Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「正しさ」を求めず「迷い、問い続ける」フェミニズム~ひらりさ『それでも女をやっていく』

ひらりささんは、オタク女子ユニット「劇団雌猫」を組んで、いくつか本を出しており、代表作『浪費図鑑』は昨年楽しく読んだ。
そんな彼女が30歳で一念発起し仕事をやめてイギリス大学院に留学し、フェミニズムについて学び、この本(『それでも女をやっていく』)を出すことになった。そんな話を、いつものラジオ番組アフター6ジャンクション(アトロク)で聴き、オタク趣味本メインの人と思っていたらそんな本を…と興味が湧いた。
番組での印象から、ひらりささんがこれまでの人生を振り返りつつ、女性であるから苦労したこと(男性だったら苦労しなかったこと)について書かれた本だろうと思って読んでみた。
つまりは、『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』のような、男性が読むと辛くて逃げ出したくなるようなタイプのフェミニズム本だと想像していた。

総評

確かに冒頭とラストだけを読むと、フェミニズム本に違いないのだが、中盤の壮大な寄り道が、途轍もなく深く重く痛い。この本は、作者が誰かを糾弾する本ではなく、自身が犯した友人への仕打ち*1を血を吐きながら告白するタイプの本だった。正直、途中でこれは何を読まされているんだ…と思うくらい。
でも、それがあるから彼女の意見に芯が通っていると感じられる。


彼女の経験豊富というかネタに事欠かないタイプの人生を一冊にまとめる場合、切り口によっては、(毒親とは少し違うタイプの)母娘本にもなっただろうし、飲酒本にもなったかもしれない。単なる読書遍歴を披露する本にもできただろう。
しかし、そこにフェミニズムという芯を通してみると、不思議とバラバラの話題がまとまって見えてくる。
彼女のフェミニズムは、理論で押し切らない。しかも、自身の性的指向への揺らぎへの言及も含め、迷っている。フェミニズムに辿り着いたのではなく、今もフェミニズムを探っている感じがよくわかる。
真実を「知ってしまった」人が上から諭してくる意見よりも、真実を「探っている」人が仲間を見つけようとしている意見の方が、とっつき易い。
そもそも、タイパ(タイムパフォーマンス)が何より重要とされ、短い言葉で正しいことが言い表されているような断言口調の本が持て囃される中で、ここまで現在も過去も長期にわたって迷っている半生を、分析的に書かれた本は珍しいのではないだろうか。

「タクシーで帰ってほしい」問題

セクハラという観点で書かれたエピソードがいくつかあるが、そのうち二つは、自分にとってはかなり刺さるものだった。


一つ目は、本の一番最初。大学に入ってからの経験を語る部分のエピソード。
彼女は東京大学文科一類に入学するが、男女比的には「ほとんど男子校」で、30人クラスで女子学生は5人。入学早々のクラス飲み会で「男だけの内輪感、その内輪を盛り上げる装置として使われている外野としての自分」という状況に、やり場のない怒りを感じる。
また、大学4年生になっても「男は女の顔をジャッジしていい」と考える”男子校出身”的な男子*2の無邪気な外見品評発言に激しく傷つく。

ここで挙げられる事例は、どちらとも直接的な外見いじりではなく、人によっては笑って受け流してしまう発言なのだが、それでも人を深く傷つけてしまう。男子校から大学に入った自分としては、どこかでやってしまった可能性が大いにあるもので、他人事と考えてスルー出来ない。


また、ひらりささんは、これらの発言について思い出し、不快感を述べるだけでなく、「その場で怒るべきだったのに怒らなかった理由」を分析する。分析の中で、当時は、名誉男性として「東大男子」になり、どんちゃん騒ぎをして爆笑している側になりたい気持ちもあったということまで吐露している。(勿論、今では「怒らなければならなかった」と理解している)
このあたりが、この本のとても誠実なところであり、一方で、さらに自分を苦い気持ちにさせる。これまでの人生で、名誉男性側に入る女性も数多く見ているからだ。それが正解だったのかどうかは本人にしかわからない。

