Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

YUKIのニューアルバムが9/6発売決定! ⇒Wave (初回限定盤)(DVD付)
12曲中既発表曲が7曲というだけでなく、先頭の5曲がタイアップ曲(シングル)だというのは、全く持って自分の好みではありませんが、シングルの質から言って名作であることは間違いないので楽しみです。

1. 長い夢 (10th Single ソニー・エリクソン W31S TVCMソング)
2. メランコリニスタ (13th Single 花王 エッセンシャル ダメージケア CMソング)
3. ドラマチック (11th Single TVアニメ「ハチミツとクローバー」オープニングテーマ)
4. 裸の太陽 (「日清 野菜スープヌードル」TVCMソング)
5. ふがいないや (14th Single TVアニメ「ハチミツとクローバーⅡ」オープニングテーマ)
(先頭5曲のみ抜粋)

秋田連続児童殺害事件について

先日のエントリは、定期的に発病する「マスコミ憎し」の気持ちが止められなくなり、プール事件にかこつけて、少しマスコミ批判を絡めて書いてやろうと画策した結果、内容がごちゃごちゃしてしまったと自己分析しています。
その後、よく考えてみると、マスコミ云々の話は除き、プール事故の話に特化した方がわかりやすかったと反省しています。
ところで、そのとき抱いていたマスコミに対する怒りは、実は、プール事故とは全く無関係な事件の報道からくるものでした。
それは、秋田連続児童殺害事件です。
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この前のエントリでも書いたように、事件・事故報道に対して、受け手の視聴者は、何らかの教訓を得るのが理想的だと思う。
例えば、プール事故であれば、「排水口付近は危険だから近づかないようにしよう」「柵が外れていたら一刻も早く監視員(管理者)に知らせよう」等、自分の身の安全についての教訓が得られる。また、「プール管理者は、しっかり責任を果たしているか」などという監視の目を持つことも同様に社会全体としてプラスに働くだろう。
もちろん、ニュース報道に、そういう教訓とは無縁のもの(たとえばタマちゃん)もあるが、犠牲者の出るような事件・事故では、(死を無駄にしないために)そこから何かを得たいと思う気持ちがある。

そこで、今回の事件(秋田連続児童殺害事件)から何を学ぶか、何に注目して報道を追うか、ということになるのだが、個人的には、以下の点に関心を持っている。

  1. (自分の身内が不幸にあった場合を考えて)警察がどの程度信用できるか?
  2. 自分が容疑者になったときに、どのような捜査を受けるか

おそらく、これとは異なる意見を持つ人も多いと思う。
1番目は、今回の事件では、豪憲君の父親の視点で事件を解釈することを意味する。
2番目については、「疑いをかけられた者」の視点で事件を見ることになるが、痴漢冤罪の事件を多く聞くので、女性よりも男性の方が、そういう視点に立ちやすいかもしれない。*1
これ以外では、例えば、以下のような話に注目して、ニュースを聞いている人も多いかもしれない。

  1. どのようなタイプ(性格・外見・生い立ち)の人が犯罪を犯すのか?
  2. 一見、平和に見える世の中には、どのような犯罪が潜んでいるのか?
  3. 犯罪者が、いかに正しく裁かれていくか?

1、2番目は、視点としてはありうるのかもしれないが、今回の事件についていえば、参考になることは皆無といえる。
3番目は、上に挙げた「容疑者になったとき」とは、逆の視点になる。この考え方の問題は、端的にいえば、誰が犯罪者か現時点では確定していないこと、である。
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事件に対する自分のスタンスを大まかに説明したので、ここから、今回の事件報道に対するイライラの原因を、大きく3つに分けて書く。(勿体つけて書くほどの内容は無いのですが・・・)

(1)マスコミの取材の非対称性
今回逮捕された畠山容疑者への(怪しいと睨んでいた時期からの)加熱取材と比べ、あきらかに落ち度があるはずの秋田県警への突っ込みが少なすぎる。
ここに来て、豪憲君の父親が動いたことで、県警批判についても報道されるようになったが、マスコミは、誰かの口(豪憲君父、社会的な批判の高まり)を借りてでないと、警察の批判をしないようなので、イライラは高まるばかり。(警察が情報提供源としてお世話になっているお得意様だからということでしょう)


(2)たいした価値があるとは思えない「供述」ばかりの報道内容
この事件、あれだけ、容疑者は一貫性のない供述を続けているのに、一時期は、毎日のようにそれが追っかけで報道されていた。
下の記事なんかは、嘘しか言わないメラニ族の出てくる論理パズルかと思った。

