Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

世の果て 地の果て そんな生易しいものじゃない〜おざわゆき『凍りの掌』

凍りの掌

凍りの掌


「シベリア抑留」という言葉を自分が知ったのは、どこだっただろうか。
小中高の歴史の時間に知ったのではなく、もっとあとに日ロ関係の政治記事かなんかで初めてその言葉を認識したのかもしれない。それでも、その言葉の意味するところは全くわかっていなかった。何となく「戦争が終わったあと、シベリアに留まらざるを得なくなった人がいた」という程度のイメージでしかなかった。
そんな自分にとっては、忘れられない、そして忘れてはいけない読書になった。

感想

「これは辛い」と、読んでいて思うことの多い漫画だ。
まず何よりも、1945年8月15日という、「終戦の日」として覚えている年月日のあとから始まる話だというところがキツい。
第二次世界大戦を描いた話であれば、辛いことはあっても1945年8月を境に光が見えてくる、と考える。むしろ、これまでの歴史を知る21世紀人としては、「どん底」から上向いて行く時期だと捉える。
しかし、「終戦の日」を、ソ連と対峙する北満州で迎えた主人公が、何度も「ここでダモイ(帰国)か」とぬか喜びしながら、アムール川を越え、北へ北へと行進を続ける序盤は、それだけで絶望的だ。


そしてギヴダ収容所での終わらない炭鉱掘り。
ここでの寒さと空腹の描写もこたえるが、死人が出たとき、貴重だからと服をすべて脱がしてしまうというのが辛い。そして、固い地面を枯れ枝を燃やして溶かしながら穴を掘り、直に遺体を置き、スコップで土をかけていく一連の流れは、本当に辛過ぎる。
数で言えば、数万人が、そのような形で、シベリアの地で今も眠っているのだろう。


その後も繰り返される、寒さ描写。
炭鉱は穴の中は暑かったというので、その後始まる石炭の露天掘りの話が特にキツイ。

これは本当に
言葉で表せないほど
厳しい作業だった


マイナス40度なら作業は控えられたが、
マイナス30度なら外に出された
マイナス10度、20度なら暖かく感じるほどだ
マイナス30度は本当にきつかった


凍傷で指を切り落としながら、いつ終わるかわからない作業を延々と続ける抑留者たち。
「世の果て 地の果て そんな生易しいものじゃない」」という言葉、そして、時折挟まれる絶望的な見開きページが、読む側の心も暗くして行く。


その後、主人公は、健康面を理由に「地獄のギヴダ」から出され、ライチハ収容所に。
そこからは、風呂に入ったり日本人の技術がロシア人に評価されたり、人間らしい暮らしを取り戻していく。
それと入れ替わるように、日本人同士の人間関係の問題が、「アクチブ」という形で顕れてくる。
凄惨な「吊し上げ」シーンは、ギヴダ収容所とは全く別の辛さ・キツさだ。
漫画の中では「アクチブのみならず日本人による日本人への私刑・体罰はあちこちの収容所で繰り広げられていた」と書かれ、吉村事件(吉村隊事件)のことが挙げられている。
少し調べると、「翔んでる警視」シリーズの胡桃沢耕史直木賞受賞作『黒パン俘虜記』が、まさにこういった事件をテーマにして書かれた小説だという。これは是非読んでみようと思った。

黒パン俘虜記 (文春文庫)

黒パン俘虜記 (文春文庫)


無事、ダモイ=帰国することができたシベリア抑留者たちだが、帰国しても新たな壁が立ちはだかる。
帰国後、抑留者たちは、補償金が出なかったり、「アカ」だからということで就職が出来なかったりしたというのだ。
「あちこちの収容所」で繰り広げられたという私刑の話、そして帰国後の仕打ちの話は、それが日本だからこそ、日本人だからこそ起きた不幸なのかもしれず、元々のシベリア抑留本体の問題とは別の視点で考えていかねばならない問題だと感じた。


何よりこの漫画の一番の特徴は、作者が自分の父親から聞いた内容を漫画にしているという点。
漫画の中でもところどころで現在の顔を見せる父親。資料を調べるだけではなく、実在の、しかも自分と血のつながりのある人から、地獄のような生活の話を少しずつ聞いていく、というのは、相当大変なことだろう。
それを、漫画的表現も上手く加え、話のテンポにも気を使いながら、しかも読みやすくまとめたのは、本当にすごい。
本編とあとがきの間に、ちばてつやの文章が挟まっているが、まさにその通り。語り継がなければならない、忘れてはならない人々の暮らしが、この漫画には詰まっている。

『凍りの掌』刊行に寄せて
             ちばてつや
暖かく、やさしいタッチの
マンガ表現なのに
そこには「シベリア抑留」という
氷点下の地獄図が
深く、リアルに、静かに
語られている。
日本人が決して忘れてはいけない
昏く悲しい66年前の真実
次代を担う若者たちには
何としても読んで貰いたい
衝撃の一冊


同じ作者が、母親の名古屋空襲体験を題材に描いたというこちらも是非読んでみたい…

あとかたの街(1) (BE・LOVEコミックス)

あとかたの街(1) (BE・LOVEコミックス)

毒親の話をどう読むか〜田房永子『母がしんどい』

母がしんどい

母がしんどい


田房永子さんが小さいころからの母との関係について詳しく綴ったエッセイ漫画で、いわゆる「毒親」を扱った漫画。
田房永子さんの著作は3作目だが、これまで読んだ2作と比べると、性の話がほとんど出てこないことと、絵柄がかなり違うので驚いた。著者名を伏せられていたら、同じ人の作品とは気がつかないと思う。
ただ、絵柄については、この本の内容にとても合っている。
問題の母親は可愛く無邪気に、主人公(田房永子自身)と、夫やつきあった彼氏は無個性に描かれる。
『ママだって、人間』で主人公と夫が、わざと好感をもたれないキャラクターとして描かれていたのとは大きく異なる。
それによって、特定の個人というよりは、母と娘の関係に焦点が当たり、読者は問題と向き合いやすい。


