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太田雄貴「校長先生」発言は笑えない~小沢牧子・長谷川孝『「心のノート」を読み解く』

この本は、2002年に文科省が全国の小中学校に「心のノート」を配布したことに対して、その問題点を、小沢牧子さん(1937生まれ)、長谷川孝さん(1941生まれ)、北村小夜さん(1925生まれ)の3名が文章を寄せて、さらに小沢牧子さん、長谷川孝さんを含む4名の対談をまとめたブックレット(2003)。年齢層は高いが、だからこそ、「教育勅語」との比較が実感を持って語られており、読みごたえがある。
なお、この本を知ったのは、これまで何度も取り上げた『人をつなぐ対話の技術』という本で取り上げられていたからなのだが、実際に読んでみようと思った理由は、編著として名前を連ねている小沢牧子さんが小沢健二オザケン)の母親だからというミーハーな理由も大きい。

『対話の技術』にも書かれていたことだが、この本を読むと、改めて、日本社会が「個性尊重」重視の方向に向かっていることに「心のノート」に代表される「教育」が大きく関与しているということがよくわかる。若干、右寄り政策許すまじ、というイデオロギー的な部分は感じなくもないが、それを差し引いても教育行政の変化に対する問題は強く感じる。

「心のノート」は、通常の教科書作成の手続きを経ずに、2002年に突然現場に配られた特殊な存在であるということも初めて知ったが、それ以外に興味深かったポイントについて取り上げたい。

「社会科」への攻撃の歴史

小沢さんが強調するのは道徳の強調と社会科への攻撃はセットになって行われてきたという事実。
戦後の流れとして、それまでの「修身」「教育勅語」による忠君愛国教育に代わり、子どもたちのモラルを形成する教育を担ったのは社会科で、この中では「基本的人権の尊重」が大切とされた。
しかし、戦後10年を経たころ、社会科を問題視してきた政府は「道徳」の時間の特設を強行。
1987年の臨教審の答申は、社会科の解体・再編を行うもので、小学校社会科(1,2年)を理科と合わせて、道徳色を持った生活科に。また、高校の「現代社会」は必修科目から外す等。
そして2002年に「心のノート」、となる。
ただ、調べてみると続きがあり、2022年度以降の高校の履修科目から「現代社会」が廃止され「公共」が新設されるという。

www.mag2.com


記事を読むと、「公共」の学習内容では、現在の「現代社会」で扱っている「基本的人権の保障」や「平和主義」が削除されたという話も出てきており、あからさま。ただし、戦後の流れの一環として見ると、安倍政権があからさま過ぎたというのはあるにしても、戦後の自民党政治はずっと同じ方向を向いていたことがわかる。

心理主義とカウンセリング

小沢さんが、道徳の強調と社会科への攻撃と合わせて問題視するのは、学校への「心理主義」の導入である。

心理主義は「わたし=個」を強調し、個の内面に目を向けさせる役割を果たす。「社会科=わたしたち」から「個人科=わたし」への移行、仲間との関係から個の内面への転換は、この側面からも起こり、両者(社会科への攻撃+心理主義の導入)は合体して『心のノート』の出現へと至っているのである。

小沢さんらの、この「心理主義」への抵抗は強く、さらにはカウンセリングや心理学のみならず、学校へのカウンセラー導入についても慎重な立場をとっていたようだ。
ただ、以下を読むと納得できるところがあるし、実際、自分の周囲でも学校カウンセラーの存在によって事態がプラスの方向に向かった話はあまり聞かない。

不登校や「いじめ」「学級崩壊」などの形で起こってくる「問題」が、子どもの「心」に起因するものであると見て、その内面や親の接し方に収斂させられていくとすれば、それらの相談は、時代や社会のなかで生きていく子どもの悩みや苦闘を矮小化する結果をもたらすことになる。p53

また、カウンセリング自体に対する嫌悪感は『心のノート』に対する以下の文章からも伺える。

心理学者も関与しているし、カウンセリングのメカニズムと似ていますね。自分で語らせる。でも、その答えは自由じゃない、求められている答えがあるんです。それを推測して、自分の言葉で答えに到達するわけです。それが自分自身になるわけです。その方法がうまく使われていて、怖いと感じます。p76

こういった理由からカウンセリングに対してはとにかく批判的で、『心のノート』編集委員の座長でもあった河合隼雄に対しても良い思いを持っていないようだ。河合隼雄は、高校時代に著作を読んで感動した思い出があり、全く悪い印象を抱いたことがなかったので意外だが、確かに片棒を担いだことは確かなんだろう。
カウンセリングという行為自体についてまで疑問視するような書きぶりは気になるが、学校教育の現場に合わない、ということはわかった。学校カウンセラーに関する本は読んでみたい。

「修身」と同じところ違うところ

最高齢の北村小夜さんは、『心のノート』を見て、肇国(ちゅうこく)と忠義がないだけで「修身」と同じだ、と感じたという。教師用に配られた『心のノート活用のために』という手引書に書かれている内容を読むと納得感はある。

