Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

個性を尊重しているようでいて他人の意見を切り捨てる「人それぞれ」論

今回は最近読んだ3冊を振り返りながら、対話について学んだことを整理したい。

富永京子『みんなの「わがまま」入門』

納得いかない政治が続くことから、最近でこそ、ネット署名の活動に参加したりすることはあるが、これまで一度もデモに参加したことがない。そこに、自分自身が持っている社会運動への「悪いイメージ」があるのは間違いない。


この本は、基本的に「わがまま」という言葉を使いながら、社会運動に対する拒否感を減らし、ひとりひとりが「わがまま」を言っていくことでよりよい社会にしていこう、という内容。
著者の富永さん自身が、社会運動について研究をつづけながら、自身は社会運動には積極的に携わらないという方で、だからこそ、「社会運動が、なんとなくイヤ」という感覚を十分理解しつつ、その背景を適切にひも解いている。
また、この本が中高一貫校向けに行った講演をもとにしているということもあり、非常に語り口は易しく理解しやすい。


章構成は1時間目~5時間目。

1時間目では、「日本が30人の教室だったとしたら」というたとえを出し、一見同じに見えるけれど、統計データから見ると社会は多様で、皆がイメージする「ふつう」は相当無理して維持されている、ということが示される。つまり、実際にはネットやグローバル化の状況の中で個人化が進んでいるにもかかわらず、70~90年代に形成された「みんなが同じような条件で、同じように生活している」という「ふつう幻想」が残っていることが、苦しくても「わがまま」を言い出せない雰囲気を作っていると分析される。

また、2時間目では、日本での社会運動に対するよくあるバッシングを取り上げて、それに逐一返答していく形で社会運動に対するハードルを下げる。

  • 批判するからには、別の案があるんだよね
  • 社会のためとか、意識高いよね(笑)
  • 社会運動って迷惑じゃないですか?
  • 価値観の押しつけでしょ
  • 頑張ってないやつのやっかみでしょ
  • やっても社会変わんないじゃん

このあたりの言葉は「バッシング」として以上に、自分自身にブレーキをかける言葉としても機能している。こういった言葉にどう向き合うかが示されていることで、社会運動への一方的な「悪いイメージ」は少しずつ減っていく。


3時間目前半では、いざわがままを言おうとして場合、どこまでが「セーフな」わがままで、どこからが「アウトな」わがままか、ということに悩んでしまうという問題を取り上げる。
これに対しては「セーフ」「アウト」は事前に「わがまま」を言う人が判断するのではなく、「わがまま」を言った後にみんなが話し合って決める(多数決ではない)ものとしている。(この辺りは、後述する「みんなの学校」の木村さんの意見と共通する)


このあたりまででちょうど半分で、自分の問題意識に合った内容だったが、後半は失速する。具体的には、「わがままを言えない今の若者」に対して丁寧に説明し過ぎて、ほとんど先に進まなくなってしまう。


このことによって、本の内容とは別に、今の若い人たちは「わがまま」を言うことにここまで後ろ向きなのかという印象を強く受けることになった。
例えば、後半の4時間目では、わがままを言う練習としてZINEの作成を薦めている。

「好きなものを好きって言う」「自分が関心のあることを言葉にする」っていうのは、「わがまま」を言うための土台づくりにちゃんとなると思います。みなさん、日常会話のなかではきっと人に合わせがちになってしまうから、好きなものを好きなだけ、好きな形で語るのも意見を言うトレーニングになるのではないでしょうか。p197

「わがまま」を言うのに抵抗感があるのはわかるが、「好きなもの」について言葉にすることにも、そこまで背中を押されないとダメなのだろうか。自分が目にする大学生や20代の人たちは、(好きな本について語る)ビブリオバトルに集まるようなタイプなので、自分の「若者」観とは大きく違ったが、もしかしたら彼らは少数派タイプなのかもしれない。

