Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

女子はなぜ山に登るのか?〜鈴木ともこさん、鈴木みきさんのエッセイ漫画4冊

別々の作者による山登りエッセイ漫画を連続して読んだ。
しかも二人は偶然にも同じ鈴木姓。
同じジャンルのエッセイ漫画ということで比べて読んだが、方向性が全く違って面白かった。

鈴木ともこ『山登りはじめました』『山登りはじめました2』

山登りはじめました めざせ!富士山編

山登りはじめました めざせ!富士山編


まずは鈴木ともこさん。
鈴木ともこさんは、我が家で未だに根強い人気を誇る たかぎなおこさん*1の漫画にも登場しているようで、娘が「あ、この人、たかぎなおこさんの本に出てた人だ」と言っていた。(内容的に『マラソン一年生』の戸田マラソン?読み直してみます)
実際、たかぎなおこさんのエッセイ漫画に雰囲気はとても似ていて、「仲間と一緒に行く旅の楽しさ」という観点から山登りを紹介する本になっている。
鈴木ともこさん+編集・今尾さん、たかぎなおこさん+編集・加藤さんの4人での登山となった丹沢・塔ノ岳の回では、徹夜明けで参加し、テキーラを携帯するなど、(たかぎなおこさんの漫画ではおなじみの)加藤さんの変人っぷりが遺憾なく発揮されている。
また、何度かご両親が登場するのも、たかぎ漫画の雰囲気そのままだ。
ちなみに、大道芸人をやっているというお母さんが面白い。↓


しかし、たかぎ漫画と一線を画す、この漫画の特徴は、山登りに同行する相手として、旦那さんが頻繁に登場すること。二人は当然仲が良いんだけど、かといって、イチャイチャを感じさせない、良いバランスになっている。
エッセイ漫画というジャンルは、イベントの楽しさを実際よりも数倍に増すのが得意だが、登山という危険を伴う趣味に対しては、楽し過ぎるガールズトークは似合わないということなのかもしれない。男の方が安心というわけでは勿論なくて、男女間の盛り上がりすぎない落ち着いた会話が登山の雰囲気に合っていると思った。


なお、2巻を読んで、やっぱり屋久島に行ってみたくなりました。

鈴木みき『あした、山へ行こう!』『悩んだときは山に行け』

悩んだときは山に行け! 女子のための登山入門

悩んだときは山に行け! 女子のための登山入門


そして、鈴木みきさん。
この人の作品は本気度が違って、エッセイ漫画では括れない、専門的な内容を多く含む。
『悩んだときは山に行け!』を読むと、この人が辿ってきた道がよくわかるが、24歳でカナダで山に出会い、それ以降、山の魅力にとりつかれ、山雑誌読者モデル(?)、山小屋勤務などを経て、『山と渓谷』で連載を持つような登山系イラストレーター。
自身の豊富な経験から、とにかく「まずは一人で山へ行け」と怖いことを言う。山のことを知っているからこそ本のタイトル通り「あした、山へ行こう」という行き当たりばったりの決断ができる。


フローチャートでは、大人のガイドツアー、山岳会、わいわい登山などの選択肢の中から「ひとりで行け」をシード権扱いにしてます・・・


一方で、山へ行くための準備や装備、ルート設定についても本格的というか、わかっている人のアドバイス。装備については、まずは必要なものを絞り込み、家にある代用品を探して、それでもなければ必需品のみ購入する。何度も行きながら買い揃えよう、という、とても説得力のあるアドバイスがそこかしこに溢れる。
「ひとり」をおすすめしているので、エッセイ漫画としてはワイワイガヤガヤ系ではなく、(勿論、山の仲間もたくさん出ますが)ひとりごとベース。『悩んだときは山に行け!』のタイトル通り、進路に、、恋愛に、個人的な悩みがちりばめられているのが面白い。


本格的に山に行きたいと思ったら鈴木みきさんの関連本を熟読しようと思いました。

総括〜登山の楽しみ

たかぎなおこさんや、キクニのマラソン漫画でも、最初に「なぜ、マラソンをするのか?」という話が出てきたが、鈴木ともこ鈴木みきの漫画でも「なぜ、山に登るのか?」という話が出てくる。
この答えとして共通するのは、達成感という部分があるが、登山の場合は、どちらも、(具体的に言葉で答えが示されるわけではないが)「自然との一体感」みたいなものが描かれている。マラソンよりも、もっと宗教的な感覚が、登山が人を惹きつける理由のようだ。
自分も大学のときに上った富士山で御来光を拝むことが出来たらもっと登山に惹きつけられたかもしれないが、自分のときは悪天候で何も見えず、「富士山なんか二度と行くかボケ!」と思い、それ以降しっかりした登山はしないままとなっている。
まずは高尾山から始めて子どもと一緒に山に登るのもいいなあ、と、今は思っています。

