Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

絶望の望を信じる…しかない! 〜 重松清『疾走』(文庫 上下巻)

神父は静かに言った。
「手紙は、ここにいないひとのために書くのです」
「そんなん、あたりまえ違うん」
「届かないかもしれない。それでも、ここにいるひとは、ここにいないひとのために手紙を書き続けなければならないのです」
上P291

最近、仕事が忙しい一方、成長が感じられない自分に嫌気が射してビジネス書の類を離れて、小説を読んでいる。初心に戻って何冊かミステリを読んだのだが、選んだ作品が社会性よりもエンタメに偏り過ぎている気がしたので、バランスを取るため、図書館でふと見かけたこの本を手に取った。
結果として、想定していた以上に「重い」作品で、バランスを取るのではなく、逆方向に振れてしまった気がするくらいだ。


さて、この小説を読んだ誰もが感じることだが、一言でいえば「救いのない」物語。
そもそも重松清は、短編集を含め数冊読んだ印象から言えば、いじめなどを題材にして、暖かい話を描く作家という印象があった。(勿論、何度かテレビで見かけた本人の外見や喋り方も影響している。)
今回も、小学生男子を主人公として物語は始まり、学校での友人関係や、3つ上の兄との軋轢みたいな部分に光が当たり、イメージ通りの重松清と思いながら読み進めたのだった。(というか花村萬月の小説であれば、以降の展開の衝撃は小さかったに違いない。)
しかし、こんな表紙の小説が、ほんわかムードで終わるはずはなかった・・・。
疾走 上 (角川文庫)疾走 下 (角川文庫)

ここで、あらすじ紹介。

犯罪へとひた走る14歳の孤独な魂を描いて読む者を圧倒する現代の黙示録。

一家離散、いじめ、暴力、セックス、バブル崩壊の爪痕、殺人……。14歳の孤独な魂にとって、この世に安息の地はあるのか……。直木賞作家が圧倒的な筆致で描く現代の黙示録。

剥き出し費の「人間」どもの営みと、苛烈を生き抜いた少年の奇跡。比類なき感動の結末が待ち受ける現代の黙示録。重松清畢生1100枚!

「どうして、にんげんは死ぬの?」
舌足げなおまえの声が言う「にんげん」は、漢字の「人間」とも片仮名の「ニンゲン」とも違って、とてもやわらかだった。そのくせ「死ぬ」は輪郭がくっきりとしていて、おとなが言う「死ぬ」のような照れやごまかしなどいっさいなく、まっすぐに、耳なのか胸なのか、とにかくまっすぐに、奥深くまで届く。
想像を絶する孤独のなか、ただ、他人とつながりたい…それだけを胸に煉獄の道のりを懸命に走りつづけた1人の少年。現代日本に出現した奇跡の衝撃作、ついに刊行!


全体を貫くキーワードはいくつかある。
作品中で何度も繰り返される3つのキーワードについて、以下に簡単に書いてみる。

「ひとり」

吉田修一『悪人』*1は、最後が男女の逃避行であり、また救われない展開という意味では類似点もある。しかし、『疾走』と比較すれば、まだまともな展開であったように思う。
『疾走』が特に絶望を深くさせるポイントが二個所あった。いずれも、シュウジが「ひとり」から逃れる可能性を示唆して、すぐに潰す、という酷いシチュエーションだ。
まずは、中盤の山場である新田との出会いのシーンで偶然居合わせたみゆき。似た境遇かもしれないみゆきの存在は、逃避行とはいえ、シュウジにとっては、数少ない仲間と言える存在。しかし、ホテルの13階からエレベーターを降り、ロビーに出てから玄関に向かう短い時間の中で、みゆきは捕まり、シュウジはあっという間に「ひとり」に逆戻り。
次に、シュウジが東京に出てから始めた住み込みの新聞配達の先輩であるトクさん。シュウジが人間の温かみに触れ、笑顔を取り戻したかに見えた次の瞬間、まさに「人を見たら泥棒と思え」的な殺伐とした展開になる。重松清は、信じられないほど冷酷非情な人間だと恐ろしく思った。
というわけで、主人公シュウジの「ひとり」は徹底している。だからこそ、エリとの出会いに救いを求める気持ちになるのだが・・・。

ひとごろしの少年が歩く。ひとごろしなど新聞やニュースやサスペンスドラマの出来事だと思い込んでいるひとたちの間を縫って歩きつづける。ひとごろしの少年は、この街で「ひとり」だった。
だが、いつでも声を聞けるひとがいる。いつでも会える---かもしれないひとが、いる。ひとごろしの少年は、この街で「ひとりぼっち」というわけではなかった。
下P167

それ以外にも、「孤立」「孤独」「孤高」の定義についての説明も複数回出てくるなど、「ひとりであること」に対する執拗な追求が物語の特徴とすら言える。

「言葉」

このよううな「ひとり」(であるシュウジ)は何で救われるか、という部分こそが重松清の挑んだテーマなのであろう。
それに明確な答えを出せずに足掻いている感じこそが、物語の魅力であるのだが、ここで、作者が頼りにするのは、やはり自身が物書きであり、伝える媒体が小説であることからくるのか、「言葉」である。