さて、いわゆる「毒親」だが、Wikipedeiaによれば、概念としては20世紀末あたりから存在したが、2013年頃から関係書籍が増えたということで、2012年3月に出版されたこの本は、毒親本の中でも流行ってから出た本ではなく、サルのイモ洗いの話*1のように、突然湧いたブームの最中に出た本のようだ。

元々は、アメリカの精神医学者、スーザン・フォワードが著した『毒になる親(原題:Toxic Parents)』から生まれた俗語である。この本は、原著が1989年にハードカバーで出版され、日本では1999年にハードカバー版が毎日新聞社から、2001年に文庫版が講談社より出版された。本国では2002年にペーパーバック版が出版されている。

日本では2013年ごろより、この言葉をタイトルに含めた本が出版されるようになった。主な意味としては「子の人生を支配する親」のことを指し、一種の虐待親として扱われることもある。「毒親に育てられた子は、毒親からの児童虐待によって苦しみ続ける」が主なケースとなっている。なお、スーザン・フォワードは『毒になる親』にて、「毒親の子は毒親を許す必要などない」と述べている。


さて、毒親というと、自分が現在イメージするのは永田カビさん。
レズレポ(『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』)を読んだときは、自分も「何故"毒親"をもっとアピールしないのだろう?」と思っていたが、最近のpixivコミック連載の『一人交換日記』を読むと、まさに親との問題に、今向き合っているところ。問題を切り分けて、前作で「さびしすぎ問題」という中ボスを(少しだけ)クリアしてから、大ボスと戦いたかったのだと思う。
最近のツイートを見ると、本人もレズレポを「毒親」本にすることを避けていたようだ。



さて、自分のことに立ち返ると、自分が人間関係の問題を、持ち前の鈍感力で切り抜けてきたことは差し置いても、親との関係は良好だと思う。それは子ども時代も今もだ。


そうすると、こういった毒親問題については、コメントしにくい。何といっても「所詮は他人事でしょ」と言われればそれまでだ。*2
ただ、最近は、「自分と遠い他人事」として味わう人生は、それはそれで意味がある。というより、それが文学や漫画の本質だと思うようにしている。BL好きの腐女子の基本的な考え方は、多分そこにある。


さらに、それをエンターテインメントや気晴らしとして消費するだけに終わらせないためには、

  1. 自分と異なる境遇を、できるだけ想像力を巡らせて、感情移入すること
  2. 自分の人生と似ている部分があれば、自身の行動にフィードバックすること

が大事なんじゃないかと思う。
最近はダイバーシティだとか総活躍だとかいう言葉も出てきているが、経済的側面だけではなく、福祉の面に力を入れようとするなら、上に挙げた1.の部分がとても重要なのではないかと思う。特に国政を担う人には必須なので、選挙演説の際には、どうせ党議拘束が掛かって独自性が出せない選挙公約の話なんかよりは、最近読んだ本の読書感想とかを必須にしてほしい。


さて、この本で田房永子さんが受ける色々な仕打ち(もしくは「大きなお世話」的愛情)の中で、こういうのも確かにあるなあと思ったのは、母親が、自分ではなく、知り合い(例えば、結婚相手の母親)にまで、ちょっかいを出す(例えば洋服をプレゼントする)こと。勿論、結婚式でずっとお喋りをやめない我儘な振る舞いや、鳴りやまない電話なども精神的に来るだろうし、田房さんの人生の中では、母親の思う「良きこと」が常に正義だった。


一方で田房永子さんがすごいのは持ち前の行動力で、親との問題に立ち向かったこと。
結婚後、夫にキレまくり、「お母さんと同じキレちゃう病気」を治すために精神科医に相談しにいくところは、問題の把握と対応が適切で素晴らしい。
そこでの先生のアドバイスをもらって楽になるが、それだけに終わらず、自分の内面を観察し、問題から逃げず、自分なりに「不足していたもの」を見つけてしまうところがすごい。


こういった、自分が置かれた状況をトコトン分析して、問題を解決していこうという「根性」は、永田カビさんにも感じ、『一人交換日記』は、途中から、どんどん家族の問題に話が向かっていっており、とても注目している。
と、同時に、それを読んだ自分も、自分の中の躓きや違和感を、時々振り返って、ちゃんと解決していった方がいいのだろうと感じた。また、いわゆる母娘問題として語られることの多い「毒親」問題で、絶対に重要なのは父親で、その意味で、自分と子ども、奥さんと子どもの関係にもちゃんと目を向けて行かなくちゃいけないと思った。


ということで、田房永子さん特有の「性」の問題についてのアプローチは無かったけれど、読みやすい装丁、読みやすい絵柄で、家族の問題が描かれた良い本だと思います。特に「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と憲法第24条の冒頭に加筆してしまえる、自民党草案を作成した人に読んでほしい本だと思いました。
次は、角田光代萩尾望都も著者に名前を連ねる、この本を読んでみたいです。あと、田房永子さんの最近の著作も気になります。(書名が…)

*1:いわゆる「百匹目の猿現象」。Wikipediaでも書かれているように、実際の話ではない。

*2:このことを、自分は、当事者以外はその本を楽しんでいると言いにくいという意味で、密かに『タラレバ娘』問題と読んでいる。

地割れに涙する〜山岸涼子『日出処の天子』(7)

日出処の天子 (第7巻) (白泉社文庫)

日出処の天子 (第7巻) (白泉社文庫)


最終巻の見どころは、前の巻で一度答えが出ているのに(何なら4巻の雨乞いの時点でも毛人は布津姫を選んでいるのに)、再びアタックする健気な王子。
そこから始まる王子×毛人のラップバトルのような口論では、王子が「毛人は自分のことを好きでなくてはならない」式の攻め方をしてしまい、途中で自分でも筋の悪さに気がついていくのが悲しい。
そして論破された王子の感情が地割れで表現される日本漫画史上に残る名シーン…!


