Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

誰のための字幕か

俳優菊地凛子さんが耳の不自由な高校生を演じ、米国アカデミー賞助演女優賞候補になっている話題のメキシコ映画「バベル」(4月公開予定)を、試写で見たろう者たちが落胆、困惑している。映画は日本も舞台になり、多数のろう者がエキストラで協力した。だが日本公開版は日本語のせりふに字幕が付いておらず、筋を追えないからだ。配給元に字幕追加などを求める署名活動が始まった。

先日、仙台メディアテークに観に行った映画が、ちょうど「聴覚障害者」「視覚障害者」の人も楽しめるように配慮がされたものだったので少しだけそのときのことを。
このときは、画面枠外に字幕がついた状態で日本製アニメを見るという状況だった。自分は、それを見る必要はないとわかりつつも、やはり字幕が動くとそちらも見てしまっていた。この「不自由」を思い出すと、今回の『バベル』が、「非」聴覚障害者への配慮を第一と考えて、「字幕なし」がいいと判断した理由も少し分かる。
しかし、そのとき、自分が驚いた(というか無知を恥じた)のは、そういう「聴覚障害者用」の字幕は、台詞以外の音声も拾っていくという、考えてみればごく当たり前のこと。
「銃声が響き、その後、あたりが静まる」「(軽やかな音楽をバックに)」「(のったりとした音楽が流れる)」など、細かい描写の数々に、のったりとした音楽って何だよ!と突っ込みながらも、そこに至るまでいろいろ考えたであろう、スタッフの苦労を感じ、また、この字幕を見て、自分の頭の中で音楽を鳴らしている人たちのことを思ったのだった。
また一方で、同じ場に来ていた「視覚」障害者の方は、「のったりした音楽」を、自分の耳に聴こえるのと同じかたちで認識しながらも、膨大な視覚情報を言葉で補って映画を鑑賞していたのだろう。
世界の受け取り方が、それぞれに異なること、そして、目で耳で作品に触れることができる自分が非常に恵まれていることにいまさらながら気づかされた。

いのちの食べかた』で森達也は、言う。

大切なのは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
(P114)

勿論、知るだけでは何も変わらないが、第一歩にはなる。
だから、多少の不自由はあるにしても、恵まれた人間が、聴覚障害者にとっての「世界」を知る、感じることのできる機会をつくることのこそが必要だ。
そちらの方が、明らかに「健常者」のためだ。
『バベル』は、こういう映画だからこそ、「聴覚障害者」のためだけではなく、「健常者」のためにも、聴覚障害者用の字幕をつけたかたちで世に出されるべきだと思う。