毎度感じるアンチフェミVSフェミ論争の中に欠けているのは、こうした内面の掘り下げだと思う。どんな人にも内面にはせめぎ合いの部分があるはずなのに、そこを無理矢理切り分け、自分の過去の発言・感情すら塗り替えてしまう。これは、アンチフェミ・フェミに関係なく、双方に見られる。(ネット論争は、立ち止まって自らを省みる隙を与えないというのも理由だろう)


そして、もう一つ、この本で最も強く刺さったのは、「男」でフェミニズムの立場に立っている人(=男性特権や加害者性に対しての罪悪感・贖罪意識で女性に向き合ってくる男性)の発言について書かれた文章。
仕事で知り合った出版社の営業の男性と2人で飲みに行ったときのエピソード。盛り上がって深夜2時にひらりささんが先に帰る際「歩いて帰ります」と言ったのに対して、「危ないからタクシーで帰ってほしい」と強硬に主張されたという。ニュアンスを伝えるために長めに引用する。

「自分と別れたあと、東京の夜道でレイプされた女友達がいて。 僕と解散したあとにあなたがそういう目にあったら耐えられない。本当にタクシーで帰ってほしい」
有無を言わせぬ雰囲気に、わたしはゆるめた表情を引っ込めた。 わたしはわたしの人生の中で自分なりに自分の安全を見積もり行動しているつもりだが、彼の経験からすると、どうやら不十分なようだ。理由は理解したし、わたしが折れて数百円のタクシー代を払えば円満に解決するのは明らかだったが、それでもわたしの行動を制限されることには、違和感があった。 「レイプ」という言葉を彼は切実な根拠を示すために挙げたのだろうが、そのときのわたしには一種の脅しを受けたようにも感じられた。それでもその瞬間は、彼を合理的に説得する言葉が浮かばなかった。

彼女は、この経験について思考を重ねる。たとえば「ミニスカートを履いていた女友達がレイプされたことがあるので、ミニスカートを履くのはやめてほしい」と言われたら?等。そうしたことも考えた上で、次のように結論付ける。

つまり、彼のようなタイプの人---男性ジェンダーの加害者性に対して責任を強く感じフェミニズムにたどりついた人が、その反面、目の前のすべての非男性*3に対して"か弱い被害者"という眼差しを向け、相手個人を、ひどく無視してしまうこともあるのではないかということだ。 よく考えたら、飲み会でフェミニズムに関わる話をしている間も、彼の言葉は、自分の罪悪感の吐露が中心だった。本当はわたしは、しゃべっている間は楽しくあろうと努めていただけで、うっすら居心地が悪かったのではないか? わたしは自分で自分を守りたいし、自分の意思で何かを選びとることのできる存在として、わたしを見てくれない人と話したくはない。

この一連の話は、話題に出るたびに悩んでしまう「ソロキャンプ女子」の問題とも根っこが同じだ。
単独行動が好きな自分にとって、ソロキャンプというのは魅力的に映る趣味だ。だから自分が女性だった場合を想像すると、ソロキャンプを望むことを否定されたらとても嫌な気持ちになる。まさに、「何故、一部の悪いやつらのために自分の行動に制限をかけられなくてはならないのか」と。
しかし一方で、自分の娘がソロキャンプに行きたいと言ったら間違いなくやめてほしいと考えるだろう。20代30代に戻って同い年くらいの意中の女性に言われても同じだ。

以前、このあたりの落としどころを考えて、自分もやはりひらりささんと同じ結論に辿り着いた。
つまり、一方的な価値判断の押し付けは、相手をひとりの人間として尊重する考えがないところから生まれてくる、という点でNGであるということ。
「ソロキャンプ女子」の問題は、一律に答えが出るものではないが、相手が(親の保護下になく)自立した個人であった場合、本人がどうしても行きたいという気持ちとリスク低減手段を改めてよく考えて決めてほしい、と伝えるくらいしか出来ないのではないか。