*1:小3の娘は、親戚のお姉さんに聞いたとでも言うような口ぶりで「たかぎなおこさんが〜〜って言ってたよ」と喋る

1986年の出来事予想〜清水玲子『月の子』(4)〜(6)

月の子 (第5巻) (白泉社文庫)

月の子 (第5巻) (白泉社文庫)

月の子 (第6巻) (白泉社文庫)

月の子 (第6巻) (白泉社文庫)

とにかく面白い。前回、つのだじろう先生の名前も出しながら、オカルト要素の功績を説いたが、そこは作品の本質にはあまり関係が無かった(笑)。
3巻までの基本設定の上で、それぞれの登場人物の感情が交差するのが4巻以降。
アート、ベンジャミン(ジミー)、ショナの三角関係と、ベンジャミンに敵対するティルトで役者はあらかた揃っているが、物語的には必須ではないはずのセツをめぐる状況が、話を立体的に面白くしている。
3巻で一度ショナに告白をしており、ショナ一筋ではありながら、4〜6巻のセツの成長と存在感は抜群で、名シーンも多い。

  • ティルトの保護下でティルトの言う通りにしか行動できなかった自分の殻を破り、自分の思いに従って生きようと決意するシーン(4巻P88)
  • 今まで常に相手の話の聞き役だったセツが、突如、ショナを責めるように詰め寄り、ニューヨークの街中で自分からキスをする名シーン(6巻P94)
  • 一転して、オドオドしながら、美術館で「2番目でいいんです、あるいは3番目でも4番目でも」と告白するシーン(6巻P150)
  • これらの試みが実を結び、ショナが「いつか本当にきみが女性化したら僕がきみのところにいく」といってセツにキスするシーン(6巻P156)


そんなセツに対するティルトの捻じれた気持ちがまた面白い。
4巻冒頭で、飼っている犬に「セツ」と呼んでいるように、ティルトにとって、セツは、子どもの頃から離れたことのないペットのような存在。しかし、ショナと一緒にいたセツが通り過ぎても、自分をティルトと気づいてもらえなかったことにショックを受ける。ジミーが過去の記憶を取り戻すシーンで、かつ、ティルトがセツに対する思いを再確認するシーン(4巻後半)から引用する。

何もしない点ではセツもベンジャミンも大差なかった
かえってセツの方が何もしないくらいだった。
僕はセツを愛していた
でも同じくらい憎んでもいた
その 何も知らない、何もしない汚れのないやさしさを、美しさを
(略)
僕が汚くなればなる程
セツは美しく汚れなくなる気がした
何の苦労も汚れも知らないからこその美しさ、はかないやさしさ
(略)
ぼくはセツになりたかった
セツのように何も知らずに
やさしく笑って好きな人の卵を産みたかった

ffff

勿論、アートとジミー(ベンジャミン)にも動きがある。

  • 4巻後半以降のジミーは、基本的に女性体でいることが多くなる。(ただし、ショナがキスをすると少年のジミーに戻る)
  • 5巻後半で、ジミーは自分が人魚であることも含め、1巻冒頭の交通事故以前の記憶を全て思い出す。
  • さらには、5巻ラストで初めて意識的に「力」を使って報道陣のビデオカメラを破壊し、カメラマンを失明させる
  • セツの勧めもあり、ジミーは、アートの前に女性体で現れて、すべてを告白する。(なお、声が出ないのではなく、喋れるがダミ声という設定に変わっている)
  • アートは、女性体のジミー(ベンジャミン)と過ごすうちに、自分の好きだったのは少年のジミーだったことに気が付いていく。
  • また、アートは、ジミーがチャレンジャー号を爆発させるという予知夢を繰り返し見て、ジミーを信用できなくなってくる。(ティルトが自分の力をリタで増幅させて見せている)

こういった中で、アートが(自分のために両足を使えなくなった)ギル・オウエン(ティルト)に絶対服従を誓うというところも見どころだ。(5巻中盤)ちょうど、ジョジョ第4部で罪悪感を武器に相手を無力化していくスタンド「ザ・ロック」を持つ小林玉美のやり口に近い。

7〜8巻の展開予想

さて、4巻以降、ジミー、ショナ、ティルトの予言が、次々と当たり始める。

  • 1985年11月13日、ネバドデルルイス火山の噴火(Wikipediaによれば、死者23,000人、負傷者5,000人、家屋の損壊5,000棟。20世紀における火山噴火で2番目の被害者)
  • 1986年1月26日、チャレンジャー号爆発事故(7名の乗組員が死亡)