それは子どもの権利条約や多文化共生の視点を欠いた次の4つの視点で分類されている。
1.自分にかかわることで、自分をどう律するか
2.他人とのかかわりで、社会生活のルールがある
3.自然や崇高なものとのかかわりで、畏敬の念をもつことである
4.社会とのかかわりで、家族、学校、郷土、国を愛し、世界のなかの日本人という自覚をもつことである
これが学年に応じる形で繰り返されるわけであるが、到達するのが中学最後の「国を愛し、その発展を願う」である。
もう「修身」が全面復活したというべきであろう。p28

ただし「修身」との違いも感じている。
上述の第2の視点に対する小学校中学年用の一項目「あやまちを『たから』としよう」については、自身の使用した小学校1年の「修身」の教科書の「アヤマチヲカクスナ」にそっくりだとしながら、その違いを次のように書く。

修身があくまで説諭的であるのに対して『心のノート』は、なぜそうなったのかを自己点検させ、どうしたらよいか、解決策を考えさせることになっているが、決して自由に考えさせるわけではない。用意されている解決策の中から選ぶのである。これが手引書にいう「一人一人の子どもが道徳的価値を自ら求め、自覚していく」ための手法である。p30

この話は、小沢さんのいうカウンセリングの技法への批判と同じで、『心のノート』はより巧みな仕掛けになっているというのだ。
なお、第3の視点、第4の視点についても「特定の感動を強制する、畏敬の念」と整理されているが、まさに安倍さんの「美しい日本」のことだろう。このあたりに対しては、子どもたちは敏感だから騙されないだろうと感じたが、先日のフジロックの出来事(後述)を考えると、意図通りに教育されてしまった人もたくさんいるのかもしれない。

「心で自分を」コントロールか、「心を自分で」か

『心のノート』が目指す人物像は、長谷川孝さんの以下の解説でよくわかる。

心イコール道徳の考えは、りっぱな心を修めて、その心で自分をコントロールしましょう、という発想になる。「心で自分を」コントロールするわけだ。その心に外側から正しい基準、あるべき価値を注ぎ込むのが「心の教育」となる。道徳主義、倫理主義である。
(略)
個人の尊厳を基本とする憲法・教基法の精神・理念に即して考えれば、「自分が自分で自分の心をコントロールする」となる。「心を自分で」ということである。「自己」はコントロールする主体であって、コントロールされる客体ではないのだ。また、憲法・教基法は、情緒よりも論理、考えることを大事にする。これも『ノート』とは逆になる。もちろん、情緒や感性、感受性は大切にしなければならないが、価値判断の基本は自分で考える論理的な主体性だということなのだ。

ここでも示されているように、「心の教育」は「考えさせない」のがポイントで、小沢さんは『心のノート』には「考える」という言葉が実に少なく、「感じる」という言葉ばかり出てくると書いている。

長谷川さんは対談の中でも、さらに厳しい言葉を連ねている。

自分のことを自分でコントロールできるというのは、大事なことですよね、本当は。一方ではそう書いていながら、もう一方別のスタンダードがあって、本当に自分で自分をコントロールしている人は、あいつは自分勝手だ、自己主張が強い、「自己中」だと言って非難される。実は、こうしなさい、ああしなさい、と上から下りてくる、それに従うことが正しいわけです。つまり上の者に従って自分を律しているというのが、ここで書かれている「自分で自分をコントロールする」という意味です。子どもたちはますます上の者に従う、強い者に従う、多数意見に従う。その多数意見も、学校のお墨付きの賛成意見に従わなければいけない。p70

このあたりは、まさに以前も書いた今井絵理子(元SPEED)の「批判なき政治」につながる内容で、さもありなんと思うが、これを読んで即座に思い出したのは、東京五輪開会式での元フェンシング日本代表の太田雄貴の発言。

この発言は、五輪開会式でのバッハ会長のスピーチが長いことに対する揶揄であり、皮肉だと捉えるとユーモアのある発言ではあるが、自分は「笑えない皮肉」だと思いゾッとした。

校長先生の話だからと無批判に聞き入れてしまうのが、いわゆる「体育会系」の一番悪いところであり、他国から見て異質かもしれない日本の悪いところだろう。
さらに、森会長を批判しないまま、組織委員会の会長として後を継いだ橋本聖子山下泰裕JOC会長ら、元一流スポーツ選手に、その一番悪いところが出ている。個人的には、太田雄貴も(親しみやすいキャラクターではあるが)まさにその直系という印象だ。
だからあの発言は、たとえ皮肉だったとしても、全然笑えない。


2003年に危機感を持って書かれた内容が、2016年出版の『人をつなぐ対話の技術』にも引き継がれているということは、(2009年に改訂はあったようだが)こういった問題点を抱えた教育がすでに20年近く行われていることを意味する。フジロックMISIAが「君が代」を歌ったことを素直に賞賛する人も多かったようだが、みんな「校長先生に鍛えられた」んだろうなと思ってしまう。

とはいえ、自分自身も「基本的人権」についての教育を受けた覚えがないのは以前に書いた通りだ。
また、本が出版された2003年の頃は教育基本法改正論議が盛んに行われていた時期で、本の中にも教基法の理念だとか教基法に反しているという言葉がたくさん出てくる。実際、2006年に教育基本法は改「正」されてしまったわけだが、このあたりの流れも全く覚えていないので、こういった点ももう少し勉強していきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com