そのように考えていくと、フェミニズムの一番の核は、男女の関係性(対立)ではなく、性別と無関係な、それぞれの個人の尊重にある。
だからこそ、映画『バービー』は、クライマックスで、バービーだけでなくケンも含めた「個人」に焦点が当たるのだろう。
(一方で、無意味に男女間の対立を煽る場面が多いように見えたので、やはり自分はあの映画のことがまだ分からない)
ただ、頭で理解したとしても、それが真に身についていなければ、いろいろと間違える。
未だに、フェミニズムを標榜する作品を見るときに「叱られる」気持ちで見てしまうのも、そのせいだ。もっと精度を高めて考え続ける必要がある。


なお、ひらりささんは、この事例を出したあとで、自分自身の加害者性にも言及している(↓)。このあたりのバランス感覚が、まさに彼女を「信頼できる人」と感じる理由だ。フェミニズムに関する話題への納得感は、このように「信頼」が土台になければ成立しにくいと思う。細かいラリーで勝負をつけたがるTwitter上のフェミニズム論争は、相手を信頼し、理解したいという感覚が皆無で、理論のみの空中戦になってゴールに辿り着くことはない。

彼が自分なりのイデオロギーで実践・発信したことに、救われた人たちもきっといると思う。だとしても、わたしが「潜在的被害者」として彼の気持ちをありがたく受け取らねばならないというのはやっぱり違うだろう。一方でわたしもきっと、総体としての男性の加害者性に厭気を抱きすぎて、男性個人 に 「潜在的加害者」のレッテルを貼ってしまったことが、ないとはいえない。フェミニ ズムの勉強をしていると、自分の加害者性に気づかされることも多い。誰も彼もが、貼られたレッテルに苦しんだり、何がしかで傷ついたりしている。社会にとって正しいと思ってやっていることが、同時に、自分の傷つきを解消するための代替行為でもありえる。じゃあどうしたらいいんだって言われると、わたしの中でまだ答えは出ていない。 すごく難しくて頭がこんがらがる。 

正しくなくてもフェミニスト

この本は、最後に、彼女の考えるフェミニズムについての総括(「正しくなくてもフェミニスト」)があるのだが、その前段に、もう一つ印象的なエピソードが登場する。
英国留学からの一時帰国中に、久しぶりにあった女性の知人と食事をし、フェミニズムに関する自分の意見を嬉々として並べ立てていたら泣かれてしまった、という話だ。
これについても、やはり的を射た分析が挟まる。

  • 知っている、わかっているという感覚は、ときに人を傲慢にするものである。
  • フェミニズムに対して屈託がある女性を無意識にフェミニズム的正論で「説得」しようとしたのは、明らかにわたしの傲慢だった。
  • 「正しく」世界を認識すれば、ジェンダーをめぐる差別をなくすことに女性はみんな同意するだろう、とわたしはうっすら思っていた気がする。
  • 「勉強」は何もえらくないとわかっているのだが、勉強すると自信がついてしまうのが恐ろしいし、かといって勉強が不要というわけでもない。難しい。

ここで、フェミニズムとの距離感について次のように書き、本書の最後で「あなたは、フェミニストですか?」と問いかける。

日本で身近な友人にフェミニズムの話をしてみると、「正しい」「強い」 フェミニストのイメージゆえに、自分にはフェミニストの資格がないと思っている人が多いことに気づく。わたしにも依然としてその抵抗感はある。無謬であること、責任を持つこと、覚悟を持つこと、盛んに声を上げること、連帯をすることなどを背負えるほど十全にフェミニストではないと思っていた。でも、それとは別に「自分のために声を上げられなかった」という傷つきがあるがゆえに、フェミニズムから遠ざからなくてはならない人たちがいるのだということを、わたしは彼女が中華料理屋で涙を見せた夜に、やっと理解できたのだった。 