その中で、ギル・オウエンの命は病気(再生不良性貧血症)によって来年(1986年)の春までしか持たないことがわかり、一方、どの人魚も産卵後に死んでしまうということで、アート以外の主要キャラクターのカラータイマーが点滅し始めた状態になる。
なお、産卵後に人魚が死ぬという設定は、登場人物たちがこれを知るタイミングが遅すぎるだけでなく、魔女との契約がティルトにとても有利なものだったことを示すことになり、物語の流れからすると違和感がある。
さて、結末としては、主要登場人物は全て死んでしまうということになるが、その中で、「どんな1986年」が物語にふさわしいのかを考えてみる。


まず、ティルトの企む地球滅亡計画通りに事態が進行した場合を考える。物語は、この筋書き通りに進行しているので、一番ストレートな結末ともいえる。
この場合、ティルトが言う(5巻P44)ように、

  • アートとジミーによって、チェルノブイリ原発が爆発して、地球は人魚が卵を産めない世界に。
  • それに反発する人魚たちの圧力によって、アートとジミーは自ら命を絶つ。
  • セツは女性化し、ショナの子を産む。
  • ギル・オウエンは病気で亡くなる。
  • セツ、ショナら人魚たちも産卵を終えて亡くなる。


この計画は少なくとも5巻の段階では非常に上手く行っている。まさに、デビルマンの序盤で飛鳥了が疑うような「考え通りに上手く行きすぎている」展開になっている。が、これは、本来ティルトよりも「力」が強いはずのベンジャミン(ジミー)が覚醒していないからだ。勿論、魔女との契約によりティルトの力が強くなっていることもあり、5巻でのジミーVSギル・オウエンの直接対決では、お見舞いに来たジミーに虫入り(幻)のケーキを食べさせ、蛾の一群の中に埋もれさせるようにして圧勝している。*1
しかし、おそらくベンジャミンが「覚醒」後、徐々にティルトの思い通りに行かない出来事が増えていくのだろう。
なお、ショナの立場から言えば、このケースは「次善」とはいえ、望ましい展開かもしれない。実際、ショナは、女性化したセツを受け入れる約束をしている。
ただし、セツは「力」も小さいし、ベンジャミン以上に他人任せで、生きる力もない。優しいショナとは良いカップルかもしれないが、この二人+ティルトだけが幸せになるというのでは、物語的なカタルシスがない。
なお、リアルな地球の状況としては、1986年4月26日にチェルノブイリ原発4号炉が確かに爆発し、Wikipediaによれば、癌などの死者を含まない直接的な死者数は、数百人程度にのぼったと言えそうだ。つまり、ベンジャミンの予知する「たくさん人が死ぬ」「人魚は卵を産めなくなる」世界を、リアルな地球人類は生きていると言える。

ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人ともいわれるが、事故の放射線被曝と癌や白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある
チェルノブイリ原子力発電所事故 -Wikipedia


次に地球滅亡が防がれる=チェルノブイリが爆発しない場合を考えてみる。
これはつまりジミーとアートが何らかの原因で結ばれない場合を意味するが、2人の気持ちが離れることは考え難いから、可能性としてはどちらか一方が死んでしまうというケースが考えられる。


まず、アートが1986年4月よりも前に死んでしまう場合を考える。
原因としては、ジミーが「覚醒」した力を制御できなくなった場合に、アートを何かの巻き添えにしてしまう場合が考えられる。この場合、責任を感じたジミーがアートの後を追うに違いないため、結果的にはチェルノブイリが爆発した場合と同じ結末を迎える。しかし、そうしてしまうと、物語的な盛り上がりを著しく削ぐので、可能性としてはなさそうだ。
ジミーが1986年4月よりも前に死んでしまう場合を考えても、結局展開は変わらないので、やはりチェルノブイリが爆発しないというのは難しそうだ。第一、魔女と交わした契約でティルト(ギル・オウエン)が求めたのは地球を「死の惑星」とすることなので、やはり、チェルノブイリは爆発するのだろう。
さらには、リアルな世界の状況を踏まえずに、都合のいい平行世界が描かれるのは、リアル世界の住民として納得しづらい。


そうすると、チェルノブイリが爆発するのは決まりで、あとは、ベンジャミンが「覚醒」した力を何処で使うのかという部分だが、これはティルトへの恨みを晴らす場面で使うのだろう。と考えると、さらに、派生的に起きることとして、ベンジャミンが、ティルトを倒すために発した「覇気」が、ティルトだけでなく、ティルトを守ろうと動いたセツにも影響してしまう、という展開が座りがいい。
しかし、地球滅亡に向かっているにも関わらず、いまだ私怨優先で動くベンジャミンには、どんどん読者が共感しづらくなってくる。
したがって、チェルノブイリが爆発したあと、ベンジャミンが、自分の命と引き換えに、爆発による「広がり」をとどめるバリアのような働きかけをする。その結果、地球への影響が最小限に抑えられ、地球はかろうじて「死の惑星」となることを免れる、というストーリーも考えられる。(リタは、最後になって、ティルトではなくジミーの力を増幅する側に立つのでは?)
このケースであれば、ベンジャミンはアートの卵を産むことができないが、その思いを貫くことができる。また、セツは女性化し、ショナと結ばれることになる。ティルトが、ベンジャミンと共倒れのような形で死んでしまえば、物語的なカタルシスが十分にある。


