Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

『日本サッカーが世界で勝てない本当の理由』がイマイチだった理由

先週の日曜日に購入した本なので、日韓戦よりも前。
日韓戦を終えたあとは、「だから勝てない!」という帯の大きな文字が、これまで以上に大きく見える。最近の日本代表戦は、日韓戦も含めて見ることができていないが、ニュース映像で見た、中村俊輔の憔悴っぷりが全てを物語っており、今回ばかりは、セルジオ越後の極端発言にも深く頷いてしまう。

本当に、本当に残念だ。2010年5月24日は、日本サッカー界が崩壊した日だ。大袈裟ではなく、そう思う。

期待はずれだった点

さて、代表戦を見なくなった時期が、オシムが辞めた時期と重なっており、さらに、その時期から日本代表が結果を残せなくなっていったので、だいぶ前から言われていた岡田監督引責辞任論に自分は賛成で、「今」「日本サッカーが勝てない理由」の大部分が監督+岡田監督を支持し続けるサッカー協会にあると感じていた。
つまり、この本を手に取った自分は、心の底では「岡田監督はダメだ」「サッカー協会がダメだ」論が読みたかったのだろう。そういう意味では、この本は全くニーズに合わず、物足りなさを感じた。
著者の岡田康宏さんによる、テレビブロス連載記事は、一方的にならないようバランスを取りながら的確に批判する、非常に読み応えのある文章で大好きだ。そういうバランス感覚に惹かれていたのだが、本一冊で読むと、バランスは取れているが、かなり角が取れて丸くなり、つまらなくなってしまった感じだ。
本の紹介も多く、類書を探るのには便利だし、他の人の文章を引用することで、独りよがり感を減らすことができるが、これも、全体を見ると悪い方向に行ったと思う。
また、ブロスで扱った内容も多数含まれるが、コラムで読んだ方がインパクトがあった。結局、本一冊を貫く核の部分が欠けていたのかもしれない。そして、それは、もっとエゴに走った本であった方が面白かった。つまり、悪い意味で教科書的な本になってしまったのだと思う。

がってんポイント(1)トルシエと自主性

サッカー事情に詳しくないので、一般的なのかどうか分からないが、本書にはトルシエ礼賛の文章が多い。(バランスをとって「絶賛」はしていない)

彼は、自身があえて挑発的に振る舞うことで選手たちに反発心を起こさせ、選手たちの自主性を引き出すことに成功しました。(P46)

ここで、例として、『六月の勝利の歌を忘れない』を挙げているのだが、説得力がある。確かに、当時の日本代表はトルシエに不満タラタラだが、チームの雰囲気はすごくいい。当時を振り返ると同時に、今の日本代表で『六月の勝利の歌を忘れない』は作れそうにないなあ、とも思ってしまう。(「勝利」できないからではなくて、チームの雰囲気という意味で)
岡田監督は、そういう雰囲気作りを、川口に託したのかもしれないが、今さら感があるし、結局は、監督がそれをやるべきなのだろう。

がってんポイント(2)ワーワーサッカー

2002年ワールドカップの際、強いのか弱いのかよくわからないうちに勝ち進んでしまった日本代表の戦術と戦い振りを表すために上の書き込みを用いて「ワーワーサッカー」と表したことから、守備の際は全体でプレスをかけまくり、攻撃の際はフォワードが点を取れずに他の誰かが点を取るサッカーのことをこう言うようになった。またの名を「ミョージンシステム」。

結局のところ、日本代表のひとつの理想形であることに納得せざるを得ない「ワーワーサッカー」については、多くページがさかれており、面白かった。結局2002年まで戻ってしまうところが残念だが、日本人の特質と合致したサッカーを目指すとしたら、やはりこれなのではないか?

本当はいらないんだけど、「ワーワーサカー」には確実に必要なもの。
(戦術的要素)
・ゲーム全般に渡ってちりばめられている単純なミスパス
・寄せられただけで転ぶ貧弱なフィジカル
・監督の納得できない選手配置と選手交代
・1対1の勝負よりも安パイを選択する軟弱なマインド
・よく見ると本当は全然違うぞフラットスリー
(個人的要素)
・松田の上がり
・宮本のマスク
・戸田のトサカ
・稲本の勘違い
・やりにくそうな小野
・柳沢のスルー
・鈴木のレッド
・ヒデの笑顔
・ノンキな国民
これら全てがワーワーサカーには必要なのです。
ムダなものはひとつもありません。

何だか懐かしくて涙が出てくる。

サッカー「文化」と日本の社会

さて、この本の特徴は、地域に根差した文化としての日本サッカーの底上げの重要性を繰り返し指摘していること。かつてオシムが指摘したように、サッカーが日本社会に根付いていないことは、欧州や南米の強豪国と比べたときに日本が弱いところであることは確かだ。
日本代表を強くするために、選手以外の人ができることとしては、地元チームの応援や、フットサルでのサッカー文化の盛り上げ、などがあるだろう。しかし、こういった文章は、いかにも教科書的で、「日本サッカーが世界で勝てない本当の理由」とするには無理がある。ただ、それ以外に、自分が嫌な気分になるのは、地域の清掃活動などよりもよほど緩く利己的な活動であるこうした活動にさえ、自分は全く参加できていないことに気づかされ、ブルーになるからだ。理想的には、9時5時の仕事で、平日夜は3日家に直帰で、1日はスポーツ、1日は文化的活動(?)とかなら、いろいろなことが出来そうな感じだが、現状は無理無理・・・と思っていたところ、以下のような文章に出会って、少し自分を変えなきゃな、と反省もしたのでした。

日本の社会がそうだから、日本の教育がそうだからと、あきらめていては進歩がありません。
社会が変わればサッカーが変わることは間違いない。けれども私は、サッカーが社会を変えていけると信じています。その信念がなければ、今このサッカー界に生きている意味さえないと言ってもいいでしょう。
サッカーはその国の国民性、文化などを反映しています。すなわち、日本サッカー界が抱えている課題は、少なからず日本社会が抱えている課題を反映していると思います。だからといって、社会のせいにするのではなく、サッカーの持つ力を信じたいのです。
因果関係を逆にしなければ、おもしろくない。
(P111 小野剛『サッカースカウティングレポート』からの引用)

そうだね。自分の周りから社会を変えていけると信じなければ、ね。