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弁太とおぶう、ズクとおとき〜手塚治虫『火の鳥(7)(8)乱世編・羽衣編』

火の鳥 7・乱世編(上)

火の鳥 7・乱世編(上)

火の鳥 8・乱世編(下)

火の鳥 8・乱世編(下)

朝日新聞出版社版では上下巻となる「乱世編」と超短編の「羽衣編」について。

乱世編

乱世編は、以下のような点で、これまでの「火の鳥」とかなり違った感じを受ける。

  • 手塚治虫自身も前書きで語っている通り、「火焔鳥」という孔雀が出てくるが、ラストを除き、火の鳥が全く出てこない。
  • 主人公(弁太=弁慶)の外見が、いわゆる手塚漫画の主人公からは、やや離れる
  • 主人公が火の鳥(火焔鳥)とほとんど絡まない(一度お使いを頼まれる程度)

結果として、これは「火の鳥」なのか、という不思議な感想を抱く。


さらに、源平の戦いという、日本史の事件としても、かなり派手なイベントを取り上げている割には全く華が無い。
例えば、ひよどり越えにしても、壇ノ浦にしても、「奇襲成功」や「安徳天皇の入水シーン」など通常クローズアップされる部分で盛り上げることをしない。
代わりに何が描かれるのかといえば、ひとつは清盛、義仲、そして頼朝の「火焔鳥」への執着で、これらに弁太が絡まないのは先に述べた通り。
一方で、弁太の登場するシーンで描かれるのは、兄・頼朝からも、そして上皇からも信頼されずに裏切られ続けるという可哀想な面はあるにしても、非常に残酷な仕打ちをする義経
主人公・弁太の3人の子分、昔からの友人ヒョウタンカブリ、そして、物語のもう一人の主人公で弁太のいいなずけだった「おぶう」までが義経に殺されるという展開は、弁太には悪夢だが読み手にとっても良い気持ちがしない。ヒョウタンカブリに至っては、それが父親とは知らないままに父親を殺してしまう、という辛いシーンがあった直後に、本人が殺されるという鬱展開。
また、物語で登場する火焔鳥は、結局「ただの鳥」で、火の鳥の不思議な力というものを誰も体験せずに終わってしまうこともあり、これまでのシリーズの中で一番長い物語でありながら、一番重苦しい物語となってしまっている。
オールスター的な印象も強い「復活編」*1のあとだから、敢えてこのようなつくり になっているのかもしれないが、自分には、良さが分かりにくい内容だった。


その後、再読してみると、「乱世編」のテーマは、どうも「権力」にあるということが分かってきた。
そして、「権力」と背中合わせにあるキーワードが「一族」だ。最初と最後にサルの群れの話が引用されているように、「権力」というのは、「一族」のリーダーに付与される。
「乱世編」で、火焔鳥を欲しがった清盛も義仲も頼朝も皆が「一族の存続と繁栄」のために「権力」を欲しがった。清盛や頼朝が実質的に天下を取ったあとでも、さらに火焔鳥を欲しがるというのは、権力という物自体が決して満たされることのない物であることを意味しているのかもしれない。結果として、絶えず争いを続けていたのが源平の時代なのだろう。
火の鳥』のシリーズの他との対比でいえば

  • 復活編では、「一人の人間の生命」
  • 望郷編では、「地球人としての子孫の繁栄」

とテーマを絞ったが、この中間にあたるものが乱世編で、かつ、それが現実の社会で起きている問題に近いのかもしれない。
戦争は一人の人間の欲望で起きるものではなく、逆に地球規模よりももっと小さい集団(一族、国家)同士の対立が起点になっているからだ。
ということは、つまり、一族存続のために権力闘争に命を懸けた平清盛や、源義経(この二人だけは死後の世界で、火焔鳥ではない、本物の火の鳥に出会っている)が、「乱世編」の真の主人公であり、「一族」を背負わない弁太よりも、清盛に近い「おぶう」の方がメインのキャラクターということになるのかもしれない。