ということで、ある程度、7〜8巻の展開予想は固まった。あとは推しているキャラであるセツがどうなるのか?というあたりに期待して次を読みたい。

色々なジミー

6巻で、ビデオカメラ爆発事件後にいじけているジミーと、遊園地でその「能力」がばれたあとで女性体で部屋に現れたジミー。
後者は、上半身・下半身のバランスがおかしいのだが、少年がいると思っていたところに突如現れた女性に対するアートの印象は、こんな感じかもしれないと納得もする。

*1:いずれも、楳図かずお『洗礼』『蟲たちの家』へのオマージュか?

とっつきにくい世界から救ってくれたあるキーワード〜清水玲子『月の子』(1)〜(3)

たまたまのタイミングだが、先日読んだヤマシタトモコ『Love,Hate,Love.』も主人公がバレエをやっていたし、この『月の子』でも主要登場人物の一人(アート)がバレエダンサーだ。
バレエは、山岸涼子アラベスク』からの流れなのか、少女マンガでは伝統的に用いられるモチーフなのかもしれないが、少年マンガにはまず出て来ない。
そもそも、こういう部分に少年マンガと少女マンガのスタンスの差が典型的に表れているように思う。
夢や憧れの対象である世界、つまり読者の生活とかけ離れた世界で美男美女が活躍する物語を描くのが伝統的な少女マンガであるのに対して、伝統的な少年マンガは、読者の生活と地続きの場所から始まる。たとえゴールが華やかな舞台であったとしても、「ふりだし」は、読者と同じような「日本」の学校生活だったり、家族との小市民的な生活だったりする。
だから、自分は、先日読んだ萩尾望都ポーの一族』のような世界には、なかなか入り込めない。ログインできずに、外部から物語を眺めている感じになってしまう。そこが、一部の少女マンガに入り込みにくい原因であるように思う。
このような意味で、『月の子』を読み始めてしばらくは「ログイン」できなかった。舞台は外国で、メインキャラクターがバレエダンサー。しかも、バレエダンサー(アート)と、いわば恋敵の相手(ショナ)は、顔が似ていて髪形でしか区別ができない。
これはとっつきにくい。引っ掛かるところがなくて、ダメかも…と思っていた。


しかし、意外なところから出てくる言葉が、自分をこの物語世界に繋ぎ止めることになった。
それは「ニガヨモギ」。

第三の御使い ラッパを吹きしに
大いなる星 天より隕(お)ちきたり
川の三分の一と 水の源の上に隕(お)ちきたり
この星の名をニガヨモギという


そう、2巻になってから黙示録の予言の話が出てくる。
つのだじろうをこよなく愛し、中高生の頃に五島勉に夢中になったオカルト大好きな時代のある自分(笑)にとっては、月や人魚、運命の相手みたいな話は全く刺さらないのだが、黙示録の話題は、とてもとっつきやすいモチーフだ。
『月の子』も、つのだじろう先生が描いていると思えば、途端に夢中になって読める話になってくる。(笑)


