで意識高い系なのでは?と変に勘ぐって嫉妬心を掻き立てられたりもしてしまう。
熊谷はるか『JK、インドで常識ぶっ壊される』1~3章
『JK、インドで常識ぶっ壊される』の作者である熊谷はるかさんは、川崎レナさんより2歳年上の2003年生まれ*1。彼女に対しても、本の内容に興味を持ちつつも、本を読むまでは、同様に「どうせ親が…」という斜めからの冷めた視線も交じってしまっていた。
が、そんな自分を恥じる読書となった。
本は6章構成になっている。
- 第1章 JK、インドへ行く
- 第2章 JK、インドライフにビビり散らかす
- 第3章 JK、インドグルメの沼に落ちる
- 第4章 JK、カオスを泳ぐ
- 第5章 JK、スラムに行く
- 終章 JK、インドを去る
このうち、3章までは、タイトルや表紙から予想していた通りの本だった。
中高一貫校の中3の8月に、親の急な転勤でインドについていくことになった熊谷さんは、そのことを友人にもギリギリまで言えないほど、それに動揺した。しかし、行ってしまえば見るものすべてに異国を感じ、ここで生きていくしかない世界に放り込まれた。(1章)
家族3人での仮住まいのサービスアパートでの暮らし、母親とのマーケットでの買い物、インターナショナルスクールで出来た様々な国籍の同級生などの話。仲良くなった同級生のラトゥナは、いわば日本国内のインターナショナルスクールに通う日本人と同様、親が裕福なインド人。しかし、肌の色にコンプレックスを抱えている様子から、肌の色は明るい方が贔屓され、暗い肌色はネガティブに捉える「カラーリズム」について知り、それに寄り添い考える。(2章)
深夜の御馳走、甘すぎるスイーツ、豊富なフルーツ、入手困難な牛肉の入手方法、カレーの頻度、等、章のタイトル通りインドグルメの沼に落ちる。一方で、新居での生活とメイドさんのブミちゃんについて考えるうち、雇う雇われるの関係と階級、教育について思いを馳せる。(3章)
4章以降
ここまでも異国での体験記として楽しめるが、この本が本当に面白いのは4章以降だ。
4章では、まず、インターナショナルスクールで新しく入ったクロスカントリークラブについて書かれている。学外での活動(ランニング)時に出会う様々な生き物(豚、牛、猿、ジャッカル)の様子から、共生をベースとしたインドの動物観について知ることができ、とても刺激的な内容だ。
メイドのブミちゃん同様 に、家で雇ったドライバーのモハンについては、モハンの生活や家族、特に大学に通う娘さんのことに話が及び、それでは自分は何のために勉強するのかと自省する。
そして4章後半では、5章の内容とリンクするイベントについて書かれる。
ここで、母親に、ニューデリーの「街歩き」にと誘われ、ストリートチルドレンの保護や支援を行うNGOの活動の見学を行った。
そこで見聞きしたことが詳細に語られる。ここは読んでいて、予想以上に、日本国内でも同種の活動が行われていることを思い出し、インドの問題のようには読めない部分もあった。
- ストリートチルドレンの多くは、家(での虐待)から逃れるために路上に出てきている
- 彼らは、おとなを含め誰のことも信頼できなくなってしまっている
- 彼らを受け入れるシェルターを作っているが、信頼関係を得るところからスタートしている。
(あれ?これは、昨年末からtwitterを騒がせているColaboの活動に似ている…?)