誰かの名前を呼んだことなど、最近一度もなかった。呼びつづけたい相手など、あの町には誰もいなかった。ふるさとはおまえを「ひとり」にした。おまえが「ひとり」になってしまう町がふるさとだった。
いまは違う。名前を呼びたい。会いたいのではなく、振り向いてほしいわけでもなく、ただ、いろいろなひとの名前を呼びたい。
下P67

言葉が多ければむなしい事も多い、と「伝道の書」は言う。「ヨブ記」のヨブは、言葉を遺してほしい、と訴える。
どちらが正しいのか、おまえにはわからない。
ただ---つながりたい。
自分を呼んでくれる言葉が欲しい。自分が呼びかける言葉が欲しい。たとえ、その相手が、幻であってもかまわないから。
下P226

わたしはエリのために祈ります。シュウジのために祈ります。
災いや不幸せをとりのぞくためではなく、二人が、災いや不幸せを背負ったままでも前に進めるように。
いや、前に進む必要すらないかもしれない。立ち止まっていても、うずくまっても、体を起こす気力すらなく寝そべっていたってかまわない。
ただ、絶望しないでほしい。
わたしが祈るのは、ただそれだけなのです。
下P237

冒頭に掲げた神父の台詞の通り、「言葉を送り続ける」こと=祈ることは、無意味かもしれない。届かないかもしれないが、届いてほしい、意味があってほしい、それが重松清の望みである、と感じる。「伝道の書」と「ヨブ記」を引用している部分でも明示されているように、作者自身の中にも相反する気持ちがある。しかし、送る側も、受け取る側(「ひとり」に悩んでいる側)も、やはり「言葉」に何かあると感じていることは確かなのかもしれない。

「ふるさと」

シュウジ、遠くの町に行っても、これだけは忘れないでください。あなたの憎んだふるさとの片隅の小さな庭に、ヒマワリが咲いていることを。その花は、いつも太陽のほうを向いている、ということを。」
下P37

キーワードとして「ふるさと」を挙げておいて何だか、物語中にしつこく「ふるさと」が出てくる理由が自分には、よく分からなかった。何度も聖書が引用されているところを見ると、もしかしたら、最後に生まれた場所に戻る、という構造自体が、聖書や、キリスト教的な基本的な部分をなぞっているのかもしれない。

作者から読者へ

一番重要なことに触れていなかったが、この小説では、主人公は「おまえ」である。
主人公は「シュウジ」なのだが、物語の進行には「俺」「僕」という一人称ではなく、「おまえ」という二人称が使われる。
読み進めると、物語を俯瞰し、主人公を「おまえ」と呼んでいたのは、物語の鍵を握る「牧師」であることがわかるが、その視点は「神の視点」などという超越的なものではなく、そこには明らかに作者自身の迷いが投影されている。
だから、「おまえ」は、主人公であると同時に、当然、読者でもあるのだ。「牧師」→「シュウジ」への呼びかけであると同時に、「作者」→「読者」への問いかけであるのだ。「なぜ生きるのか」という根本的な部分を改めて読者に問いかけてみた小説であると思う。そして、そこが、吉田修一『悪人』との一番の違いであるように思う。
また、ともすれば軽く聞こえる根本的な問いかけが、ここまで重く届いてくるのは、シュウジの「ひとり」が、シュウジの絶望が深いことがリアルに伝わってくるからで、それは、重松清の、膨大な取材が元にあるのだと思う。他のフィクションを読んでそういうことを感じたことはあまりないが、この小説こそは、「取材ノート」的なものをしっかり読んでみたいと思った。
ノンフィクションとしての「取材ノート」であれば、ここまで重い読後感にならなかったはずで、むしろ、読者の精神安定のために出すべきではないか、とすら思った。(既にある?)

追記

重松清による吉田修一『悪人』評を見つけたので引用。
『疾走』は、加害者本人や家族の視点を物語に組み込んだ作品であるといえる。しかし、読者が得るのは「同情」ではなく、社会に対する「怒り」であり、「無力さ」である。「作者自身の気持ちの匂い」を意識的に漂わせた作品と、そうでない作品という、対照的な部分が、この書評からもうかがえると思った。

といっても、吉田さんは決して神の視点に立っているわけではない。引用部分でも明らかなとおり、事件の舞台でもある九州北部の方言をむきだしにした登場人物の語りをそのまま、ごろん、と投げ出す。三人称の場面でも物語の運び手に徹して、作者自身の気持ちの匂いがいたずらに漂わないよう、細心の注意が払われている。

 おそらく吉田さんは知っているのだ。加害者本人や家族の視点を物語に組み込むと、おのずと「同情」めいたものが読み手の胸に生まれてしまうことを。そこから「罪を犯した者にも孤独や悲しみがあったのだ」という方向に読者を導くのはたやすい。逆に被害者サイドの物語からでも「同情」を醸し出すことは容易だろう。


参考(過去日記):「郊外」的生活の中の悪夢〜 吉田修一『悪人』 (力作!)

*1:最近映画化決定→http://www.akunin.jp/。書籍版の公式HPもある→http://publications.asahi.com/akunin/