実際、2巻のその頃になってから話の全貌が分かってきて盛り上がっていき、3巻最後の段階では、様々な設定が絡み合ってこの物語が出来ていることが分かる。

  • 人魚姫
    • 人魚は、寿命が200〜800年ある宇宙人で、地球には産卵のために訪れている。
    • アンデルセン童話の人魚姫(セイラ)が人間との間にもうけた子がティルト、セツ、ベンジャミン(ジミー)。
    • セイラに失恋した男の人魚(ポントワ)の子がショナ
    • ベンジャミンは、満月の光を浴びると女性体になる
    • 女性体になったベンジャミンは、人魚姫(セイラ)と同様、人間に対しては声を出すことができない
  • 黙示録
    • 人魚が人間に恋をすると災いが起きる
    • ベンジャミン(ジミー)の予言によれば、1986年(来年)の春に工場が爆発し、地球は死の惑星に向かう
    • 黙示録の予言で使われるニガヨモギは、チェルノブイリのこと
    • 運命の二人であるショナ(ポントワの子)とベンジャミン(セイラの子)が子を産めば悲劇は防げる
  • クマノミ
    • クマノミはオスとメスの両性生殖腺を持っており、群れの中で一番大きい者だけがメスになってタマゴを産むことができる。その他の魚は未成魚のまま発育しない。
    • それと同様、ティルト、セツ、ベンジャミンの3人の人魚のうち、一人だけ女性体になれるのがベンジャミン。(ベンジャミンが死ねば他が女性体になる)
  • 人魚姫の魔女
    • ティルトには実は卵細胞がない。(ティルトだけが知っている)
    • したがって、ベンジャミンが死ねば女性体になるのはセツなのだが、セツは幼い頃にティルトからうつった病で死んでしまう
    • 病で死んでしまったセツを甦らせるために、ティルトは魔女(人魚姫から声を奪った魔女)に、地球を死の惑星にし、体すべてを捧げる契約を結ぶ(引き換えに、セツの復活とショナとの卵を産むことを要求)
    • この契約により、ティルトは体を失い、実業家の御曹司ギル・オウエンの体を乗っ取ることになる。
  • 恋愛関係
    • ショナは、小さい頃から夢に出てきた運命の女性ベンジャミン(ジミー)を好き
    • ジミーは、冒頭の交通事故で、自分の命を心配してくれたアートが好き
    • アートは、元カノであるダンス仲間のホリーとよりを戻したが、謎の女性(ジミーの女性体)が気になっている
    • 女性体になったジミーは、人間に向けては声を失っておりアートに喋ることができない
    • ジミーは、ショナが自分を好きなことを知っているが、それは自分が女性体に変化したからだと考えている
    • セツの解説によれば、ベンジャミンはアート(人間)との真実の愛を得ることができれば、人間になれる
  • ギル・オウエン
    • ギル・オウエンとなったティルトは、以前よりも「能力」が強くなっている
    • ギル・オウエンにロシア語を教えているリタ(36歳女性、身長190cm)は「幻影」を目にすることができる
    • ギル・オウエンは、この星の未来を決めるため、反原発団体と話をすることになる


特に、3巻最後に話題にされる外見の話は、SF設定なしでも色々なバリエーションが考えられる話で興味深い。つまり、好きな相手は、普段の自分を好きになってくれなくて、特別な状態のときの自分のみを好きだという設定。
これは、普段の北島マヤを好きなのが桜小路君で、女優・北島マヤを好きなのが速水真澄という、いわば少女マンガの王道でもある。また、自己認識と、他から求められる外見が整合しないという意味で、トランスジェンダー的な部分と類似する要素があるかもしれない。
ジミーがベンジャミン(女性体)としての自分をどう受け入れていくのか、女性体になったときにアートとの関係性がどうなっていくのか、4巻以降はその部分に注目したい。
やや反原子力という政治的な部分に目が向き過ぎると熱中できなくなる気もするが、これも(萩尾望都山岸涼子など)少女マンガの伝統なのかもしれない。これも、どう物語に絡めていくのだろうか。
4巻以降に期待しながら、まずは途中段階での感想でした。

名探偵コナンに関する感想 目次

コナンの映画は2010年以降、よう太と一緒に見続けていますが、毎年タイプが違って面白いですね。

高尚と感じるか苦手と感じるか〜萩尾望都『ポーの一族』全3巻

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

ポーの一族 (2) (小学館文庫)

ポーの一族 (2) (小学館文庫)

ポーの一族 (3) (小学館文庫)

ポーの一族 (3) (小学館文庫)


萩尾望都は、『11人いる!』と『トーマの心臓』を読んだことがあったが、印象はそれほど強くなく、それ以上読む機会が無かった。
しかし、たまたま今年の3月に、ポーの一族を原案にしたドラマが放映されたということで話題(否定的な意味で話題に…→例えばこちら)になり、今読めば、何が問題にされているのかが分かるのでこのタイミングだ!…というスケベ心から、『ポーの一族』の漫画を読んでみた。

誰が殺したクックロビン

まず、今回、『ポーの一族』を読んで何よりも衝撃だったのは「誰が殺したクックロビン」。
つまり、パタリロの「誰が殺したクックロビン」が『ポーの一族』の一篇のパロディであると知ったこと。
元々、「誰が殺したクックロビン」(クックロビン音頭)については、マザーグースの詩がオリジナルであるということは知っていたので、特にそれ以上を突っ込んで考えなかったが、『ポーの一族』を読んでみれば、一目瞭然。
とてもシリアスなストーリーの中で、「誰が殺したクックロビン」が何度も繰り返されるので、パタリロを先に知っていると違和感がありまくりだが、ストーリーとはとてもマッチしている。
クックロビンが登場する「小鳥の巣」は、全寮制の男子中学高等学校、いわゆるギムナジウムを舞台にした話で、もっともBL的な要素が強い話と言えるかもしれない。学校内で起きた過去の事故(生徒の自殺)と絡めて、エドガーが真相をほのめかすように、何度も「誰が殺したクックロビン」と口ずさむシーンは、むしろ怖い感じだ。
このあとで、魔夜峰央が、このシリアスなフレーズをギャグとして使おうとする気持ちは、それはそれで納得が行く。


