Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

言葉の意味を問いなおす

京都議定書に関連して、環境関係のHPを幾つか見た。自身の環境問題についての浅い理解(と記憶力の欠如)が顕らかになったが、これについてはまたの機会に。
いくつか見た中で、京都精華大学の松尾 眞氏のHP"松尾 眞ウェブサイト「環境と政治」"がなかなか良い。パラパラと読んだだけだが、関心のあるニュースについての意見も、共感できる。たとえば、「自己責任」論をめぐって考えたことでは、人質になった3人に対してやや中立の立場から、一連の流れについていくつかの問題点を提起しているが、「ボランティア」そのものについての疑問点を挙げているところが特徴的だ。

しかし、それでもやはり、私には違和感がある。「イラク国民を助ける」という言い方、論理である。私はそこに「強者の論理」あるいは「高みに立つ者の論理」を嗅ぎ取ってしまうのである。
たしかに非常に難しい問題である。しかし、たとえ非政府的な人道支援ではあっても、「介入」ということの是非を真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。

この人の文章の中で繰り返し語られるのは、「言葉(語彙)について」であり、そこに非常に共感を覚える。上に引用した中にも「自己責任」という言葉について、以下のように述べている。

こういった、言葉に関する感覚は、全ての人が生活の中で磨いていくべきものだが、それを商売にしているマスメディアでは、当然意識していくべきものであると考える。松尾氏は、別の箇所で言っているように、「語彙の貧困」は思想の貧困の現われでしかない。まさにその通りだと思う。
「加害者少女の心の闇」「インターネット社会の光と影」、10度目くらいから意味を考えなくて使っているはず。視聴者も思考停止に陥ってしまう。
最近、はてなダイアリーキーワードの削除に関して、いろいろな仕組みができているが、テレビ・新聞もそのくらい慎重に「言葉」を考えていいと思う。*1
個人でも同様のことを考えている人が多いようだ。

もし「インターネット」と呼んでいるものがそれぞれ大きく違うなら、「インターネットの闇」と言う評論家も馬鹿だとは思うが、同じくらい「〈インターネットの闇〉とかいう馬鹿な評論家」と言っている人も馬鹿だってことになってしまうかもしれない。原理原則にこだわって一方を「間違っている」と切り捨てたり、無知蒙昧を棚上げにして一方を「理解できない」と放棄したり、努力すらを放棄して「なんかキモチ悪い」とか言ってるのを聞くのは、もういい加減に飽きた。つまんない、それ。
いまからちょっと必要になってくるのは、実はそれよりもっとつまんないことではあるんだけど、「言葉の定義の摺り合わせ」なのかもしれない。

最近、テレビ報道に憤慨することも多いが、怒るだけでなく、常に考えること。言葉の意味を問いなおすことが必要だ。*2ブログが流行っているのは、言葉についての危機感が、日本の中で増加しているからかもしれない。

*1:例えば一週間に使用頻度が30回を超えた言葉はNGワードにして、使用を抑制するとか(笑)

*2:最近は長崎の事件に関連して「教える」という言葉の使い方(可能・不可能/誰が・誰に)が気になります