なお、ここで何故ブログなどのネット媒体ではなくZINEなのかといえば、ミニコミ誌では、ほどよく「鍵がかかる」というメリットとがあるからだという。
つまり、仲間うちでのSNSは得意だけれど、非特定の人たちを対象に自らの意見をいうことにはとても慎重なのが今の若者ということらしい。この章では、「自分をカテゴライズしない」というアドバイスも出てくるが、このあたりは、自身のキャラ設定への悩みを聞くことが多い「最近の若者」っぽさを感じる。
富永さんは大学で教えてくるので、本の中でも大学生の話がよく出てくるが、その感覚は実情を反映しているのだろう。


最後の5時間目の、自分と無関係の他人のことでも「わがまま」を言ってもいい、と諭すくだりなどもとても分かりやすかったのだが、とにかく全てに対して「大丈夫だよ、自分の意見を言ってもいいんだよ」という、若者を思う富永さんの優しい気持ちばかりが伝わってきて、何とも言えない気持ちになった。

尾木 直樹 、 木村 泰子『「みんなの学校」から「みんなの社会」へ』

2015年に公開されたドキュメンタリー映画『みんなの学校』は、大阪のある公立小学校の日常を描いたもので、その特徴のひとつに、大人も子どもも皆で正解のない問いを続ける「全校道徳」がある。
主に道徳教育について、この小学校の校長だった木村泰子と尾木ママこと尾木直樹の対談をまとめたブックレットがこの本。

富永京子『みんなの「わがまま」入門』でもあったが、ここでも「ふつう」が取り上げられる。

学校や社会では、大人にとっての「あたりまえ」や「普通」を子どもたちに押しつけるケースが多々あります。僕は「あいさつ運動」や「食べ残しゼロ運動」といった言葉に違和感を覚えています。

尾木ママの言葉は、「あいさつは良いもの」「食べ残しはダメなもの」という道徳の押しつけが子どもを苦しめることに対する意見だが、木村さんは、あいさつ運動は、先生と子どもの結びつきを断ち切るという弊害についても指摘する。つまり、子どもは見せかけだけに走り、そのことで、先生は子どもの悩みなどの状況が見えにくくなる。


後半は、2018-2019年に行われた小中学校での「道徳の教科化」*1の動きに話題が移るが、一貫しているのは「対話」こそが重要だという指摘だ。

子どもたちが納得する方法は「対話」以外ありません。議論になるとどうしても勝ち負けが出てしまいます。頭ごなしに「そんなことしてはダメ」ではなく、「私はこう思うけど、みんなどう思う?」「なるほど、そう思うんだ。なんでそう思うの?」という具合に、子どもと対話を重ねていくことが大切です。
(略)
子どもたちは、困っている子がいたら、大人が邪魔さえしなければ、「お前、なに困ってんねん。俺、助けたろか」と、子ども同士の自然な関わり合いをします。大人が「この子、障害があんねん。この子のこと面倒見たりや」と、訳のわからない正解を言って指示をするから、子どもは納得して行動しないのです。
そして、子どもが困っている友達に関わっている場面に遭遇した先生がすべきことは、「先生、あんたの行動みて学べたわ」と自分が学ぶことです。それを「障害のある子にも親切にして偉いね」なんて言うから、褒められたい子どもがどんどん増える一方で、「なんでいつもこいつの世話せなあかんねん」と、教室がとんでもない空気になってしまいます。

道徳の教科化の一番の問題は、本来多様である価値観に対して、一方的に正しいとされる価値を教えることが目的化してしまっていることにある。
道徳について「正解」を教える弊害が、有名な「星野君の二塁打」や「れいぎ正しいあいさつ」(以下の問題:正解は2!)を例に示される。

つぎの うち、れいぎ正しい あいさつは どのあいさつでしょうか。
1 「おはようございます。」といいながら おじぎを する。
2 「おはようございます。」といった あとで おじぎを する。
3 おじぎの あと「おはようございます。」という。

「礼儀正しい挨拶」の正解について、子どもたちが疑問に思って説明しても「正解は2と教科書に書いてあるから」という説明に先生に終始してしまうことがさらに問題を悪化させてしまうのだ。
おかしなことがあれば、変えていくことが重要で、このあたりは「みんなのわがまま」で書かれていた内容と重なる部分があるが、以下の引用で「文句ではなく意見を」と強調しているのは、「対話」の過程こそが重要という意味だと理解した。

