Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「親ガチャ」的ニヒリズムを乗り越える~戸谷洋志『親ガチャの哲学』

先日『おわりのそこみえ』という本を読んでショックを受けた。
20代女性が主人公の小説だが、彼女は買い物依存で衝動的に欲しいものを買って借金し、借金を返すために働く生活を送っている。
彼女は社会には期待していないし、自分も努力したくない。未来を信じておらず、いつ死んでもいいやと思っている。
学生時代から付き合いのある友人は、裕福な家庭でお金に困らない生活を送っているが、それに対する嫉妬もなく、ひたすら諦めている。この諦めは、もはや「無敵」状態。


この本を読んで、自分には、とても共感しにくい主人公だけれど、もしかしたら、「こういう気持ちわかる」と思って読む若い人が多いんじゃないか、と不安に思った。

というのも、最近、「親ガチャ」や「ギフテッド」など、「生まれたときから人生は決まっているので努力は無意味…」というニヒリズムをはらんだ言葉を聞くことが多いと感じていたからだ。

また、それと合わせて、もしそんな風に考えて、人生に後ろ向きな人が身の回りにいたら、どう付き合えばよいのかと考えてしまった。


『親ガチャの哲学』は、そういう自分にとってピッタリの本だった。以下、内容について簡単に整理し、自分には何ができるのかを考えてみたい。


「親ガチャ的厭世観」にハマってしまうのはなぜか?

親ガチャというのは、どんな親の元に生まれてくるのかは、自分で選べないガチャガチャのようなもので、当たり外れの差が大きいという比喩表現だ。
基本的には、この本は、タイトル通り、哲学的な視点から、つまり、どう生きるか、という視点から、親ガチャ的な考え方を捉え直す。


苦境に陥っている人は、「親ガチャ」的な思考方法で、「辛いのは自分のせいじゃない」と、安心感を得る。つまり、一種の対処方法ではある。
一方で、その考えにハマると、どんなに努力しても自分の人生を変えることができない、という無力感を引き起こし、自分をさらに苦しくしてしまう。(本書では、これを「親ガチャ的厭世観」と呼ぶ)
こういった自暴自棄がひどくなると、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大のような、いわゆる「無敵の人」にも繋がってしまう。


そこで、「親ガチャ的厭世観」に囚われた人が、どのようにしてそこから抜け出せるのか、その哲学的な支援が、この本の書かれた意図と言える。
本の中盤では、そこから抜け出すために(もしくは子ども世代が親ガチャで苦しまないようにするために)、飛びついてしまいやすい2つの考え方をとりあげる。(3章、4章)

  • そもそも生まれて来なければ良かった、という「反出生主義」
  • ガチャではなく、デザインされて生まれてくれば、という「遺伝子操作」

しかし、そもそも、親ガチャ的厭世観が苦悩をさらに深めるのは「自分の人生を自分のものとして受け入れることができない」からである。上記2つの考え方では、それを解決できない。
特に、遺伝子操作については、遺伝子操作により最強のポケモンとして生まれたミュウツーを使った説明がわかりやすい。彼は生い立ちに苦悩し、自分を生み出した世界への怒りを募らせる。これは「親ガチャ的厭世観」の根本にある苦悩と変わらない、という説明だ。


つまり、結局、そこから抜け出すためには「自分の人生を自分で引き受ける」覚悟が必要だ、というのが、この本の最終的な結論だ。
しかし、そもそも辛い状況から逃げ出して来たのに、自分自身で責任を取れ、と「自己責任論」的なアドバイスは簡単には受け入れられない。
(「自己責任論」の押し付けにならないように、結論を受け入れてもらうにはどうすればよいか、というのは、この本全体から感じる最も大きなテーマで、その試行錯誤がところどころに見られる。)
そこで、「自分自身の人生を引き受ける」という「説得」のために、5章では、ハイデガーを引き合いに、決定論と責任について説明する。この章が一番哲学的で、一番難しいのだが、よく読めば「説得された感」はある。
それに対して、最終章の6章冒頭では、以下のようにシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を引用しながら、改めて、自分の人生に向き合う難しさを説く。これでは議論は行ったり来たりだ。(自分の人生を自分で引き受けることが必要[5章]→いや、やはりそれは難しい[6章])

あるとき彼女は、生まれつき身体が弱いにもかかわらず、当時の社会問題となってい た過酷な労働を体験するために、工場に勤務しました。その記録が、『工場日記』という本のなかに残されています。彼女は、その現場から洞察した、苦境に陥った人間のあり方を次のように描いています。
ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかという本当の理由をつい忘れてしまうことがある。こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。
p178

この本は、同じ説明を表現を変えて繰り返す場面が多く、丁寧ではあるがまどろっこしいのが短所で、この部分も行きつ戻りつ、なかなか進まない。

しかし、その後の論理の展開が自分にとっては非常にドラマチックだった。

私たちには何ができるのか

6章は、「親ガチャ的厭世観」に囚われている人が、そこから抜け出すのを、周囲の人はどう支援していけばよいのか、について書かれている。これこそ、自分が読みたかった内容だ。
こういった「私たちが解決するべき課題」について、戸谷さんは、鷲田清一の言葉にヒントを見出している。

哲学者の鷲田清一は、対話のなかで相手の言葉を「聴くこと」のうちに、その鍵を見いだします。
聴くこと、それは文字通り、相手の言葉に耳を傾けることです。ただしそれは、相手に同意したり、相手の意見を支持したりすることを意味するわけではありません。鷲田によれば、そうしたことは問題ではありません。重要なのは、「私はあなたの声を聴いている」ということ、「あなたの声がきちんと私には届いているよ」ということを、相手に伝えることです。
自分の言葉が他者に届いているという感覚、他者が自分の声を待ち、それを迎え入れてくれるという感覚、そうした感覚は、苦境に陥っている人に不思議な力を与えます。一人ぼっちでは自分自身について考えることができないかも知れないけれど、自分の言葉を誰かが聴いてくれる、それも、どんなことを言おうとも、内容に関わりなく、それを聴いてくれるという確信を持てるなら、自分自身を語ることを通じて、自分と向かい合うことができる---鷲田はそう主張します。  
p180

