Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

さらけ出すコミュニケーション~清田隆之『さよなら、俺たち』

さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

読まなくちゃとずっと思っていた清田隆之さんの著作を初めて読みました。
男性の書くフェミニズムの本ということで、女性が書くそれよりも、さらに気の引き締まる思いでページをめくりましたが、「目からウロコ」というよりは、「やっぱりそうだよね」と、これまで自分の考えてきたことをなぞるような本でした。
話題や考え方として新鮮味に欠けるように感じたのは、ここ数年のフェミニズム関係の話題が多く取り上げられ、しかも、性的同意年齢、彼女は頭が悪いから、田房永子の著作等、このブログで書いた内容とも重なるところが多かったからだと思います。
しかし、今回、そういった「フェミニズム」というところを超えて強く感じ、参考にしたいと思ったのは、清田隆之さんの文章の誠実さであり、コミュニケーションの取り方の部分です。

当事者研究的なアプローチ

これまでラジオやネットで清田隆之さんの言葉に触れて、いつもその「さらけ出す姿勢」に、信頼できる人だなあ、と感じていました。特に、フェミニズムに関する話題について、分析的でありながら、その加害性も含め「自分の問題」として語る姿勢に感銘を受けていました。
この本でも、基本的に「自分」と切り離した話題との向き合い方をせず、繰り返し「気づかない特権」について書かれているのが印象的です。
例えば、選択的夫婦別姓を取り上げた部分でも、自身が「これまで自分の姓が変わるという発想をしたことがほとんどなかった」ことを「男性特権」として捉えます。

特権と言うと物々しく感じるが、それは例えば「考えなくても済む」とか「やらなくても許される」とか「そういうふうになっている」とか、意識や判断が介在するもっと手前のところの、環境や習慣、常識やシステムといったものに溶け込むかたちで偏在しており、その存在に気づくことなく享受できてしまう恐ろしいものだ。p183

この項では、選択的夫婦別姓が実現しない理由として、「この問題に関心を寄せる人が増えない」ことを挙げ、その大部分を構成しているのは「考えなくても済む」という特権を持っている俺たち男かもしれない、と結んでいますが、まさにその通りと思います。


また、この本で特徴的なのは、かつての自分へのダメ出しが繰り返されることです。
例えば、学生時代に女友達から受けた「バイト先の先輩にいきなり背後から抱きつかれ、怖い思いをした」という相談に対して、「なんで、ひとり暮らしの男の部屋に行ったりしたんだよ」と言ってしまったことについてセカンドレイプだったと振り返る部分。(p63)
ここでさらに突っ込んで、「なぜ私はあんなことを言ってしまったのか」にまで考えを進めるところが清田さんの特徴です。

心の内側を顕微鏡で覗いてみると、そこにはほの暗い感情の数々が見え隠れしていた。
実は私は彼女に秘かな思いを寄せていた。(略)
改めて考えてみると、そこにあったのは嫉妬、自己アピール、謎の被害者意識、ミソジニー女性嫌悪)にミサンドリー(男性嫌悪)など…直視するのがつらいものばかりだ。でも当時の自分にそのような自覚はなかったし、むしろ”彼女のために”、”よかれと思って”言ってるくらいの意識だった。p64

ほかにも、女子小学生向けの本で「男ウケするモテ技」が取り上げられいるという話(一時期Twitterで話題になった)について、「なぜ男たちはそういった女性を好むのか」(→自分はどうなのか)といった視点から分析していく視点(p92)も非常に面白く読みました。

性欲の「因数分解

「自分をさらけ出す」語りが、性差別だけでなく、性欲にも及ぶところが、この本のスリリングなところです。

このようなアプローチは、森岡正博の「私はなぜミニスカートに欲情するのか」*1で経験済みだったので、インパクトとしては、それには及びませんでしたが、やはりこういうアプローチの文章は少ないので、とても興味深く読みました。

誰かに対して「セックスしてみたい」という思いがわき起こったとする。で、はたしてそれは性欲なのだろうか。「いや性欲でしょ」と即答されたら返す言葉もないが、個人的には違和感がある。その時の気持ちをより細かく見てみると、そこには

  • 身体に触れたい
  • 受け入れてもらいたい
  • 許されたい
  • さみしい気持ちをどうにかしたい
  • 射精したい
  • エロい気分になりたい
  • 相手を思い通りにしたい
  • 相手の思い通りにされたい
  • 今まで見たことのない顔を見てみたい
  • 相手と一体になりたい