なお、これはWikipediaを読むまで気が付かなかったが、「ポー」の一族の主人公がエドガーとアランであるのは、エドガー・アラン・ポーから来ているらしい。これも驚きだ。(なお、Wikipediaの「ポーの一族」の項はとても詳しく、特に年表が整理されているのが分かりやすい)


読むきっかけとなったドラマ『ストレンジャー』については見てもいないし、特に言及はしない。

先進的な「鼻の描き方」

この漫画で、実は物語以上に重要なのがエドガーやアランの「美しさ」。バンパネラの彼ら2人がまさに「この世のものとは思えない美しさ」を備えていることで、その孤独や悲哀がさらに強調される。
漫画で「美しい顔」を表現するのに避けて通れないのが「鼻の描き方」問題で、現代に至るまで様々な漫画家が試行錯誤を繰り返していると思う。
しかし、今回『ポーの一族』を読んで、1970年代の時点で、こんな「鼻の描き方」が既に登場していることに驚いた。
以下に例(エドガーとアランが初めて出会った場面)を示す。(1972年『別冊少女コミック』9月号掲載分)


通常、右向きの顔では鼻の右側の稜線部分を描くことが多いが、そうではなく、鼻の左側の稜線(鼻の影にあたる部分)を描く方法がある。
上の例で言えば左側と右上のアラン(巻き毛でない方)の鼻の描き方がそうだ。
今では、アニメでも漫画でも多い表現方法だと思うが、もっと最近(80年代以降に)生まれた技法だと思い込んでいた。
ところが自分の生まれる前から、このような表現方法が使われているのを見てまず驚いた。しかも、もう少し調べてみると、ゆうきまさみが、この方法は萩尾望都あたりから広まったという話を書いているので、どうも彼女が元祖ということでそんなにおかしくないらしい。


ということで、「誰が殺したクックロビン」だけでなく、萩尾望都の漫画表現はその後の漫画家に強い影響を与えたということを改めて知るのでした。

本題

ここから本題に入る。
今回、『ポーの一族』がいかに傑作かという話を書こうかと思っていた。
いや、実際、この物語は、バンパネラという不死(実際には特定の方法で攻撃されると消えてなくなる)の一族の中でも、エドガーという美少年個人の話であり、その美しさは寂しさ、いわば「永遠の命という孤独」に結び付けられている。それが、通常の人間との比較の中で、また、同じバンパネラの中でもエドガーとアラン、エドガーとメリーベルの人生観の違いの中で浮き上がって見えてくる、とてもよくできた物語だと思う。
エドガーの孤独や悲しみについては、3巻の巻末解説でも有吉玉青さん(有吉佐和子さんの娘さん)が次のように語る。

人は、一人では生きてゆけない。人は社会の中で、人との係わりあいの中で生きてゆくのだという。そうだろう、そうに違いない。けれど、人は、社会と、また人と、ほんとうに係わってゆけるのだろうか。『ポーの一族』を読むと、そんなことを考えさせられる。
エドガー、アラン、メリーベル。美しい主人公たちは、年をとらない。永遠に十四歳の少年少女のままだ。
(略)
人間社会の中に、彼らのやすらぐところはない。友だちをつくれない。人を愛することもままならない。
(略)
人というのは、自分の想像を越えたところにいる。自分のことを思えばわかるのだが、誰と一緒に何をしたところで、それは出来事として自分だけのものであり、悩みになると、それはもっと自分だけのものである。誰もそれを解決できない。日々複雑になってゆく自分という宇宙。人はそれを知らない。知りようがない。想像する以外になく、そしてそれは想像以上のものではない。
人は、ほんとうにたった一人で、社会の中に、人の中に彷徨っている。だから、係わりを持ちたい。誰かに係わりたいと思う。
(3巻、巻末解説:有吉玉青

つまり、エドガーの孤独は、実は誰もが抱えている、逃れられないものであり、『ポーの一族』を読むことで、自分の中の孤独に向き合うことになるとする解説で、とても共感できる。
また、文庫版全3巻というコンパクトな長さで、余韻を持ちながら上手くまとめてある部分も、とても好きだ。


しかし、難点を言えば、結構、この漫画は難しい。
「難しい」というのは、読み手の能力と関係してくるので、自分の理解力の無さが難しさの原因と言ってしまってもいいのだが、それと合わせて、自分が何となく、いわゆる「少女漫画」に感じていた苦手ポイントが詰まった作品と言える。
ひとことで言えば「読みにくさ」がある。


そこで、自分が、この「読みにくさ」を(意識した上で)乗り越えれば、もっと少女漫画を楽しめるのではないか、という期待をこめて、何が読みにくいと感じるのかを少し考えてみる。