ところで、美郎女(みのいらつめ)登場以降、王子が繰り返し見る悪夢や、悟ったような台詞「すべて無駄な事だ 無駄な事とわかっていて それでもわたしは活きてゆく」、さらに、続編の『馬屋古女王(うまやこのひめみこ)』を読み解くには、少し歴史的知識を前提にする必要がある。
Wikipediaが詳しすぎるので、シンプルでツボを押さえたpixiv百科事典「上宮王家」から引用する。

聖徳太子以降の血族が朝廷の宰相役の『大臣(おおおみ)』より上位の官職『大兄(おおえ』を太子の血族(家系)が敬称、以降の大王(読:おおきみ、後の天皇)の皇位継承最上位を独占し、政治的指導の職も独占した時の太子の家族の通称。

(中略)

なお上宮王家は王家の子息山背大兄王蘇我入鹿など蘇我氏が追い詰めてしまい、結局山背大兄王とその一族が法隆寺に立てこもり自害することになり、王家は壊滅する

山背大兄王の訃報を聞いた蘇我入鹿の父の大臣蘇我蝦夷は、息子の入鹿一味の所業に激怒した。

その後、蘇我蝦夷は自分の家に火をつけ、自ら刀で自害をする。
生き残った蘇我入鹿も大臣となるも、その後躍進してきた中大兄皇子中臣鎌足藤原鎌足)に謀殺される。

この件を持って大和政権より朝廷の豪族を牛耳ってきた蘇我氏滅亡

中大兄皇子天智天皇となり大化の改新をおこなう。
中臣鎌足藤原鎌足と名をかえその後1000年続く(飛鳥から明治まで)藤原氏の開祖となる。
上宮王家 (じょうぐうおうけ)とは【ピクシブ百科事典】 - pixiv


ここを理解していないと、特にテンポの速い『馬屋古女王』は理解できないままに終わってしまう。自分も一読目は、よく分からなかった。


推古天皇の次の大王についてもう少し詳しく書く。
元号「推古」は36年続き、推古30年(622年)に聖徳太子は49歳で亡くなる。推古天皇の次は当然「大兄」と名がつく山背大兄王が筆頭候補だったが、歴史的事実として毛人は山背大兄王に難色を示し、代わりに推した田村皇子が629年に即位する。(舒明天皇
こういった細かい史実は大幅にカットして、あくまで、蘇我入鹿山背大兄王との関係のみに着目し、上宮王家の滅亡までを描いたのが『馬屋古女王』ということになる。
やはり「地割れシーン」までで、『日出処の天子』は終わっているので、駆け足になってしまうのは仕方がないが、もう少し毛人と山背大兄王、毛人と入鹿の話を、そして、上宮王家の悲劇から蘇我氏滅亡の一連の流れを見てみたかった気もする。


なお、『馬屋古女王』では、馬屋古に誘惑される財(たから)や日置(へき)などのダメ男たちは、刀自古の子であり、本人たちも自認する通り「父親はそれぞれどこの馬の骨とも知れぬ奴僕」だ。
刀自古の最終登場シーンは、「王子が新しく妃を娶った」(美郎女のこと)という話を聞き及び、嫉妬の中で「どうせ落ちる地獄ならいっそもっともっと深い所へ落ちてしまおうか」とまで考えてしまう場面。結局、この言葉通り、深い所に落ちてしまった刀自古のことを思うと辛くなる。
作品内では描かれなかった毛人の自殺まで含めて、登場人物全員が報われない愛に苦しむ、非常に辛い話であることを考えると、本編ラストの、(遣隋使をスタートにしてこれから世界に出て行こうという)先に開かれた終わり方は、これ以上ないものだったのかもしれない。


改めて作品全体を振り返ると、全7巻でありながら、『ポーの一族』全3巻よりも一気読みしやすいリーダビリティ。史実の料理の仕方、そして、世界の中での日本の始まりという、位置づけも含めて、読んでおくべき漫画として、どんな人にでもオススメしたい漫画。
BL要素という部分も重要な因子ではあるが、例えば刀自古や大姫などのサブキャラクターへの感情移入が強い自分としては、BL漫画という意識はあまりない。
同じ山岸涼子の漫画ということでは、途中までしか読んでいない『アラベスク』、そして現在連載中の、こちらも歴史漫画『レベレーション』あたりに、次は手を伸ばしたい。

大きな流れ

王子が身を隠したままの新嘗祭は額田部女王によって執り行われ、大王は決まらないまま。


しばらく日が過ぎ、河上娘(かわかみのいらつこ)と一緒にいる駒が見つかるも、王子は二人とも殺すことを命じる。遺体で発見された河上娘について馬子の言った「生きていたとしても世間に顔向けできなかった」という言葉が、刀自古の胸を抉る。

このわたくしはどうなるのです
このわたくしが伊香郷であった事は世間に顔向けできる事だというのですか
かつでそんな私を嘲笑った彼女が今こうして横たわっているというのに
このわたしはおめおめと生き恥をさらしているというのは
一体どういうわけですか
こんな事があっていいはずがない
いつも女が男の餌食にされるなんてそんな事が!!