…などなど、様々な感情や欲望が入り混じっているような気がしてならない。それらは性欲のひと言で片づけられるものなのだろうか。
どれも切実な気持ちではあると思う。「受け入れてもらいたい」という思いも「射精したい」という気持ちも、手触りのある欲求として想起できる。ただ、これらの中には「セックス」という手段を取らなくても満たせるようなものも結構あるのではないか、と感じている。p190

ここで、清田さんは、例として自身が30代になってから身についた「お茶をする」という習慣について挙げていますが、分析→行動→習慣が有機的に回っているところがすごいな、と感心してしまいます。
「コミュニケーション・オーガズム」という言葉も、言い得て妙だと思います。

そこ(お茶をすること)には刺激も興奮も安心感もあるし、それによってさみしさは埋まり、他者から認められたいという気持ちも満たされる。桃山商事ではこれを「コミュニケーション・オーガズム」と呼んでいるのだが、お茶しながらのおしゃべりでこんな気分になれるなんて、わりとすごいことではないだろうか。

なお、こういった「性欲」の「因数分解」については、自分も意識的に行なったことがあります。清田さんの分析の中には「相手を思い通りにしたい」「相手の思い通りにされたい」という言葉に押し込められていますが、自分の思う「性欲」の中に「暴力的な要素」が確かにあることに気がつき戸惑った覚えがあります。
また、清田さんと同様、自分も男子校出身者で、大学も女子の少ない理系学部であったことから、女性とのコミュニケーションが少なければ少ないほど(もちろん若ければ若いほど)、「因数分解」が雑になる(自分の気持ちを間違った方向に昇華してしまう)ことが実感としてあります。
これに加えて、男性向けのエロメディア(ビデオや漫画、ゲーム)は、(昔から)暴力成分が過多で、明らかな犯罪行為もエロとして消費されています。さらにネット時代では、以前よりも容易に大量にアクセスが可能であることが問題だと感じています。
これらのことから、女性とのコミュニケーションが少なく 「因数分解」が雑 で、大量のエロメディアに慣らされた男性の中から、性欲のために犯罪行為に走る人が出ると考えるのは自然だと考えています。また、こういった商品が大手を振って消費されていること自体にハラスメントを感じる人(男女問わず)がいるのは当然です。
自分は、この本の中で取り上げられるコンビニエロ本問題や『宇崎ちゃん』の献血ポスターの問題は地続きと考えていて、基本的には「もっと規制すべし」との考えです。(個別案件については色々と考える要素があると思います)

これからのコミュニケーション

本を読み進めると、清田さんの「自分をさらけ出す」語りは、文章よりもコミュニケーションの中でこそ大切にされていることが分かります。
清田さんが桃山商事というユニットで行っている恋愛相談の活動は、以前は相談者を「元気づける」ことに主眼がおかれていました(p48)が、数々の失敗を経て、今は、相談者の話を「読解」するように聞いていくというスタイルを取っている(p47)と言います。
そして、相手の話を聞くためには「自分をさらけ出す」ことが重要で、この本の中で頻出するキーワード「being」とも絡めて次のように語られています。

(『セールスマンの死』でくり返し出てくる「what I am」という言葉について)
ここで言う「what I am」とは、直訳すれば「私であるところのもの」となるが、意味するものは非常に広く、その時の感情や思考、置かれている状況やそれまで生きてきた歴史など、その人に関わるものすべてを含む「ここにいる自分(being)」を指す言葉だ。(略)
誰かの話を聞く時は可能な限り相手の「what I am」に想像を馳せ、またこちらも「what I am」として対峙する必要があると考えている。その中には矛盾する要素が平気で共存していたりするし、拠って立つ基準も刻々と変化していったりする。(略)
話を聞く際は生身の自分をそこに置き、目の前にいる相手から発せられる言葉や非言語のメッセージになるべく繊細に反応し、そこで感じたことを素直に言語化していくしかないというのが今のところの私の考えだ。p234

また、清田さんは、平田オリザの言葉を引用し、同質性を背景とした「言わずもがな」の「ハイコンテクスト」なコミュニケーションではなく「ローコンテクスト」なコミュニケーションの重要性を説きます。