このあたりから、どんな立場の読者も、この話題は、親ガチャに限った話ではない、と感じられるようになってくる(誰にとっても、自分の意見を聞いてもらえることは嬉しく、心の支えになる)
ただ、ここでも、論理の展開は非常に慎重だ。

  • 他人が自分の声を聴いてくれることへの信頼は、現代日本ではどんどん失われている。
  • かつて存在した地縁と呼ばれるコミュニティは、もはや存在せず、あったとしても信頼感はない。
  • このような中間共同体のない社会では、「保育園落ちた日本死ね!」のように、家庭がダメなら国家に助けを求めるしかない(と思ってしまう)
  • だから地縁社会を復活させる、というのではなく、人為的に対話の場を創出しよう、というのが戸谷さんの考え。(ここで例として挙がるのは「哲学対話」)
  • しかし、苦境に陥っている人ほど、そうした対話の場に赴く余裕(時間的な余裕、経済的な余裕)がない、という大きな問題がある
  • 国民に保障される「健康で文化的な最低限度の生活」に、対話にアクセスできる権利を組み込むべき。

さて、読み返してみると、6章は、共同体について2つの提言が並行して進み、読者を混乱させているように感じる。戸谷さん自身も、それを懸念してか、これまでの議論の整理を繰り返し行うが、それがさらに議論が進んでいない印象を与えて混乱を深める。
自分なりに整理すると、ここでは、親ガチャ的厭世観から距離のある「私たち」が、どのように「共同体」と関わるべきかについて2つのことが書かれている。

  • 対話の場となる共同体を創出し、もしくはそこに参加し、相手の言葉に耳を傾ける
  • 国家共同体による社会保障を充実させるために(もしくはもっと狭い共同体による包摂性を担保するために)、想像力を働かせて、連帯の輪を拡げていく

実際には切り分けることのできない部分もあるが、後者のアプローチに重きを置いているのが6章ラストの文章で、前者のアプローチに重きを置いているのが終章ラストの文章だろう。

親ガチャ的厭世観を乗り越えるためには、社会による連帯が必要です。しかしその連帯は、決して、出生の偶然性を否定するものではありません。むしろ、私たちが、自分の選んだ人生を歩めないからこそ、私たちは連帯できるのです。
いずれにせよ、親ガチャ的厭世観に苛まれ、「無敵の人」になりかけている人に対して、責任の主体であることを要求するなら、私たちはそうした人の苦しみを最大限の想像力を持って想像し、そして連帯する努力をするべきです。努力なしに、他者に対して責任の主体であることを求めるのは、許されない暴力と言わざるをえないでしょう。
(p206:6章ラスト)

最後に、改めて、筆者の立場を明確にしておきたいと思います。
自分自身を引き受けるということは、対話の空間に参入できるということを、可能性の条件としています。私たちが現代社会のニヒリズムに抗うために、まず変えていくべきことは、そうした対話の場を少しでも社会のなかに創出していくということであって、決して、親ガチャ的厭世観に苦しんでいる人に対して、価値観の変更を迫ることではありません。その条件が成立していない限り、価値観の変更などできるはずがないからです。そうした要求をすることは、結局、自己責任論を押し付けることになり、さらなる苦しみを生み出すだけになります。(略)
私たちは、自分のできる場所で、自分のできる範囲で、他者と対話する機会を、この世界に創り出していくべきです。そこで何が語られるかは重要ではありません。ただ、誰かに話すことが許されること、誰かが自分の話を聴いてくれることを信じられること――それが、現代社会のニヒリズムへの、根本的な抵抗なのではないでしょうか。
(p220:終章ラスト)

前者の「想像力」について、戸谷さんは、ローティの言葉を引き、「私」の目に見えないところ、知らないところで、人々が傷ついているのではないか、苦しんでいるのではないか、と思いを馳せること、そして、そうした人々が自分の仲間であると感じること、そうした感性を育むことが欠かせない、と説明している。
個人的には、そういった感性を育むためには、読書が効果的なのだろうが、最近は、ドキュメンタリー映画を観る頻度を増やしたいと思っている。単なる「知識」よりも「人物」や「物語」への感情移入の方が自分にとって強度が大きいからだ。


後者の「対話の場」については新たに「創出」するのはハードルが高いが、場に参加して他者の言葉に耳を傾けるということ自体は、ビブリオバトルで定期的・継続的に実践しており、馴染みがある。なお、まさに、この本をビブリオバトルで紹介したら、他の参加者から、戸谷さんは、一時期ビブリオバトル界隈でもよく姿を見せていたという話が出てきて驚いた*1。もしかしたら「対話」の一形態として想定されているのかもしれない。
また、この本の中で挙がっている「哲学対話」については、永井玲衣さんがラジオで行っているのを聴いたことがあり、参加できる場があれば顔を出してみたい。
もちろん、「人の話を聞くこと」自体は、その効果も意識しながら、家族や身の回りの人に積極的に行っていけるだろう。


ということで、何となく、モヤモヤしていた「親ガチャ」に代表されるニヒリズムへの対抗手段について探ることが出来た、良い本でした。戸谷さんは、他の本も面白そうなものが多く、読んでみたいです。

*1:お会いしたこともあるかもしれない、というか、お会いしている可能性が高い