勿論、今から40年前という時代的な部分もあるだろう。
しかし、『ポーの一族』は1972年〜1976年の作品だが、同時期の作品である手塚治虫火の鳥 望郷編』や、楳図かずお漂流教室』『洗礼』は自分の大好きな作品だし、同じ少女漫画でも、1976年から連載開始の美内すずえガラスの仮面』は、自分はとても「読みやすい」と感じていた。
美内すずえの漫画が読みやすい理由を、以前「白黒バランス」(画面の中で白色の占める割合が多い少女漫画に比べて黒が多くバランスがいい)という言葉で説明したことがあったが、どうもそれだけではない。
改めて『ポーの一族』を見返すと、以下の部分が、(少年漫画と異なり)自分が同時期の少女漫画を苦手に感じていた原因のようだ。

  1. コマが多い
  2. 台詞が多い
  3. コマが(途中から点線になるなど)途切れて、閉じていないことが多い(もしくはコマを囲う線が無い)
  4. 吹き出しの線が細い。結果として吹き出し線が閉じていないことが多い
  5. 顔などの輪郭線も細い。そして、輪郭線も閉じていないことが多い


例えば、1や2というのは、最近の『ワンピース』や川原泉作品に感じる読みにくさだが、これらには3〜5が無いので、苦手意識を持たずに読むことができる。勿論、『ガラスの仮面』も台詞が多い部類の漫画に入るかもしれない。
つまり、自分がいわゆる少女漫画っぽい少女漫画に感じる読みにくさの原因は、圧倒的に3〜5だ。線が細くて閉じていないだけで気持ちが落ち着かなくなり、各ページをしっかり読めた気がしなくなってしまうのだ。
1,2と比べると、3〜5は、物語の筋にもほとんど関係ないし、雰囲気だけの話だと考える人もいるだろうが、こういった自分の理想とのズレはボディブローのように地味にダメージを蓄積させ、本を読み進める駆動力を失わせる。この感じは、アメコミの『WATCHMEN』を読んだときの感想に似ている。
内容が面白いことは頭でわかっているのに、同時に違和感からくるストレスがブレーキをかけるから、わくわくした読書にならない。


一方で、そのストレスを「高尚なもの」と感じる受け止め方があるのも分かる。
自分が大学生の頃だったら、「漫画自体」ではなく、「高尚な漫画を楽しく読める自分」にわくわくして、無理をしてでも熟読し、周囲の人間に薦めまくっていたかもしれない。そういう魅力に満ちている。
で、今回、41歳の自分が読んでみた当初も「高尚な漫画を楽しく読める自分」にわくわくする気満々だったのだが、怠惰な気持ちがそれを上回ってしまった。
この漫画は、他の人がいくらでも褒めているから、自分は、今日読んで面白かった、えすとえむうどんの女』とかそういうのを褒めたいよ、と思ってしまった。
ただ、萩尾望都先生は、勿論現役でもあるので、最近の作品も読んでみるなど改めてチャレンジし、ゆくゆくは苦手意識を克服した上で、改めて絶賛する文章を書いてみたいと思います。


うどんの女 (Feelコミックス)

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参考(過去日記)

伊藤潤二の短編「記憶」が、萩尾望都の短編「半身」を下敷きにしていることを説明している内容で、2作品が類似していることを見つけたときは感激しました。

もがく女子たち〜ヤマシタトモコ『HER』

HER(Feelコミックス)

HER(Feelコミックス)

朝日新聞日曜読書欄の悩み相談コーナー「悩んで読むか読んで悩むか」のコーナー(2016/5/1)でこの漫画が取り上げられていた。
「結婚か仕事かどちらを選べばいい?」という28歳女性の相談に、サンキュータツオが紹介した3冊のうちの1冊だ。(『HER』以外は、酒井順子枕草子REMIX』、江國香織落下する夕方』)

いろんな女性の生き方や価値観、あなたのような悩みを持っている人の声を、歴史的あるいは同時代的に知ってほしいと思って、女性作家の作品を三つ選びました。
(略)
ヤマシタトモコさんのマンガ『HER』は、結婚、子ども、仕事に悩む美容師などが主人公の連作短編。彼女たちは人生の局面でさまざまな人に出会い、自分と向き合っていく。客観的に悩みを捉えられるんじゃないでしょうか。
恋愛と仕事を並列に扱うことに矛盾も感じますが、そう簡単には割り切れないもの。「好き」の言葉だけでは収まらない感情を、彼にも仕事にも持っているんだと思います。

これを読んで
「そうか!この漫画は悩む女性の漫画だとストレートに受け取っていいのか!」
と思った。

というのは、以前も書いたように、これを初めて読んだときは、ヤマシタトモコ作品の味わい方について不慣れだったし、この漫画の核にある部分がよくわかっていなかったのだ。

