Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

上のエントリへの補足

originalovebeerさんのコメントへの返事ですが、長くなってしまったので、補足として書きます。

マスコミへの警戒心について

やはり今回のような事件では、マスコミは慎重に動いてほしいと感じます。
こういう観点でのマスコミ不信は、ネットで醸成された部分が強いです。最近の例でいえば、植草教授の事件については、現在の自分の意見が、当初テレビで受けた印象と正反対なので、衝撃は大きかったです。
また、自分のような一般人には無関係なこととはいえ、『国家の罠』(実は未読)みたいな話があると聞くと、国家的な動きであっても、報道内容をそのまま鵜呑みにしたくないと感じています。
この点は、originalovebeerさんと意見が共通するところでしょう。

マスコミの役割について

これについて、originalovebeerさんは、「もっとフェアに材料だけをできる限り私情を交えずに羅列するのが理想的」とコメントされていますが、これは意味はわかりますが、正直難しいところです。
自分としては、事件・事故を、視聴者が自分の身に引き付けて考えるためには、報道内容にストーリー性を持たせていいと思っています。材料の提示だけでは、視聴者がその事件に興味を持つことすらできなくなります。
また、そもそも私情を交えない事実の伝達、というのは為しえないでしょう。(放送するニュースの選択・内容の抜粋の時点で、放送局の「意図」が入ってしまうから)
したがって、問題は、マスコミが、自身の「恣意的な姿勢」を意識しているかどうかの部分だと思います。(意識していたら、どんな嘘ストーリーもいい、というわけではないですが)

マスコミの責任と大衆の責任

以前読んだ『ご臨終メディア』は、このテーマについて、森達也森巣博が対談するという内容でした。マスコミ批判の意識が強い森巣に対し、「車の両輪」「共犯関係」という言葉で、双方に責任があるということを主張する森達也の意見に自分は近い。
ただし、森達也もメディアの問題点について次のように述べています。

人々が関心を持つことがニュースと定義するのなら、それは仕方がない。でも、その帰結として、ならば他のメーカーはどうなのだろう?とか、日本の鉄道行政そもそものシステムの問題点とか、民営化の弊害などの視点や思考が、三菱は本当にどうしようもないとか、JR西日本の経営陣を許すななどの悲憤や慷慨で掻き消えてしまう。ならばメディアは社会にとって有益なものを供給するためにあるどころか、社会の深い思考を抑制するために存在することになります。(p44)

「社会の深い思考を抑制する」というのは、本書を通して、何度か語られるキーワード的な内容である。たとえば、「この国の民意には主語が無い」(p74)、「無知とは、疑問を発せられない状態」(p40)、「戦後民主主義教育とは、結局、自分で考えさせないための教育」(p65)、すべて、深い思考が抑制された状態について説明した文章です。
鶏が先か卵が先かではありませんが、メディアをはじめとする「日本社会」が、大衆の思考能力を奪い、思考能力を奪われた大衆が、質の低いメディアを求める、といったところでしょうか?
そこで、ふと自分を省みると、やっぱり自分も「戦後民主主義教育」の申し子だけあって、自分で考えない期間が長かったと思ってしまいます。(最近は考える姿勢だけは見せています。)
オシム頻度が高くて申し訳ありませんが、先日の記者会見で、オシム監督と記者の間で、以下のようなやりとりがありました。

(記者)――今日は数的優位を作る練習を多くやっていたが、日本の選手が数的優位を作る瞬間の判断力というものは低いと思うか?

オシム)質問の翻訳が正しくないようだ。問題は、日本人が早く判断する能力を持っているかどうかではなくて、早く自分で考えることが一般社会で許されているのかどうか、だ。そういう習慣があるのだろうか。どうなのだろう、逆に聞いてみたいのだが?

(記者)――一般的には教えられて育つことが多いので、自分で判断して行動を起こすことに慣れていないと思う

(オシム)残念ながらサッカーとはそういうものではない。ピッチで指示を待ち続けていたら、試合には負けてしまう。私が何を言うか待っているような選手はいらない。サッカーは自分でプレーするスポーツである。対戦相手に「待ってくれ」と言ってタイムアウトを取って、監督の指示を仰いだり、ピンチヒッターやピンチランナーを投入して局面を変えるようなことはできないスポーツだ。だからサッカーは自分で判断しなければならない。私からはなるべく多くの情報を選手たちに与えている。選手たちはその情報を元に、プレーしながら考える。サッカーは非常にクリエーティブなスポーツである。だから、アイデアのない選手は、サッカーには向いていないのだと申し上げておきたい。

記者の回答が非常に正直でいいが、やはり自分も「自分で判断して行動を起こすことに慣れていない」ということになると思う。
オシム監督の優しいところは、「サッカーとはそういうものではない。」「アイデアのない選手は、サッカーには向いていない」とサッカーに限定して話を進めているところです。
しかし、実際には、少なくとも人生を楽しむためには「(教えられる前に)自分で早く考えること」「アイデア」が、日本人全体に必要とされる部分なのでしょう。

と、少し話は飛びましたが、メディアとの付き合い方で重要なのは、やはり、自分で判断する能力を磨くことなのだと思います。そういう意味では、安易なマスコミ批判というものにも陥りたくなくて、批判する場合には、ある程度、自分の意見を構築していきたいと思っています。