 秋田県藤里町の小学4年畠山彩香さん(当時9歳)が殺害された事件で、殺人容疑で再逮捕された母親の畠山鈴香被告(33)が、「うちの子は川が嫌い」と能代署などに説明していたのは、うそだったことが22日わかった。能代署捜査本部は、彩香さんの水死について、事件に巻き込まれた可能性があると考えていた親族に合わせ、苦し紛れに言ったとみている。
 調べによると、畠山被告は当初、同署員に「彩香は河原の石を拾って集めていた」と話したが、彩香さんが遺体で発見されて以降、「川は嫌いで行くはずがない」と説明を翻し、第三者による事件の可能性をほのめかした。

このような中で出てきた「自白」もどの程度、意味があるのかわからない。
案の定、彩花ちゃん殺害については、殺害容疑を否認したことで、振り出しに戻ってしまった。

 秋田県藤里町の小学4年畠山彩香さん(当時9歳)殺害事件で、殺人容疑で再逮捕された母親の無職畠山鈴香被告(33)(米山豪憲君殺害事件で起訴)が、彩香さん殺害について、これまでの供述を一転させ、「何で私が犯人なの」と話すなど否認していることが7日、わかった。
 「彩香は、事件で殺(あや)められた」と、自分以外の犯人がいたことを主張しているという。畠山被告の拘置期限は9日で、秋田地検は、否認したままでも殺人罪で追起訴する方針だ。
(略)
秋田地検は、〈1〉殺害を認めた逮捕後の供述〈2〉事件直前に大沢橋で畠山被告と彩香さんの姿を見たという目撃情報〈3〉責任能力があるという簡易精神鑑定の結果――から、否認しても立証は可能とする。ただ、これまでの捜査で有力な物証は得られていない。


(3)畠山容疑者が二人を殺めた犯人だと確信できない
上の引用記事にもあるように、物証は皆無で、容疑者の供述のみ。殺害供述についても、相当長期にわたる取調べの中で出たものであることを考えると、むしろ、目撃証言に合うような内容を喋るよう強要されたと考える方が自然ではないかと思う。
そうではなく、マスコミが自信を持って、畠山容疑者=二人を殺害した犯人との確信に基づいて報道するところを見ると、一般の人には知ることのできない、畠山容疑者が犯人であると確信するに足る何かの情報を持っているのだとしか思えない。
松本サリン事件を通過した上での報道なんだから、相当慎重に吟味された内容がテレビや新聞記事となっているのだと信じたい。
ただ、そういう「隠された何か」を信じてしまうと、当然、別な見方も出てくる。

畠山鈴香容疑者・冤罪説

ここの頁では、「容疑者宅を度々訪れていた男性」が犯人で、畠山容疑者は死体遺棄のみ、という説をとっているが、それなりに筋は通っている。
自分は、冤罪説に賛成するわけでは全くない。何度も書くが、自白程度しか証拠がないことを考えれば、日々、テレビで報道される畠山容疑者が二人を殺害したという、エンタテインメント性の高い「ストーリー」も、冤罪説と同様に根拠が乏しいと言えると思う。
ただ、真犯人は誰か、ということは、自分の関心の中心ではない。
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一番初めに戻るが、自分が、この事件に関して興味を持っているのは以下の2点である。

  1. (自分の身内が不幸にあった場合を考えて)警察がどの程度信用できるか?
  2. 自分が容疑者になったときに、どのような捜査を受けるか

ジャーナリズムと、それらの情報の受け手の市民の役割は、落ちた犬を叩くことではない。
正しい手続き、納得できる手続き(デュープロセス*2)によって、捜査、裁判が進められているか、についてチェック(監視)するような見方の方が、より「明るい未来」に近づく考え方のように思える。

*1:ちなみに痴漢冤罪「対策」については、以下の頁が面白い。http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/e/17/

*2:ライブドア事件について述べた神保哲生さんのブログがわかりやすい ⇒http://www.jimbo.tv/commentary/000211.php

上のエントリへの補足

originalovebeerさんのコメントへの返事ですが、長くなってしまったので、補足として書きます。

マスコミへの警戒心について

やはり今回のような事件では、マスコミは慎重に動いてほしいと感じます。
こういう観点でのマスコミ不信は、ネットで醸成された部分が強いです。最近の例でいえば、植草教授の事件については、現在の自分の意見が、当初テレビで受けた印象と正反対なので、衝撃は大きかったです。
また、自分のような一般人には無関係なこととはいえ、『国家の罠』(実は未読)みたいな話があると聞くと、国家的な動きであっても、報道内容をそのまま鵜呑みにしたくないと感じています。
この点は、originalovebeerさんと意見が共通するところでしょう。

