Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ポジティブさに引き込まれる~井戸川射子『この世の喜びよ』

娘たちが幼い頃、よく一緒に過ごした近所のショッピングセンター。その喪服売り場で働く「あなた」は、フードコートの常連の少女と知り合う。言葉にならない感情を呼びさましていく芥川賞受賞作「この世の喜びよ」をはじめとした作品集。

「この世の喜び」とは

これぞ純文学、という感じの何も起こらない系の第168回芥川賞受賞作。

そこで描かれるのが日常の風景だからこそ、自分の人生を振り返りながらも「今」を生きることに対する、主人公のある種ポジティブな感情が、「この世の喜び」というタイトルに表現されている。


この小説は、膨らんだ風船を思い起こさせる。
彼女が思いを馳せるのは、2人の娘の昔と今、そして同僚や職場周りの人物。しかし何より職場近くのフードコートで勉強している少女(女子高生)だ。一度仲良くなった後、少女が姿を見せる回数が減り、もしかしたら距離を置かれているかもしれない状況でも、彼女は少女に伝えたいことでいっぱいだ。それは恋愛に近い。
育児の思い出など人生の振り返りも含め、彼女の内面描写が多いのだが、後半はほとんど、少女にどんな言葉をかけようかを考えている感じだ。両親に不満を持っている少女に対して、子ども時代の親に向けた感情、子育てする立場になってからの子どもへの思い、それらを踏まえて何かアドバイスをしたい、自分の気持ちを伝えたいと考えている。
心に貯めた言葉の数々が風船のように膨れあがったこの状況、そして伝えたい相手がいることこそが、「この世の喜び」なんだろう。

二人称小説であること

二人称小説であることによって、そんな主人公の感情に、読者は引き込まれていく。誰かに何かを伝えようとあれこれ思いを巡らせた過去を振り返り、今の「喜び」についても考えてみる。常にとは言えないが、前向きなときに読めば、彼女のポジティブ思考がインストールされるだろう。

なお、思考も会話も基本的に地の文で書かれて、その中で主人公を示す「あなた」と、彼女が少女に向けた「あなた」が混ざっているので、最初どころか途中も戸惑う場面が多数ある。しかし、そのことで、短いスパンで何度も読み返すことになり、それが味わいを増しているようにも思える。

私がどこかに、通ってきた至るところに、若さを取り落としてきたとあなたは思ってるんだろうけど、違うんだよ、若さは体の中にずっと、降り積もっていってるの、何かが重く重なってくるから、見えなくなって。

→「あなたは思っている」の「あなた」は少女を指す。作中では何度か「若さ」というキーワードが出てくる。後述する江南亜美子さんも同じ部分を引用しているが、作中でも一番好きな部分だ。

少女が、近づく自分を見てうつむいたとしても、それなら出来るだけこれで最後だというように、でも力を込めてそう言う。進む脚に力は均等に入る、スーパーの空洞を循環する暖かな追い風が背を撫でる。あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸を体いっぱいの水が圧する。

これはラストの部分。「あなたに何かを」の部分の「あなた」は少女を指すが、「あなたの胸を」は、主人公を指すのだろう。(この部分はしばらく混乱した。)


井戸川射子の『ここはとても速い川』から『この世の喜びよ』への変化は、作品をまたいだ視点の転換という意味で、今村夏子『こちらあみ子』から『むらさきのスカートの女』(こちらも芥川賞受賞作)への変化に似ている。どちらも、子どもの視点から中年女性の視点に変わるが、『こちらあみ子』『ここはとても速い川』が(子どもの)1人称小説だったのに対して、『この世の喜びよ』『むらさきのスカートの女』はどちらも人称の工夫に特徴がある。(『むらさきのスカートの女』は、むらさきのスカートの女ではない人が語り手となり、彼女を語る)

二人称小説は、これまで数えるほどしか読んでいない*1が、『この世の喜びよ』の二人称の語りは、とても効果的で良かった。こんな風にポジティブになれる小説なら、他にも読んでみたい。


なお、ちょうど昨日の朝日新聞の書評で江南亜美子さんの評が「日常に息づく生の限りなき肯定」というタイトルで載っていた。自分の読後感と重なるところが多かったのは安心だ。それにしても、本文を引用しつつ、評をまとめる巧さは流石だと思う。(以下は締めの部分)

他者との触れ合いがもたらす記憶のリロード。感情のマッサージ。「あなた」は、いま齟齬(そご)を抱える娘たちとの関係をたどり直すことになるのだ。
 「挑むような娘の目を、あなたは一人で見返す。こんな目を向けてもそこにいてくれる人が私にも、若い時にはいただろう、今そんな目をしても受け止めてくれる先はないだろう」
 過去の続きに現在があり、そこであなたも私も誰しも精いっぱい生きているということ。その当たり前の事実のなかに息づく喜びを、小説は決して派手ではないが力強く賛美する。
 「違うんだよ、若さは体の中にずっと、降り積もっていってるの」
 すべての生が肯定される感覚を、普遍に徹して描いた本作。読後は著者の心意気にしばししびれる。
「この世の喜びよ」書評 日常に息づく生の限りなき肯定|好書好日

これぞ純文学!という小説には「何も起こらない系」と「何か起こりそうな不穏な感じ系」があると思う。
『この世の喜びよ』は、主人公の、自己を肯定する気持ちへの迷いの無さが強く、「不穏な感じ」をはねのけた。
彼女のように生きるべく、普段の生活の中での「喜び」にもっと意識的でありたい。

*1:その一冊は竹本健治『カケスはカケスの森』だった。ミステリなので叙述系なのかと言えばそういう記憶はなく、それほど効果的ではなかったように思う。また、重松清『疾走』は読者への問いかけという意味で効果的だった。