なお、この一件での調子麻呂と淡水とのやり取りから、淡水が女性に悪意を抱いていること、また、淡水と調子麻呂の間にも日本に来る前に一度「そういうこと」があったことが匂わされる。


593年正月 間人媛(はしひとひめ)と田目王子の間に佐富王女誕生


これに関して、額田部女王が大姫に「そろそろおまえ達に間にも…」と語りかけたときのリアクションから、二人の仲が明らかになる。


同じころ、毛人と布津姫との間に男子誕生


八角堂に籠った王子は、過去の出来事を思い出しながら、毛人の能力、そして意識下の毛人の選択について気がつき、これを毛人に知らせたいと思う。しかし、毛人に送ったテレパシーは、布津姫の看病に忙しい毛人の心の扉を開くことは無かった。


久しぶりに表れた王子に、大姫の件を問いただそうとする額田部女王。それよりも先に中継ぎの大王として「女性の大王」を提案する王子。
その後、トリと調子麻呂の話から、布津姫の子の話も知ってしまった王子はさらに落ち込む。


一方で、自分に身の危険を押してでも子どもを産みたいという布津姫に毛人は悩む。
そんな中、王子のことを相談してきた間人媛に対して、毛人は「あなたが元凶だ!」と言い切ってしまい、自己嫌悪に陥ったまま森の中へ。


そこで、お互いのことを考える王子と毛人が出会う。
初めて出会った夜刀(やたち)の池で。
説得する王子、拒む毛人
結局毛人の結論は変わらない…。
王子は失意の中、溺れかけた美郎女(みのいらつめ)を救うが、その場を去る。


王子を探しに夢殿(八角堂)に来た刀自古は、無断で中に入り、毛人の衣服を見つける。
そこに現れた王子は、勢い余って毛人以外の人間に初めて毛人への想いを打ち明けてしまう。

ごまかさなくともよいではないか
わたしとそなたは同類
お互い愛してはならぬ者を愛し
道ならぬ恋に苦しむ仲ではないか

刀自古は、そう言われて初めて(大姫に嫉妬するほどに)王子を好きになっていたことに気がつく。


自暴自棄になり、空っぽな気分になった王子のもとには沢山の仏が集まる。
そこに再び(トリが連れてきた)美郎女が…。


改めて大姫の件を訴える額田部女王に、王子は「わたしは女というものが好きではないのです」と答えるが、刀自古との間に子をもうけているから本気に取らない。そこで王子は「何か」を告白する。*1


593年 額田部女王が大王(推古天皇)となり、政治は大兄となる厩戸王子に任せるという体制が始まる。
その後、対隋政策に力を入れるようになるのを見るにつけ、馬子は、王子が(蘇我に成り代わり)為政者になることを求めていたことを知る。


布津姫は自らの命と引き換えに、子を産む。
阿倍内麻呂は、その子を阿倍毘賣(毛人の妻)の子として育てたいと申し出て、のちの蘇我入鹿となる。


膳臣(かしわでのおみ)の養女・美郎女(みのいらつめ)を新しく妻に娶ったという噂を聞きつけた毛人は、斑鳩に赴き、彼女が「気狂い」であることよりも、その目が間人媛に似ていることにショックを受ける。
一方、王子は、美郎女に対して遣隋使の構想と、隋にあてる書の内容を語って本編は終了する。

隋へあてる書の出だしはこうだ


日出処の天子
書を日没処の天子へいたす…


日出処の天子というのはこの国のことだ
どうだ いい表現だろう

*1:この部分は、額田部女王に話した内容が何なのか、ちょっと読み取れなかった。大王ではなく「為政者」になりたい王子の本心について喋ったことは間違いないだろうと思うが、大姫の件とは直接つながらない

サブキャラクター達の思惑〜山岸涼子『日出処の天子』(6)

日出処の天子 (第6巻) (白泉社文庫)

日出処の天子 (第6巻) (白泉社文庫)


全体の流れを見ると、この巻では、ひとりのサブキャラクターが非常に重要な役回りを果たしていることに気がつく。

  • 王子に傾き火のつきかけた毛人の気持ちを、一気に布津姫の方に向かわせたのは誰か
  • 倉梯宮炎上の中で、布津姫を選んだ毛人に絶望した王子の弱みにつけこんだのは誰か


それは新羅から来た厩戸王子の舎人である淡水。


大陸出兵の場面で毛人はこう言う。

淡水…不思議な男だ
(略)
これといって厩戸王子にまといついているわけでもないのに
王子の大事な時は必ず姿を現すし
この男 何を考えているのだろう
p57


斑鳩宮で襲われて、毛人が王子への気持ちが高まった際には、セリフはないが、常に毛人の方に視線が行っている様子が繰り返し描かれ(p161、p164)、その後、一気に毛人の気持ちを冷えさせた問題の「布津姫が病気」発言。
倉梯宮で毛人が王子ではなく布津姫を選ぶシーンと合わせて、王子の2度の絶望の場面に淡水が深くかかわっていることが興味深い。


そして、倉梯宮炎上〜新嘗祭の間の二日間。

わかっている
あなたが我を忘れたのはあの二日だけだ
それでいい
(7巻p10)

と振り返るが、髪を下して涙を浮かべる王子に淡水が口づけをするシーンは生々しい。
勿論、大王になってもらうことが淡水の夢であることは分かっていたが、「あの二日間」と、そこに持っていく様々な「仕掛け」のことを思うと、淡水の王子への想いの強さに改めて気がつく。
地味でしかも昏い光ではあるが布津姫に対する駒の恋心など、サブキャラクターの恋愛感情も、この物語を大きく駆動する力となっている。