様々な問題を扱う際、文句ではなく意見として、対話をしていかなければならないと思うんです。先ほども説明しましたが、文句はその人の主体性もなければ未来にもつながりません。落書きと一緒です。しかし、意見はどんなに耳の痛い意見でも、主体性があります。意見と意見は時に対立しますが、そこに主体性があって良いものを一緒につくろうという目的があれば、必ず接点が見つかります。文句は問題提起のモチベーションにはなりますが、そのままでは世の中を何一つ変えません。

ひとりひとりの大人が、文句ではなく意見を持って周りと対話を続けることで地域社会が変わっていく。そのことが実践として示された『みんなの学校』を全国に少しでも広げていきたい、ということがコンパクトにわかるブックレットだった。

山口裕之『人をつなぐ対話の技術』

2冊の本では「対話」の重要性に改めて気づかされたが、まさに「対話」がタイトルに入ったこの本では、もう一つ大きなキーワードを知った。「人それぞれ」論だ。

具体的には、この本の第3章が、ここまでの2冊の話に直接つながる内容を含んでいる。

  • 第3章 「正しさは人それぞれ」、なんてことはない
    • 1 「正しさはひとそれぞれ」が横行している
    • 2 「個性尊重」が人と人とを分断する
    • 3 『心のノート』が連帯を阻む

10年くらい前から、授業中に発言を求めると大勢の学生が「正しさは人それぞれ」と言うし、レポートを書かせると「正しさは人それぞれ」と書く。そういうことが増えてきたという。

学生たちが「個性を尊重する良い言葉」として好んで使う「人それぞれ」は、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。
そのように言う山口裕之さんの意見は、金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」に喩えた「人それぞれ」論への批判を読むとよくわかる。

金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」は良い詩だと思うし、多様性を尊重することは重要である。しかし、それは、多様なものがそれぞれ両立可能な場合に限ってである。「私は安保法案賛成、あなたは反対、みんなちがって、みんないい」では採決できないし、「私はコソ泥、あなたはテロリスト」でいいはずがない。障害のある友だちがいた場合など、「尊重する」ことは、「みんなちがって、みんないい」と言ってほったらかしにすることではなく、親切を押し売りすることでもなく、きちんと対話して、相手が求めたときに手を貸してやることである。(p158)

障害のある友だちへの対処の話は、「みんなの学校」の木村泰子さんの話とも通じ、「人それぞれ」を指針に行動すれば、対話を避け「ほったらかしにすること」になるという指摘もよくわかる。
これを進めると、「わがまま」を言いにくい空気も、「人それぞれ」論がとセットの「対話を拒否する」空気にあるのではないかということに思い当たる。
国会議員の今井絵理子(元SPEED)が掲げて話題になった「批判なき政治」も根っこは同じで、「正しさは人それぞれ」なので、私の意見にはケチをつけずに尊重してほしい、というスローガン。繰り返すが「人それぞれ」は「対話を拒否する言葉」なのだ。

少し考えてみれば明らかなように、「人それぞれ」は、他人の意見をよく聞かずに切り捨てる言葉である。どんな意見についてであれ、「もう聞きたくない」と思ったときには、「まあ、考えは人それぞれだからね」で終了させることができる。多くの学生がこうした言葉を常用しているということは、対話を拒否する態度が蔓延しているということである。
p155


山口さんは、学生たちが「人それぞれ」という言葉を「個性を尊重するよい言葉」だと思っているその理由として「教育」を挙げている。少し駆け足で概要を書く。
1990年代のいわゆる「ゆとり教育」のタイミングで、学校教育は「学力重視」から「個性尊重」に大きく舵を切る。さらに、「自己分析」が就職活動に大々的に導入されるのは、1990年代半ば。金子みすゞの詩が教科書に掲載されるのも同じ時期。さらに2002年に「世界に一つだけの花」が大ヒットして「個性尊重」は確固とした価値観として普及する。