5章では、インドでの生活は1年が経過し、熊谷さんが、クロスカントリー以外のクラブに入るという話が最初に出てくる。
具体的には、貧困地域の子どもとの交流を活動の中心とした「Right for Children」というボランティアのクラブだ。
実際にスラムの子ども達と触れ合った熊谷さんは、先入観とは全く異なる感想を得る。このあたりが、タイトルの「常識ぶっ壊される」の真骨頂だ。
スラムに行くからといって、勝手に悲壮感を覚悟していた。ボランティアに行くことは、ただ自分が与えることだと思っていた。なのに、いま、胸がいっぱいになるほどのあたたかい気持ちを…彼女たちに与えられたエネルギーを…抱えている。p183
このあたりの感受性の鋭さ、もっと言えば陽性のものに対するアンテナの鋭さが彼女の強みだろう。プラスが感じられる→活動を続ける→さらにプラスが感じられる、という好循環がそこにはある。
週一回のスラムへの訪問の過程では、薬物乱用防止に向けた取り組みの一環として、小規模なデモを行うことになり、これも成功させることができた。
この一連の流れは、派手ではないが確かな成功の連続に感動した。そもそも彼女は1年間の学校生活の中でクロスカントリークラブの活動で、十分、学校に居場所を作っている。追加でボランティア活動を行うクラブに入ったのは、彼女の問題意識と積極性ゆえで、それがあったからこそ、単に3年インドで生活するだけでは得られないような体験の数々が生まれたのだろう。*2
ただ、これらの成功の理由を、彼女は、スラムの子ども達のひたむきさに見出しているが、この辺りは、相互作用があるのだと思う。
彼女ではなく、後ろ向きの性格の人であれば、子ども達の中に「希望」を感じることはなく、「悲壮感」を勝手に感じて絶望していたかもしれない。
そして、彼女は自分の活動の意味を、インド人の人権活動家・カイラッシュ=サティヤルティ氏*3の言葉を使って、いまのわたしにできる「一滴」だと説明する。
山火事が起きたときに、ハミングバードが「I am doing my bit(自分にできることをやっているだけだ)」と言って、くちばしに一滴の水を含み、火を消そうと挑み続けたという民話だ。
サティヤルティ氏は、「児童労働の撲滅」そして「子どもの権利の保護」という難題に対して、ひとりひとりが「my bit」の一滴を運ぼう、と呼びかけたのだ。(略)
ハミングバードの話は、自分のやっていることを正当化するための言い訳が主旨なのではない。見て見ぬふりをするくらいなら、ほんのちょっとでもできることがあるはずだ、ということ。そして、その「できること」に責任をもつこと。p206
そんな活動の中で、彼女は、勉強すること、学び続けることの意味、を次のように見出す。そして、知るだけでなく、できる「一滴」の大切さを指摘し、冒頭に挙げた川崎レナさんと同様に「希望」について語る。
わたしの知らないことで、この世界はまだまだ溢れている。
問題なんて山積みのはずだ。そうじゃなきゃ、毎日ニュースがこんなに騒がしくならない。けど同時に、忘れてはいけないのは、その問題がいつか解決するために、少しでもよくなるように、日々汗を流しているひともいるということ。そしてそのひとたちは、ただ知ることで終わってはいけないと教えてくれる。
ただ、わたしが知らないのは、不条理や不可解な問題だけではない。美しいもの、輝かしいもの、尊ぶべきもの…ポジティブなこともまだまだいっぱいあるはずだ。怯えていたインドが、こんなにも美味しいものや楽しいことやあたたかいひとで溢れる宝箱だと知ったように。(略)
だから、顔を上げなければならない。手のひらにおさまる薄い板だけじゃなくて、窓のそとに目を凝らし、手を伸ばさなければいけない。窓が、与えられているのだから。そこに広がる景色が整然としていない、混沌だったとしても。
だって、混沌のなかに希望がないなんて、誰が決めたの?p207
このような体験の連続は、デモを成功させた2019年までで、2020年が始まると、急速にコロナが広まったことで急に終わりを告げる。
2020年からの1年間超は、度重なるロックダウンや急激な感染の広がりで静かに過ごすほかなく、やり残したことが多いまま3年の滞在を終えインドを去る。そして悶々とした時期に、「出版甲子園」応募に向けて体験をまとめたのがこの本ということになる。
ここまでの彼女の精力的な活動を読むと、「本にしよう」と考えるのも自然だな、と思ってしまうが、かなり大変だっただろう。
自分にできる「一滴」を探して
読む前からわかっていたことではあるが、実際読んでみると自分を恥ずかしいと思う気持ちが大きくなる。
熊谷さんが言う通り、子どもの権利や児童労働など、困難な問題を解決するために、日々汗を流している人がいる。それを知り、自分にできる「一滴」を探すことこそ重要だろう。
川崎さんや熊谷さんの活動に対して、親が裕福だったり、経験値が高かったりすること(また、そうに違いないという決めつけ)を持って、(何もしようとしない人間が)素直に敬意を感じず、時に暴言を浴びせるのは、あまりに自分のことを棚に上げ過ぎで恥ずかしいことだ。
過剰に盛り上がるColaboの不正会計問題について、レッテルを貼って叩きまくる人たち(そうでない人も大勢いるのだろうと思うが)と、根本的には変わらない。
志の低い話で恥ずかしいが、できるだけ「彼ら」のようにならないために、まずは、こういった困難な問題の解決に取り組む人たちの活動について「知る」「学ぶ」ことを止めないようにしよう。
また、自分にできる「一滴」が何なのかを出来るだけ多く考え実行に移すようにしようと思った。
なお、この本自体はインド全体での生活や、抱える問題(男女差別やカースト、衛生状況)について数字や国の施策の記載がないため、別で勉強する必要はあるだろう。ただし、ニューデリー付近の生活の様子が生き生きと伝わるサブテキストとしては非常に有用だと思う。