鼻の描き方

先日、『ポーの一族』の感想で、鼻の描き方について言及したが、この巻では、鼻の稜線を描かずに斜線の影で鼻の高さを表現している絵が多い。緊張感の高まる場面が多く、手に汗握る。
だけでなく、下の一番左などは、天野喜孝を思い起こさせる。

全体の流れ

お酒を飲んだ帰り道に、駒ら山賊に襲われる毛人。剣であと一突きという危機に、火雲(笛)を吹く厩戸王子の姿が。王子が呼び寄せた鬼から山賊たちは逃げ出し、残った駒は、王子に暗示をかけられる。
一仕事を終え、ご機嫌のまま王子の肩に手をかけようとするヨッバライ毛人。そんな毛人に王子が何かを言いかけたときに調子麻呂、淡水、海部羽嶋の3人が来て言えずじまい。


大陸への出兵に乗り気でなかった大王が、蘇我寄りの者を中心に出兵の詔を出す。これに関して王子の意見を聞くため、馬子は渋る毛人を連れて刀自古の家に行く。
王子は、先日音を出すことができた毛人に、火雲を吹いてみよと命じるが、音は鳴らない。
出兵については、任那再興のために馬子が総大将になるという展開にして大王にプレッシャーをかけ、さらにその先の行動を起こすよう馬子に示唆する。


591年(崇峻4年)11月 出兵
592年(崇峻5年)正月 山背王子誕生
592年(崇峻5年) 厩戸王子 池辺宮から斑鳩に居を移す


王子引っ越しの際に、母の間人媛が5巻で再婚した田目王子との間に子を妊娠していることが発覚し、王子の母への憎しみが強くなる。
斑鳩宮を初めて訪れた毛人。その晩泊った毛人のもとに王子がキスをして帰る。毛人はモヤモヤした気持ちのまま、王子と刀自古のもとに行き、初めて山背王子と顔を合わせる。機嫌のいい王子は、山背王子を「大王の位に」と発言し、毛人はショックを受ける。


その後何度も斑鳩を訪れる毛人。毛人もいるある晩、斑鳩は大王の刺客たちの襲撃を受ける。
地下の隠し部屋で二人きりになった王子は、「毛人、好きだ」と気持ちを伝え抱き合い口づける。
刺客らが処分されたのち、毛人は自分の王子への想いを積極的に認める。

あのめくるめく愉悦感…今思い出してもこの身が震える


しかし、そこに訪れた馬子らに対して、淡水が布津姫が病気であることを口にし、毛人の王子への想いは霧消し、またも王子は絶望する。

え…毛人…
い 今、この手に掴んだと思った光が射干玉(ぬばたま)の闇に変わる

そして、布津姫のことを憎む王子は、自分の手で布津姫を死に追いやることを決意する。


悩んだ挙句、爺に頼み込み、倉梯宮(後宮)の炊屋(かしきや)に忍び込む毛人。そこで於宇(トリカブト)を持ち込んだ王子を見かけ、これまでの王子の行動の一端を知る。
一方、トリカブトの件で、大王は毒殺を図られたと蘇我氏に向けて挙兵することに。対抗する蘇我氏は兵を集め、松明で兵を多く見せ、夜襲は無し。翌朝、額田部女王、蘇我馬子厩戸王子で倉梯宮を訪れ誤解を解き、戦乱を避けることができた。


蘇我氏への鬱憤がたまる大王は、紅葉の宴で、三国(福井)から献上された猪を見て「誰ぞの首も打てたら」と暴言を吐く。これが馬子の耳にも入り、運命の時を迎える。


592年11月 東国の調(みつぎ)使いが大王に献ずる場で、崇峻天皇暗殺


暗示をかけられた駒が手を下す予定だったが失敗し、混乱した現場で王子が大王を殺害。
さらに、布津姫に手をかけようと、白髪女(しらかみめ)を刺し、布津姫も、というところで、毛人に見つかる。王子の涙を見て、ここでやっと王子の自分への気持ちに気がつく毛人。しかし、毛人の出した答えは…

「わたくしを この毛人めも殺して下さいませ!」
「毛人…ああ毛人!
これがそなたの答えなのか!
では…わたしはいったい
わたしはいったい何のためにここまでやって来たのか」


事件後、王子は淡水と二日間を過ごし、毛人は布津姫と過ごす。
11月末の新嘗祭は、厩戸王子の即位式大嘗祭)になると思われたが王子は現れず、額田部女王が式を執り行うことに。


なお、p112にて膳美郎女(かしわでのみのいらつめ)が初登場。

花の24年組の漫画家たちの作品についての感想目次

Wikipediaによれば、24年組とは「昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群」ということで、皆がピタリ昭和24年生まれというわけではないのですね。
現在勉強中です。

そのほか

伊藤潤二の短編「記憶」が、萩尾望都の短編「半身」を下敷きにしていることを説明している内容で、2作品が類似していることを見つけたときは感激しました。

モヤモヤはインタビューで解消〜永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

最初に書いた感想

あまりに気になるタイトルながら、実は「生きづらさ」を感じている人の本だと知り、読んでみた。
結果、とても良い本だと思った。この本に救われる人は、おそらく沢山いる。
高校生とか大学生に読ませると、勘違いして、男も女も風俗に行きたい、とか言い始めるかもしれない(笑)ので、もう少し上の世代の人に多く読まれてほしい本。


とはいえ、最初に読んだときは、綺麗すぎる、と感じた。
それは、一度どん底まで落ちた吾妻ひでお失踪日記2〜アル中病棟』を読んだときに、「社会復帰ってそんなに簡単じゃないんだ…」と思ったこととの比較からだ。ラストで世界が輝いて見えるようになり、かなり常人に近づいた現状を見て、「不幸が足りない…」と何となく思ってしまったからだ。(上から目線で大変申し訳ありません)