マスコミの役割について

これについて、originalovebeerさんは、「もっとフェアに材料だけをできる限り私情を交えずに羅列するのが理想的」とコメントされていますが、これは意味はわかりますが、正直難しいところです。
自分としては、事件・事故を、視聴者が自分の身に引き付けて考えるためには、報道内容にストーリー性を持たせていいと思っています。材料の提示だけでは、視聴者がその事件に興味を持つことすらできなくなります。
また、そもそも私情を交えない事実の伝達、というのは為しえないでしょう。(放送するニュースの選択・内容の抜粋の時点で、放送局の「意図」が入ってしまうから)
したがって、問題は、マスコミが、自身の「恣意的な姿勢」を意識しているかどうかの部分だと思います。(意識していたら、どんな嘘ストーリーもいい、というわけではないですが)

マスコミの責任と大衆の責任

以前読んだ『ご臨終メディア』は、このテーマについて、森達也森巣博が対談するという内容でした。マスコミ批判の意識が強い森巣に対し、「車の両輪」「共犯関係」という言葉で、双方に責任があるということを主張する森達也の意見に自分は近い。
ただし、森達也もメディアの問題点について次のように述べています。

人々が関心を持つことがニュースと定義するのなら、それは仕方がない。でも、その帰結として、ならば他のメーカーはどうなのだろう?とか、日本の鉄道行政そもそものシステムの問題点とか、民営化の弊害などの視点や思考が、三菱は本当にどうしようもないとか、JR西日本の経営陣を許すななどの悲憤や慷慨で掻き消えてしまう。ならばメディアは社会にとって有益なものを供給するためにあるどころか、社会の深い思考を抑制するために存在することになります。(p44)

「社会の深い思考を抑制する」というのは、本書を通して、何度か語られるキーワード的な内容である。たとえば、「この国の民意には主語が無い」(p74)、「無知とは、疑問を発せられない状態」(p40)、「戦後民主主義教育とは、結局、自分で考えさせないための教育」(p65)、すべて、深い思考が抑制された状態について説明した文章です。
鶏が先か卵が先かではありませんが、メディアをはじめとする「日本社会」が、大衆の思考能力を奪い、思考能力を奪われた大衆が、質の低いメディアを求める、といったところでしょうか?
そこで、ふと自分を省みると、やっぱり自分も「戦後民主主義教育」の申し子だけあって、自分で考えない期間が長かったと思ってしまいます。(最近は考える姿勢だけは見せています。)
オシム頻度が高くて申し訳ありませんが、先日の記者会見で、オシム監督と記者の間で、以下のようなやりとりがありました。

(記者)――今日は数的優位を作る練習を多くやっていたが、日本の選手が数的優位を作る瞬間の判断力というものは低いと思うか?

オシム)質問の翻訳が正しくないようだ。問題は、日本人が早く判断する能力を持っているかどうかではなくて、早く自分で考えることが一般社会で許されているのかどうか、だ。そういう習慣があるのだろうか。どうなのだろう、逆に聞いてみたいのだが?

(記者)――一般的には教えられて育つことが多いので、自分で判断して行動を起こすことに慣れていないと思う

(オシム)残念ながらサッカーとはそういうものではない。ピッチで指示を待ち続けていたら、試合には負けてしまう。私が何を言うか待っているような選手はいらない。サッカーは自分でプレーするスポーツである。対戦相手に「待ってくれ」と言ってタイムアウトを取って、監督の指示を仰いだり、ピンチヒッターやピンチランナーを投入して局面を変えるようなことはできないスポーツだ。だからサッカーは自分で判断しなければならない。私からはなるべく多くの情報を選手たちに与えている。選手たちはその情報を元に、プレーしながら考える。サッカーは非常にクリエーティブなスポーツである。だから、アイデアのない選手は、サッカーには向いていないのだと申し上げておきたい。

記者の回答が非常に正直でいいが、やはり自分も「自分で判断して行動を起こすことに慣れていない」ということになると思う。
オシム監督の優しいところは、「サッカーとはそういうものではない。」「アイデアのない選手は、サッカーには向いていない」とサッカーに限定して話を進めているところです。
しかし、実際には、少なくとも人生を楽しむためには「(教えられる前に)自分で早く考えること」「アイデア」が、日本人全体に必要とされる部分なのでしょう。

と、少し話は飛びましたが、メディアとの付き合い方で重要なのは、やはり、自分で判断する能力を磨くことなのだと思います。そういう意味では、安易なマスコミ批判というものにも陥りたくなくて、批判する場合には、ある程度、自分の意見を構築していきたいと思っています。