自分は、「個性」や「その人らしさ」なるものが、その人の心の中に入っている、という見方そのものが間違いである、という山口さんの意見に賛同する。「もともと特別なオンリーワン」の個性があるのではなく、さまざまな人との関係性の中で(対話を重ねる中で)成長していく、そこにこそ「個性」が生まれる。

にもかかわらず、現在の子どもたちは、小学校入学以来、ひたすら自分を見つめ続け(『心のノート』などを通して)自己分析をずっとさせられている。
その一方で異なる意見と出会ったときに対処方法について学ぶ機会がない。
だから、無知や傲慢から自分勝手なことを言っている人に出くわしたときには、「正しさは人それぞれ」とつぶやいて、関わらないようにするしかできないし、反対に、自分の考えに対して「それは間違っている」と指摘してくれる相手には戸惑うしかないようだ。学生のレポートに対して山口さんが丁寧にコメントを加えると、「真剣な思い」で書いたレポートを批判されたということで「心が傷つく」らしい。
このあたりのエピソードは、最初に挙げた『みんなの「わがまま」入門』でも書かれていた「自分をカテゴライズしない」という若者向けのアドバイスとも重なる。子どもたち(高2、中2)を見ても、感覚的には、自分が小中学生のときと比べて何倍も「自己分析」をしているように見える。
だから、本の中で「現在の子どもたち」「学生」を対象に広まっている考えとして「人それぞれ」論を取り上げているのは合点がいく。


ただし、自分には、それが若い人のみに普及しているとは思えない。
直接、「個性尊重」の教育を受けていない自分や山口さんと同様の40~50代も、その影響を大きく受けているように思う。『世界に一つだけの花』は様々な世代にヒットした曲だし、金子みすゞの詩も同様だ。また、日々ネットで見ている「対話を拒否する」コミュニケーションは、世代関係なく行われているといえるだろう。

そもそも「個性尊重」の前の学校教育はどうだったかと言えば、詰め込み教育が行われる一方で「無邪気に」いじめや差別が行われていただけであって、「対話」についての教育は受けた覚えがない。
そう考えると、むしろ「個性尊重」「人それぞれ」論をありがたがって受け入れたのは、自分たちの世代(団塊ジュニア)も同じような気がしてくる。
そして「個性尊重」を唱えながら対話を拒否する姿勢を実践しているのは、『人をつなぐ対話の技術』でも何度もとりあげられる、第一次政権時も含めた安倍政権の政治家たちがその典型的であ、さらに上の世代だ。


山口さんは、政治家を次のように捉えている。

われわれは、議員を「妥当な結論を見つけ出すための対話を行う代表」として選出するのであって、全権を委任して好き勝手やらせるために選ぶのではない。p139

まさにその通りで、安倍政権に続く菅政権でも対話を避ける姿勢は鮮明で、このコロナ禍の緊急時に国会も閉じている。(野党の臨時国会召集要求に応じない)
対話を避ける姿勢と官僚の無謬主義が融合して、文書改ざんが起きてしまったのが森友文書改ざん事件だともいえる。


一方で、「対話」が求められるのは政治家だけではない。

民主主義の本質は多数決でなく、すべての人が対等な立場で自分の意見を根拠づけて主張し、討議し、お互いに納得できる合意点を探るところにある

というのが、この本の民主主義の捉え方である。つまり、すべての人は、普段から自分の思考力を鍛えるべく努力が求められている。ネットとの付き合い方で言えば、自説を強化する耳障りのよい言論だけでなく、意見を異にする人の話にもできるだけ耳を傾け、子どもたちとも「対話」をする機会を増やしたいと思った。
この本の中では、さらに「対話の技術」について具体的な方法等も述べられているが、それについてはまた次の機会に触れることにしたい。


⇒参考:このような「対話」を拒否した「人それぞれ」論の典型がDaiGoの差別発言だと思います。
pocari.hatenablog.com

*1:「道徳の教科化」のそもそもの目的が「いじめをなくす」ことにあったというのは驚きだ。