読み返してみると、そうではない。
現状では、考え方が変わったものの、依然としてコミュニケーションは苦手で友達はいない。スペック的な部分が大きく変化したわけではない。
それでも、「大切な何か」を掴んだことが彼女(永田カビさん)にとって大きかった。
この本の凄いところは、かつての彼女にとって何が一番不足していたのかを、徹底的な自己分析のもとに明確に表現できている点だ。しかも、それは一般的な内容ではなく、彼女に特化した「特殊解」であるところに価値がある。彼女の本気度が見える。*1


そして、その「大切な何か」を示す見せ方(構成)も、非常に考え抜かれたものになっていると思う。
レズビアン風俗でお姉さんと対峙している場面から一転、この漫画は10年前から始まる。
大学を半年で退学し、鬱と摂食障害に悩まされた時期、彼女は悩みの原因を「居場所」に求めていた。

「所属する何か」「毎日通う所」がなくなった事が無性に不安だった
「所属する何か」「毎日通う所」=自分なのだと思っていた
自分の形を支えていたものを失って消えて空気に溶けそうだった p9

しかし、新しい「居場所」として、アルバイトをやっても不安はなくならない。(ロッカーでこんにゃくを食べる話が強烈でした)

あたたかい居場所を得るにはお金以外にも何かがいるらしかった
その、お金以外の「何か」は、
物をおいしく食べるのにも、自分をきれいに保つのにも
人と尊重し合う事にも必要なものだと
後年気付くがこの時はまだ知らない p21

と、序盤は「何か」を見せずに焦らす。焦らすことで、もっと大切なことがあることを予告する。
なお、この引用部分で「人と尊重し合う」という言葉を使っているのが、自分は好きだ。
人と会話をする、人とコミュニケーションをとる、でもなく、人と尊重し合う。それはとても大事なことだし、それができるためには、ここで焦らされる「何か」が必要なのだと思う。


章が変わって第2章「前日譚」は、次のような言葉で始まる。

自分にとって親の評価が絶対だった
親から認められたい
がんばらなくても許されたい
それだけが原動力で動いていた p25

しかし、アルバイトをして貯金をし、さらに、「親の希望する正社員」を目指して面接を受ける中で、必ずしも親の評価を受けない部分に、自分が一番やりたいことがあることに気が付く。それは、マンガを描くことだった。(パン屋の面接担当から「マンガがんばれよ」と言われて、電車内で泣いてしまうエピソードが好きだ)
そこから数年間マンガに打ち込み、ついにデビュー。
物語の流れとしては、好きなマンガに打ち込むことで不安も消えて、ハッピーエンド、となっても綺麗なのだが、予想とは違って、このあと彼女は精神的に辛くなり、病院で薬を処方してもらうようになる。
第1章の序盤で焦らされた「何か」というのは、「マンガを描くこと」ではなかったのだ。この漫画は、ここからが面白い。


薬を飲んで状態が改善した頃、自分の不安を生むものが何かを探ろうと、さまざまな本やWEB記事を読んでいた彼女は、自分に「誰でもいいから抱きしめてほしい」という欲望があることに気が付く。(このときの、「フリーハグ」と地元名を入れて毎日検索していたという話には、大変だとは思いながらもちょっと笑ってしまう)
そしてここに来て、やっと、今まで自分に足りなかったこと、第1章から焦らしてきた「何か」に気が付く。

私…自分から全然大事にされてない
(略)
自分を大事にできないから、
何を思っても自分から「大した事ない」扱いされる
だから何がしたいかわからないし、ついには何も考えられなくなってしまった p55

自分で自分を大切にすること、自分の本心に耳を向けることが「物をおいしく食べるのにも、自分をきれいに保つのにも人と尊重し合う事にも必要なもの」だったのだ。
それでは、彼女自身は、何がしたいのか、どんな本心を持っているのか。
(ここからが、彼女の「特殊解」だと思う。)


ここで初めて自分自身の性欲と向き合う。
彼女は、性的な事を考えてはいけない、性的な事なんか一生自分には関係ないまま死ぬと思っていたのだった。でも、自分の気持ちに素直になるために、これまで心の奥底に押し込めてきた「性的な事」に目を向けるようになる。


やっと自らを解放し、レズビアン風俗について検索しまくった翌日、世界が広くなったことに気が付く。(ここから第3章)

「親のごきげんとりたい私」の要求じゃなく、私が私の為に考えて行動している。
それがこんなに充実感のある事だなんて

ここの理屈が面白いのだが、レズ風俗について考えるようになってから、自分の身だしなみを気にするようになり、(雑念が多く集中できなくなるという弊害はあったが)仕事も頑張ってできるようになったという。後者はホントにそうかなあと思うが、わからなくもない。
世の中の「幸せな人」には、仕事に生きがいを感じて、それに打ち込んで幸せを掴む人と、仕事以外の「雑念」に振り回されながらも幸せに生きる人がいると思う。自分は、明らかに仕事に生きがいを感じるタイプではなく、彼女と同様に、レズ風俗(的な何か)で得たエネルギーを使って、日々の仕事を頑張るタイプな気がする。


かつ、重要なポイントがあると思う。
例えば、「レズ風俗」ではなく、「フィギュア集め」を、(これまで抑えてきたが)本当に自分のやりたいことだと気が付いた人がいて、この話のような展開になるかといえば、ならないと思う。
自分の気持ちに目を向けたときに出てくるものは、多分、永田カビさん以外の誰が考えても、人との接触、それこそ、最初の引用にあった「人に尊重される体験」なのではないか。つまり、「レズ風俗」というのは特殊解だが、一般解も、そこからあまりずれていない場所にある。
「そこ」に人がいるからこそ、身だしなみを気にして、自分を大事にするようになるし、それへと向けた無限のエネルギーが生まれてくるのではないだろうか。