今や同じ日本人であっても価値観やライフコースは多様なわけで、同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らない。ゆえに、これからは説明を省略する入コンテクストなやり取りではなく、一つひとつ言葉を尽くして合意を形成していくローコンテクストなコミュニケーションが必要になってくるだろうと平田さんは述べている。多文化が共生する欧米では、こういったコミュニケーションスタイルが基本だ。p135
(略)
ローコンテクストなコミュニケーションとはエンプティ*2を言葉で埋めていく作業であり、言動の意図や責任の所在が明らかになるため、ギスギスしてしまう危険性も孕んでいる。しかし、ばらばらな個人がばらばらなまま存在できる多様な社会を作っていくためにも、私たちは摩擦や野暮さに耐えながらローコンテクストなコミュニケーションにシフトしていくべきだと私は考えている。


実際、今の自分のいる職場では、外国人の同僚(日本語は堪能)が複数おり、自分のときには無かった育児休暇などの制度の充実も図られてきて、働き方が多様化してきています。
ときに自分をさらけ出しながら相手の言葉を引き出しつつ、「摩擦や野暮さに耐えながら」でも、ローコンテクストなコミュニケーションを図っていくことが重要なんだろうな、と強く実感しながら読みました。(10年前に読んでもピンと来なかったかもしれない部分だろうと思います)

また、プライベートな会話の中でも、自分はとにかく「自分の話」をすることに苦手意識があり、趣味の話で盛り上がるのが好きなのは、「自分の話」をしなくて済むからという側面は確実にあります。
今回、清田さんの本を読んで、コミュニケーションが上手く行った快感には、「適度に自己開示できた」という要素が欠かせないということを、自己の経験からも改めて感じました。


この本のタイトルの「さよなら」は、本来「さようであるならば」ということで、「前に述べられた言葉を受けて、次に新しい行動・判断を起こそうとするときに使う」言葉*3だと言います。

自分と向き合い、他者と向き合うためにも、まずは「私」という個人になる必要があるだろう。もう集合名詞に埋没したままではいられない。ばらばらな個人としてみんなと一緒に生きていくためにも、私は「俺たち」にさよならしてみたいと思う。p16

相変わらず、会話への苦手意識はあるわけですが、自分の言動で誰かを傷つけないためにも、集合名詞に逃げず、常に「私」に目を向け「他者」との対話を進めていくような日々の努力を続けていきたいと思います。
もちろん、清田隆之さんの文章を読むことで「頑張っている同志がいる」と自分を奮い立たせることができるでしょう。読んでいない著作が何冊もあるので、時間をおいて、それらも読んでいきたいです。

おしゃべりや読書によって言葉を仕入れ、感情を言語化していく。それを続けていくことでしか想像力や共感力は育っていかない。ハラスメントをしてしまう「気づかない男たち」に必要なのは、そういう極めて地味で地道なプロセスを延々くり返しでいくことではないだろうか。p61

気になるコンテンツ

本の中で紹介されたコンテンツのうち、未摂取で気になるものを挙げます。
ほとんどが、これまでも「読む本リスト」に挙がっていた本なので、最後の一押しになるんじゃないかと思います。
なお、本書における大根仁監督作品への言及や、ぺこぱのネタへの言及は、内容の直接的説明が多く、未摂取者にはなかなか厳しい内容でした。

愛という名の支配 (新潮文庫)

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男がつらいよ

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リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

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神のちから (愛蔵版コミックス)

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参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→自分にとっても非常に大きな一冊だったこともあり、かなり熱のこもった文章です。清田さんの本でも書かれている通り、これほど「怒り」に満ちた小説も珍しいのではないでしょうか。

pocari.hatenablog.com
森岡正博さんもまた、自己と切り離した分析をしない「さらけ出す」文章を書く人です。フェミニズムの定義的説明(命題内容)の裏に隠されている「フェミニズムの残り半分の主張」についての引用には心を打たれます。

pocari.hatenablog.com
→女性が語るフェミニズムは、時に、自分にとっては「辛過ぎる」ものがあります。田房永子さんの著作以外では、やはりこれが強烈でした。こう3冊並べてみると、2年前(2019年)の4~5月は集中的に、フェミニズム関係の本を読んでいるようで、何があったんだろうか?と思ってしまう。

*1:森岡正博『感じない男』

*2:原研哉『日本のデザイン』からの引用。日本のデザインで大切にされてきた「余白」の部分。

*3:竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』からの引用