Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

“元トモ”を思い出したり思い出さなかったり〜一穂ミチ『きょうの日はさようなら』

きょうの日はさようなら (集英社オレンジ文庫)

きょうの日はさようなら (集英社オレンジ文庫)

いつも聴いている「本と雑談ラジオ」で、枡野浩一さんが紹介していた本。
激賞という感じではなかったが、ダメなもの、嫌いなものを悪く言うことに全く躊躇しない人が褒める本は読んでみたくなる。そんな気持ちで手に取り一気読みしてしまった。
宮崎夏次系の表紙も内容ととても合っている。

2025年7月。高校生の明日子と双子の弟・日々人は、いとこがいること、彼女と一緒に暮らすことを父から唐突に知らされる。ただでさえつまらない夏休み、面倒ごとが増えて二人ともうんざりだ。いとこの存在に、なんの楽しみも期待もない。退屈な日常はひたすら続いていく。けれど、彼女―今日子は、長い眠りから目覚めたばかりの、三十年前の女子高生だった…。


背表紙に書かれたあらすじは、冒頭20ページもしないうちに全部出てくる。
今日子が1995年に起きた火事で重傷を負い、30年間も冷凍睡眠に入っていたという設定は、SFとして考えると、それほど突飛ではなく、むしろ2025年の高校生と1995年の高校生のふれあいに目が向くように出来ている。特に興味を持ったのは彼らの年齢。
30年前の高校生...今日子は1978年生まれなので、自分と同世代。
2025年の高校生…明日子と日々人は2008年生まれで自分の子どもと同世代。
ちょうど親子くらいの世代間の差が、ゲームやネット、そして友達との距離感の中で現れてくる。それが何気ない会話の中で自然に出てくるのがまず上手い。2011年の震災の話も出てくるが、冷凍睡眠中だった今日子は勿論、当時3歳だった明日子と日々人も朧げにしか知らない。
総じて話を過度に飾らない。盛らない。


ゲームをやったり、漫画を読んだり、今日子、明日子、日々人の3人ののんきな夏休みの生活が続く。それが突如キナ臭い流れになるのは162頁から。
それまでの緩い空気から一変するこの感じは、「ひぐらしの鳴く頃に」を思い起させる感じで鼓動が早くなる。
30年前の出来事と、今日子の秘密を知る父からの告白は驚くべき内容で、この物語の終わり方も示唆している。
しかし、この小説の本当に面白いところは、このアイデア部分ではない。


今日子の数奇な人生自体は、ショートショートのワンアイデアに過ぎない。
今日子自身ではなく、今日子の人生に触れた周囲の人間が何を感じたのか、が物語の核の部分になっている。
本編と分けて、最後に沖津くんにスポットライトが当たる「堂上今日子について、そして さよならプレイガールちゃん」が収められているのが、まさにそれだ。
沖津くんにとっては、今日子は、30年前に好きだった女子高生以上でも以下でもない。彼女が重傷を負ってしまったことまでしか知らず、2025年に不意に彼女のことを思い出すまで気にすることもなかった。
ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルで「疎遠になった友達、通称“元トモ”特集」というのがあったが、まさにそんな感じ。
そして、今日子の数奇な人生について知っている明日子と日々人にとっても、2025年の夏休みを共に過ごした友達でしかない。
それは、実は、冷凍睡眠が無くても、日々起きていることだ。誰もが「いつまでも絶えることなく友達でいよう」と言いながらも「今日の日はさようならまたあう日まで」と、目の前にいる人と最後に会った日になるかもしれない今日を生きている。
それでも最後に明日子はこんな風に言う。

明日子は、こんなふうに今日子の残したものとすこしずつ別れを重ねていく。
さようならを言うごとに、思い出している。

ことあるごとに引用するが、古典2作を思い出した。シンプルだけど上手い、そして何かが心に残る作品だと思う。BLがメインの人のようだが、他の作品も読んでみたい。

二度ともう会うことができなくても、王子さまの「笑う星々」のように、空を見て、星を見て、その人の笑い声や笑顔を思い出すことができるなら、そのとき人は、どれほど心をなぐさめられ、生きていく力を与えられることだろう。

生者は死者によって生かされ、死者は生者によって生き続ける − ふと、そんな言葉を思い出す。生は死と、死は生と、ひそやかにつながっている。
(星の王子様)

どうして死んでしまっているものかね。お前たちの思い出の中で立派に生きてるじゃないか。人間はなにもものを知らないから、この秘密も知らないんだねえ。( 「どうして会えるの?おじいさんたち死んでしまっているのに。」というチルチルに答える妖女)
(青い鳥)