改めて書いた感想

…と、ここまで書いてきたが、どうもしっくりこない…。
感想の文章自体も最初は良かったのに、何かズレてきた気がする…。
よく考えてみると、なんというか、この漫画にはしっくりこない部分が何点かある。
明るいラストを見て、「よかったね」と思う一方で、落ち着かない部分が少しだけある。


⇒本当に、「レズ風俗」が彼女を救ったのか?
まず、なぜ彼女を「レズ風俗」が救ったのかといえば、大きな一つの要因としては、それが「親のごきげんとりたい私」から一番離れた「自分のやりたいこと」だからだろう。
ラストで彼女はこう書いている。

高校を出てからの10年位、行動の選択肢に常にあった「死」が初めて保留になった
今までずっとどうしてみんな生きていられるのか不思議で仕方無かった
きっとみんな何か私の知らない「甘い蜜」のようなものを舐めているんだと思った
それが今、急に口に大量に注ぎ込まれたような感じだった
生きる理由、生きる力、この世の場所、何が「甘い蜜」となるのかは人によって色々だと思う
(略)
私が最後にまともな生活をしていた頃である高校時代は
友達がいてくれる事でほめてもらえる事が甘い蜜だったから
友達のいる状態に戻る事しか満たされるすべは無いと思ってたけれど
手ごたえを持って描ける物がある事、自分の描いた物をたくさん見てもらえる事
「何によって自分の心が満たされるのか」がわかった気がする
発信して人に届く事、人に認めてもらう事だ

つまり、前回、デビューして「まるで長い洞窟から外へ出られたようでまったく新しい自分になったよう」と感じていたにもかかわらず「2年も経つと魔法が解けたように苦しくなった」のは、マンガの題材が「手ごたえを持って描ける物」では無かったからだ。そして、「親のごきげんとりたい私」が、自分の本心を閉じ込めていたからだ。
それに加えて、彼女が「レズ風俗」で救われたのは、彼女がマンガ家であり、マンガの題材として「レズ風俗」が新鮮だったからという要因が大きい。pixivという媒体の存在や、体験漫画のニーズが増えているという現在の社会状況ももちろん関連する。
その意味では、彼女が商業誌デビューしたときの二の舞にならないためには、「レズ風俗」以外の新しいネタを仕入れていかなくてはならない。もちろんすべての漫画家に言えることなのだろうが、その意味では、これからの頑張りが重要で、「甘い蜜」として彼女の心を満たした「発信して人に届く事、人に認めてもらう事」というのは、継続性があるわけでは全然ない。


と考えると、第4章(当日編)で、レズ風俗のお姉さんに会いに行く前と帰り際に2度口にしているように「友達をつくること」が、彼女を真に救うことになるのかもしれない。今は人気だから何とか大丈夫だが、人気がなくなったときに、独りだときっとまたきつくなる。自分でもそれを心の底で思っているからこそ、ここでわざわざ2度も「友だちがほしい」と書いているのではないかと邪推する。


⇒親のことをどう思っているのか?
邪推ついでに言えば、「親のごきげんとりたい私」が自分の本心を閉じ込めていた状況と、かなり長い間「正社員になれ」と親に言われ続けてきたことから考えると、もっと親を恨んでも誰も文句を言わないと思う。にもかかわらず、親への批判は避けているように見えるのが気になる。
おそらく、彼女はとてもいい人なんだと思う。思うけれど、一時はブームになるほど「毒親」という言葉が溢れており、実の親を批判することは、それほどレアケースではない。親の問題も否定できない部分があるにもかかわらず、親への文句が全く出ないのは少し気持ちが悪い。
何か整理できていない部分があるのだろうか。


⇒彼女はレズビアンなのか?
そして最後に、彼女が本当に女性を好きなのかどうかがよくわからなかった、というのも、ちょっと気持ちが悪い。「性的な事」を避けてきたのは分かるが、マンガの中で2度登場するレズ風俗の場面を読んでも、彼女がそれを本当に望んでいるのかよくわからない。
そもそも、「レズ」という(通常侮蔑の意味も含まれる)言葉をここまでおおっぴらに言いながら、性的指向についての悩み描写もカミングアウトも、そして恋愛体験も一切書かれていない本というのは、ほとんどないんじゃないかと思う。
唯一書かれているのは、「フリーハグ」という言葉で検索しまくる場面での自己分析。

ところで、フリーハグ程度なら性別問わないのだが
それ以上の事をしたい対象が なぜ女性かというと
自分が「自分」である前に「女」であると
過剰に定義されるのが怖いというか...
後はもうとにかく男体より女体に性的な興味がある
でも特定の女性に性欲を抱くわけじゃない…みたいな


