観てから読むか、読んでから観るか、よく聞く話だが、この作品については、映画が先で正解だったのではないか、という気がする。
原作小説は、これは劇薬だ。
特に「なんだこれ!?」というラスト30ページの衝撃。
それに比べると、映画はかなりマイルドで、物語として受け入れやすくなっている。
ラスト30ページについて、解説で豊崎由美さんはこう語る。
亮平と共に大阪に帰ることを決めた朝子が、引っ越しの準備をしている情景から始まるラスト30ページの展開がもたらす驚きとおぞましさは超ド級。何回読み返してもそのたびに目がテンになる朝子の恐ろしいまでのエゴイストぶりは、読者をして「もう二度と恋なんてしない」と震撼させるほどの破壊力を持っているのだ。
映画版のストーリーの大枠は小説と同じなので、映画版にも同じ展開があり、そこに驚いたという点は同じなのだが、原作小説では「朝子の恐ろしいまでのエゴイストぶり」は度を越している。
特に、麦と別れて亮平のところに舞い戻ってきた場面。
小説では、映画と異なり、(朝子から選ばれず、酷く心が傷ついた)亮平の横には(以前、亮平に憧れていた)千花がいる。
(以下、赤字が朝子の台詞)
「わたし、亮平を探してた。会ったら、好きって言おうと思ってた。だから今言う。亮平、わたし亮平といっしょにいたい」
亮平は黙って、わたしを見ていた。少し髪が伸びていた。今日も赤いTシャツが似合っていた。千花ちゃんは、こっちに向き直って叫んだ。
「どっからそんな言葉が出てくるんよ。あんた、自分がなにやったかわかってんの?そんな都合のええ話、あるわけないやろ」
「ちょっと離れててくれへん。亮平にだいじな話があるから」
「なに言うてんの?亮平くんは今、わたしとおるんやで。見たらわかるやろ」
「それは亮平と千花ちゃんとのことで、わたしと亮平のあいだのことには関係ない」
「なにそれ!」
千花ちゃんは足下の石を拾ってわたしのほうへ投げたが、よけたので当たらなかった。 千花ちゃんは呼吸を整え、今度は低い明確な声で言った。
「三十過ぎて友だちも仕事も家もないくせに」
「それはわたしの問題やからなんとかします。五分でいいから、どっか行っててよ」
自分勝手過ぎる。
どう考えても千花の方に肩入れしたくなる話だが、ここまで朝子の一人称で、この物語を追いかけてきている読者としては、どうにもならない。明らかな正解のあるトロッコ問題のトロッコに乗せられた乗客が、丸っきり不正解の方向に舵を切られた感じだ。
このラストシーンを忠実に映像化してしまうと、観客の気分を害するからなのか、映画版では、何とか全体を受け入れ可能なように、色々な設定変更がされている。
- 亮平のことを思っていた珈琲屋の年下の同僚・千花はカット。そもそも、原作では千花が入れ込んでいた亮平を奪うような形になった朝子が珈琲屋を辞めたくだりがあった。ラストの収まりを考えて、朝子-亮平の付き合いは(麦との付き合いと違って)誰も傷つけないと、強調したかったのでは?
- 瀬戸康史が演じる亮平の同僚(串橋耕介)は原作小説では出てこない。映画版では、(亮平-朝子を含む)グループ交際色を強めることにより、麦の異物感を高め、朝子は自らのエゴではなく「麦の怪物的魅力によって道を間違えた」と捉えやすくしている。
- さらに、映画にしかない、亮平と朝子の震災地域への復興ボランティアのエピソードも、やはり、亮平が「正解」だという色を強めている。最後に仙台付近の防波堤で、震災のことを思い出して、麦ではなくて亮平だったんだ、と気がつくくだりも原作小説よりも飲み込みやすい。
- 原作小説では、麦との逃避行は車⇒新幹線。岡山駅で隣の座席で眠っている麦を観て「亮平じゃないやん!この人」と気がつき、寝ている麦を置いて、ひとりでのぞみを降りる。この朝子のエゴ100%の状況が、映画では、麦の車に乗せられて北に向かい、(朝子が言い出したこととはいえ)仙台付近で一人降ろされる、という、麦が悪いやつに見える状況に変えられている。
- 映画版で、麦と別れてからの朝子は、宮城で仲本工事にお金を借りる際にも諭され、岡崎と会いに行き、そこでも周囲に支えられた自分に気づき反省する描写がある。岡崎がALSになっていたという重要な設定変更は、物言わない岡崎からじっと見つめられる中で、朝子が我が身を振り返ることを際立たせたかったのでは?(朝子のエゴを感じさせないため)
そもそも、麦と亮平の見た目は、朝子にとってはそっくりだが、周囲から見ると「言われれば似ている」程度で、朝子の事実の認識自体に歪みがある、という原作小説の核の設定が映画では省かれている。
すべてが、それこそ寝ても覚めても、朝子の思い込みで成り立ってきた恋愛(もちろん朝子の外見に魅力が無ければ成立しない)に、周囲の人物も読者も振り回されまくる、というのが原作小説。
それを映画では、唐田えりか(朝子)を目立たせ過ぎず、東出昌大(麦、亮平)とのバランスを十二分に考えて、観客に与える不快感を最小限に抑えている。
という風にストーリーだけで考えると、小説の方が終盤を受け入れにくいデメリットはあるが、この小説は文体が変わっていて、それがさらに朝子の、とりとめのない言動を補強していて、大きな読みどころとなっている。
ここも豊崎由美さんの解説から引用する。
見てもいないのにテレビを四六時中つけっぱなしにし、出かける時は必ずフィルム式のカメラを持ち歩き、〈見えているもの全部をそのまま写真に撮りたかった〉という願望を抱く視覚の人を主人公にしたこの作品では、柴崎友香の代名詞にもなっている「目の文体」をさらに先鋭化した表現と多々出合うことができるのだ。
このあと解説で引用するのと別の部分から引っ張って来ると、例えば春代が買ってきたデジカメを初めて見たときの朝子の感想が面白い。
朝子はデジカメの液晶画面を覗き込みながら次のように思い、しばらくこの機械を触ることは無いだろうと考える。
そのとき、目の前のすべてが、過去に見えた。モニターの中ではなくて、外に広がる、今ここにあるものこそが、すべて過去だった。カメラで撮られて画像の中に収まり、過去として、記録された光景として、そこにあった。カメラをうれしそうに持っている春代も、珍しがって覗いているえみりんも、うしろの肉を切るカップルも、行ったり来たりする店員も既に過去だった。こうやって、時間が確実に過ぎていくことが、唐突に、一度に、目の前に表された。わたしは、とんでもないことを知ってしまって、しばらく表情を失ってモニターと現実の光景とを、同じ視界の中に見ていた。p118
現在と過去、見ると見られる、カメラで撮る撮られる、まさに「目」に執着して綴るような文章が頻繁に登場し、しばらく日々の視界、視点を意識してしまった。ともあれ、朝子のキャラクターだから成立する文体のようにも感じられ、他の小説で、どのようにして「目の文体」が登場するのか、非常に楽しみになった。
ということで初めての柴崎友香作品は、映画を先に観ていたこともあり、とても面白く読むことが出来た。小説が先だったら、衝撃は大きかっただろうが「面白かった」という感想は生まれないかもしれない。
いずれにしても、他の柴崎友香作品も読んでみたい。