わたしはフェミニズムのことをわかっていない、女のことをわかっていない、世界の ことをわかっていない。そうした事実をいつでも忘れてしまう。そもそも適切に「正しい」「正しくない」という言葉を使える人間なのか? 「わからない」という意識を持ち続ける上で、わたしの場合は、フェミニストをまだ名乗りきれない、という自認がひとまず必要なのだと思う。"正しさ”の前で立ち止まっている人たちに接続する方法で、 自分のあらゆる文章に自分なりに自分のフェミニズムをひそませていくための、それがスタート地点。ここから、わたしが見過ごしていることの多さを思い知っていきたい。 
だから、わたしは毎日この問いを自分に問うし、この問いのいろいろな答えを知りたいし、それができるだけの信頼を、周りと築いていきたい。「女」を引き受けている人とも、そうではない人とも。焦らず、お互いにとって適切な速度で。それもまた、フェミニズムの実践だと思うのだ。
あなたは、フェミニストですか?

本の中で、あっちに行ったりこっちに来たりする、ひらりささんの「迷い」の中に、フェミニズムに感じていた「正しさ」の押し付けについてや、男性がフェミニズムに向き合うべきか、など、自分の興味の関心が、詰まっていたように思う。
むしろ、(男性である)清田隆之さんのフェミニズム関連本を読んだときより、同じ部分で考え、迷っている人がいるのを知り、強いシンパシーを感じた。そして彼女が考え続ける宣言をしていることに勇気をもらった気がする。このような話題で「アップデート」という言葉が使われることもあるが、これに対するモヤモヤも「正しい方向性」が明確になっているイメージの言葉だからという気がする。今後も、フェミニズムに関する話題には、正しいかどうか、ということよりも、考えることに重きを置いて触れていきたいと思った。

なお、清田隆之さんとは友達になれそうな気がするが、この本の壮絶な友達エピソードを読む限り、自分はひらりささんとは到底友達にはなれそうにないと思う。そういった意味でも強烈な本でした。

(メモ)気になる本

上ではスルーしていたが、この本のもう一つの読みどころは、BLや百合に対する向き合い方の変化についての自己分析。「腐女子」と名乗らなくなったことも含めて、色々と興味深い内容だった。そんな中では、読書遍歴についても披露されているが、気になるものが多かったので、少しだけメモ。

  • 和山やま『女の園の星』:著者が女子校出身でないことが不思議なくらい的確な「女子校あるある」が驚きだという。『夢中さ、きみに。』は読んだけど、これはまだなので早く読まないと。
  • 葉鳥ビスコ桜蘭高校ホスト部』:『ベルサイユのばら』以来の課題だった、男装女子は、女らしさへの呪縛は解いてくれるものの、最後は恋愛が実るために、「本来の性別に戻る」ことが強調されてしまうというジレンマから逃れた男装女子もの。ちなみに「部」は「クラブ」と読むのですね。
  • 宮田眞砂『夢の国から目覚めても』:レズビアン当事者ではない人々が百合を描き読むことの意味に正面から立ち向かう小説。メタフィクショナルな内容を含む。
  • 服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャック』:事件当時の1888年に実在した100人以上の人物を登場させ、切り裂きジャックの正体に迫る小説。

*1:今回、ここには触れない。この本では、女子のみの生活だった中高一貫進学校時代、大学時代、そして就職してから、と節目節目での友達づきあいについて書かれているが、仲良くなった友だちと絶好状態に陥ることを繰り返す。中高6年間を共にした人達と今は音信不通という告白は、かなり重い。おそらく自分は友だちになれないタイプ。

*2:この部分に補足的についている説明はさらに具体的だ。いわく、「つまり、テニスサークルに所属しそこで彼女を作り、司法試験に通ったら当然渉外事務所で初年度年収1000万円をゲットするぞと息巻いている、常に他者をジャッジすることにためらいがない男子」

*3:読んでいる時は気がつかなかったが、ここを「女性」と書かずに「非男性」と書く配慮はすごい。