これだけ理路整然と自分の悩みを言語化していくこの本の中で、自分で自分をレズビアン認定する場面がこれだけしか無い、というのは、本当にしっくりこない。そして、そもそも、「誰かを好きになる」ということをベースにしなければ、性的指向を語ることは無理なのではないかと思う。しかし、この本には、それが無い。
ただ、やはり、彼女は「性的な事」を考えること自体が本当に苦手なのではないか、という気もする。
特に、(「創作物の描写」を改めるよりも)「性に関する正しい知識」を学校などでしっかりと教えるべきという話が、突然に、前後の脈絡とあまり関係なく表れる場面(p118)状況を見るにつけそう思う。。
そうすると、どういう覚悟を持って「レズ風俗」などという言葉をタイトルに選んだのか、と軽い怒りが沸き起こってきてしまう。そもそも、この本を読む前に本の内容として想像していたのは「レズ風俗って何?」ということしか無かったから、読者を騙すタイトルであることは確かだろう。
別にバイセクシュアルや、アセクシュアルの人もおり、グラデーション的な違いがあるんだから、男女どちらに性欲を感じるのか、という部分を追求する必要もないのかもしれないが、漫画を読む限り、彼女がレズビアンであるとは何だか信じられなかった。(むしろ田房永子が熱望するような、安全な形での「女性向け風俗」を、彼女が真に求めているのでは、とも思う)


cakesアンケートを読んで

ということで、この本がしっくりこない原因は(1)本当は友だちが作りたいということの方が彼女にとって重要では?(2)本当は、親のことを憎んでいるのでは?(3)そもそもレズビアンという自己認識が誤っているのでは?という3つにあった。
ここまで書いたとき、CAKESにインタビューの前半を読み、後半に、どうも自分の疑問に答えてくれそうな内容が載ることを知り楽しみにしていた。
…で、読んでみると、まさに、自分がモヤモヤしていたことが載っていた!!
また、そこからリンクの張ってあったpixiv連載中の『一人交換日記』もモヤモヤを吹き飛ばす内容だった。

“人肌”は、自分のすべてを救ってはくれなかった|永田カビ @gogatsubyyyo |『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』永田カビインタビュー

一人交換日記 - 永田カビ | 無料試し読み 【pixivコミック】


⇒(1)本当は友だちが作りたいということの方が彼女にとって重要では?
まず「レズ風俗」に救われたのか?という話については、まさにインタビューで答えている。

最初にレズ風俗に行ったきっかけである「人との接触で心満たされればすべての苦しみから解放される」神話が、まだ自分のなかで根強いんでしょうね。3回 行ってみた今、初対面で数十分しか会えない、しかもプライベートは聞いてはいけないマナーになっている相手と触れ合っても「すべての苦しみ」からは解放さ れないというのはわかったのですが……。
なので、レズ風俗は今のところの非常手段であって、他の方法も模索中です!

一人交換日記の第2話でも「私のこと好きじゃない人にお金払って虚しくなりに行くのか!」と脳内の自分がツッコミを入れているが、やっぱり、それでは救われないことは分かっているのだ。
で、インタビューでは、「他の方法」として、「昔の友だちでも仕事関係の人でも、それこそネットで知り合った人でも、機会があれば会うようにしている」としている。
そうだよね、それしかないよね、と改めて思う。


⇒(2)本当は、親のことを憎んでいるのでは?
一人交換日記では、『レズ風俗レポ』に比べると、より煩いものとして親が描かれており、特に第5話では母親に対する複雑な気持ちを打ち明けており、とてもスッキリした。

数年前まではずっと
私がしんどいのは全て
お母さんのせいだと思っていた。

から始まり、母も被害者だったのでは?ということに気づき、母を見捨てて実家を出ていいのかと悩むこの回と、そして第3話での、父親への激しい怒りを露わにするシーンで、自分のモヤモヤは完全に晴れた。親に対する憎しみについては『レズ風俗レポ』では話がわかりにくくなってしまうため、封印していたのだろう。
それにしても『一人交換日記』は、彼女の悩む様子だけでなく、悩んでいる状況に対する分析が上手く、それにもかかわらず、物事が全く思い通りに行かない(部屋を借りなおす話には衝撃を受けました…)ため、本人は大変かもしれないが、読者側はスリルを感じながら読める。リアリティTVみたいで、外から見ている自分に少し感じる罪悪感がまたスパイスになっているのかもしれない。ということで、限りなく悪趣味な感じもするが、自分は永田カビさんを応援しています。


⇒(3)そもそもレズビアンという自己認識が誤っているのでは?
これについては『一人交換日記』でも全く言及なし。結局、「人肌」至上主義ということで、それを満たせるサービスが「レズ風俗」ということなのでしょう。自分がレズビアンではないのに、タイトルに「レズ風俗」を謳うのはやはり気持ちが悪い。自分はLGBTについて詳しくないけれど、ノンケの男の人が『さびしすぎてゲイ風俗(ホモ風俗)に行きましたレポ』を書いたら、とても差別的な感じがするので、このタイトルについては、やっぱりちょっと引っかかりは残ったのでした。


ともあれ、『一人交換日記』は、とても面白く、何となく読んでいるこちらも励まされ、福満しげゆきの『僕の小規模な失敗』を思い出しました。これからの作品も楽しみにしていますので、頑張りすぎないように時々休みながらマンガを続けていただければと思います。

参考(ブログ内リンク)

*1:以前読んだストーカー本によれば、一般解は、一時しのぎ、成り行きまかせ、様子見、分析にとどまる意見など、現状を変えることにはならないアドバイス。それに対して特殊解は、まさにその人が直面している問題点に即した個別で具体的な回答。

コンパクトにまとまった「入れ替わりもの」〜川端志季『宇宙を駆けるよだか』全3巻

かわいくて素直な性格のあゆみは大好きな人と恋人同士になったばかり。だが、初デートに向かう途中で同じクラスの然子の自殺を目撃し、意識を失ってしまう。目が覚めると、あゆみは醜い容姿の然子と身体が入れ替わっていて…。
容姿も性格もまったく違うふたりの運命が、奇妙にねじれながら交錯していく――。
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「入れ替わりもの」という定番ネタで、最近ではこの流れを汲んだ押見修造『ぼくは麻里のなか』という傑作(連載中)があるのにもかかわらず、素直に楽しめました。また、3巻という短さも内容に合っていたし、スマッシュヒットです。以下の感想はネタバレありです!

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