また、生きている間に本物の火の鳥を見た、ということで言えば、「乱世編」で唯一それが当てはまるのは、牛若丸に剣術を教えたことでも有名な鞍馬山の天狗。400歳を超える年齢の隠者として仙人のような立場で登場し、ヒョウタンカブリからは「神サマ」、義経からは「テング」と親しまれる彼は、実は「鳳凰編」の我王。
我王は、前半の早い段階で亡くなってしまうので、最終的な印象は薄いのだが、輪廻転生についての重要な話をし、結局、それが清盛と義経の生まれかわりに関連してくるということで、やはり重要人物。
死期が近いと悟った我王は、義経、弁太、ヒョウタンカブリに、山の頂に連れて行くよう命令し、夕日を見ながら臨終を迎える。夕日を眺めるシーンは、シリーズの他の作品でも繰り返されるシーンとなっており、印象深い。


ただ、乱世編全体のオチとなる、猿と犬のエピソードは、それほど巧い仕掛けではないし、作品のテーマを上手く表したものとは言えないと感じた。正直言って、よく意味が分からなかった。
なお、Wikipediaを見ると、羽衣編、望郷編とともに、現在形になるまでにかなり紆余 曲折があった作品のようだ。望郷編については、それほどチグハグな感じを受け なかったので、乱世編に何か特有のものがあるのだろうか。当初の連載のかたち も合わせて読んでみたい。
また、今回は片手を奪われる描写はない。

羽衣編

羽衣編は、もともとは「復活編」と「望郷編」の間に入るエピソードだという。*2確かに、そういう順序であれば、過去と未来を往復しながら現在に近づく『火の鳥』の構造に沿った順序となる。

(「2.未来編」)

 ↓

「1.黎明編」

 ↓

「3-1.ヤマト編」

 ↓

「4.鳳凰編」

 ↓

「8-2.羽衣編」

 ↓

「7、8-1.乱世編」

 ↓

(現代)

 ↓

「6.望郷編」

 ↓

「5.復活編」

 ↓

「3-2.宇宙編」

 ↓

「2.未来編」


最初と最後に、観客が詰め寄せる舞台が遠目から描かれており、話は芝居の中で演じられている様子が分かる。話の進行は1ページに横長のコマが4コマ縦に並ぶ構成で、登場人物は主人公のズクと天女(おとき)、そして二人の子だけ(+出征を命じる兵士2人)となる。コマには、舞台の背景として、右手に松の木、左手にズクの家が常に現れて動かず、その分だけ、人物の動きが際立つ。
内容については、Wikipediaで書かれている通り。

10世紀、三保の松原。主人公の漁師のズクは家の前にある松の木に、薄い衣が引っかかっているのを見つける。すぐさまそれを手に入れ売ろうとするが、衣の持ち主である女性「おとき」が現れ、ズクは彼女を天女だと思い込む。ズクは衣を返すことを引き換えに3年間だけ妻として一緒に暮らすことを約束させる。
本作は天の羽衣の伝説が元になっており、舞台で演じられる芝居を客席から見たような視点で描かれている。また羽衣伝説を基に描いているが、「おとき」の正体は天女ではなく未来人であり、羽衣の正体は未来の技術で作られた謎の物体である。最後はこの物体を数千年後の未来へと託すために地面に埋めるところで終わっている。短い作品であるが、「放射能の影響で奇形で生まれた赤ちゃんを嘆いて殺そうとする」という表現についての問題や作者の意向があり、1980年まで描き直されるまで単行本化されなかった。(作中では放射能とは断言されてないが「毒の光」を浴びてしまったために奇形児が生まれたとする表現がある。)本来は「望郷編(COM版)」と関連する話であるが、1980年に単行本化される際、全ての文章を手塚が書き直し独立した話になっている[7]。そのため、本来ならば最後に埋めた物体の正体がCOM版「望郷編」で語られたはずがそのままになっている。


おときは、戦争が続く1500年先の未来に絶望しているところを、火の鳥によって、過去の時代に送られた設定となっており、物語の最後には元の世界に戻って行く。
朝日新聞出版社版では、「羽衣編」との繋がりは一切感じさせない独立した物語になっている。昨年末から刊行されている小学館クリエイティブ版で収録されるのであれば、是非とも読んでみたい。(復刊ドットコムで発売されている≪オリジナル版≫復刻大全集は、やや高額のため…)
なお、「羽衣編」でも片手を奪われる描写はない。

*1:ただし、乱世編にも、ドクターキリコが登場している。

*2:8巻のまえがきで手塚治虫は“「乱世編」から70〜80年遡った時代の物語”と書いているが、単行本に収録されている「羽衣編」は、平将門の時代の話であることを考えると、「乱世編」から200年以上は遡っており、書き直しに合わせて時代も変更されたのかもしれない。