モヤモヤしていた部分をいくつか挙げてみる。

  1. 登場人物たちの悩みは特に解決しない(前に進まない)
  2. 登場人物たちの独白が多用されるが感情移入しにくい
  3. 6話を通したテーマが理解できない


しかし、今回再読してみると、モヤモヤしていた3点は自分の中ではクリアになった。
一番目は、まさに前回『Love,Hate,Love.』を読んで気が付いたヤマシタトモコ作品に共通するポイントであり、『HER』にもその特徴が強く表れている部分になる。

もっと言うと、登場人物が作品内世界で生き生きと暮らしていれば、それでいいのだ、という開き直りを感じる。ストーリーを駆動させるために、悩みやコンプレックスがあるわけではなく、登場人物それぞれの個性として、自然と悩みが漏れてしまっているだけなのだ。
たとえば、『Love,Hate,Love.』で言えば、主人公の貴和子は28歳で男性経験がないことが1つのポイントだが、作品内では、そ れは終始変わらず、むしろ「ネタ化」されている。弱点がキャラクターの個性として大切にされ、変化することは許されないようにも見える。
つまり、ヤマシタトモコの作品は、ストーリーテリングの面白さ(意外な展開)や、伝えたいメッセージのためではなく、登場人物の魅力を最大限に引き出すことを目的として作品が作られているように思う。ストーリーは2の次だ。
繰り返すが、自分が好きなタイプの典型は、登場人物が、ぶつかった壁を乗り越えたり、悩みに対して前向きになったりするものなので、それらとは全然違うアプローチになる。


二番目も同様だ。
サンキュータツオは『俺たちのBL論』の中で、漫画やアニメの楽しみ方(消費の方法)を、ログイン型と非ログイン型に分けている。自分のように、ほとんどの作品に対して「ログイン型」で挑む人もいれば、サンキュータツオ春日太一のように「ログイン型では楽しめない」という人もいる。
物語のつくりが、ある程度楽しみ方を限定している作品もあり、たとえば、同じく独白多用型でも『さよならガールフレンド』は、多分ログイン型で読んで楽しめる作品だが、『HER』は、そうではない。『HER』は、「このような思考を辿る人もいる」という人間観察的な視点で読むべき作品だと思う。性格が違い過ぎて、6つの物語の全ての主人公にログインできる読者はいない。
まるで、ログインできないことを分かってもらうためのように、独白が多用され、私(I)の物語ではなく、彼女(HER)の物語として読ませることに成功しているところが、この漫画の一番のポイントなのだと思う。


そして三番目。
上にも書いたように、ヤマシタトモコ作品には「伝えたいメッセージ」があるわけではない。
人間観察がメインの漫画なので、女子高生の西鶴さん(3話目)が「フツー」だとか「終わっている」を脳内でも連発する部分や、服オタの井出さん(1話目)が、履いている靴で周りの人を○×評価して部分など、それぞれがこだわりを持って世界を見ていることを純粋に楽しめばいいのだと思う。
それに加えて言えば、主人公たちが、家族や恋人ではなく、少し離れた立場にいる人から何らかのヒントを得たりするのも面白い。それが最も表れているのは3話目に登場する白髪の武山さん。彼女が女子高生の西鶴さんに話すのは、〜した方がいいよ、というアドバイスではなく、「別の視点」。
最初のサンキュータツオの悩み相談の回答に戻る。悩んでいる人に向けて、的確なアドバイス(〜した方がいいよ)が出来れば確かにそれが一番いい。しかし、アドバイスではなく「別の視点」があれば、解決に繋がらなくても悩みを相対化できる。年齢差、異性、容姿、それぞれの違いで悩みとの向き合い方が変わってくることを知ることができれば、自分がどう向き合えばいいかが分かってくる。
登場人物たちが、それぞれの言葉で、それぞれの思考で悩みまくる。それは実人生でもあまり変わらないことだが、人の心を読むことはできないから、このようにして一冊の漫画にまとめてあるのは、とても貴重だし、もしかしたら、こういう本を「実用的な本」と読むべきかもしれないと思った。ということで悩む女性にオススメするサンキュータツオは正しい!


ということで、白髪の武山さん名言集…

…ふうん 貧しい友達だね

花を好きなのを黙っていたことも
苗字が嫌いなことも2年もすれば忘れて
その3年後には
今気にしているようなことはどうでもよくなる

…その5年後
16歳の自分が大切なものをドブに捨ててきたことに気づく

体は減らないなんて思ってるか知らないけど減るのよ
…それに気づくのはきっと10年くらい経ってから

…だから安心しなさい
…あと何万年生きたって悩まない日はないし
誰が隣にいても孤独じゃなくなる日は来ないから

夜空に輝く工場と通勤電車〜高野雀『さよならガールフレンド』

さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)

さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)


漫画を読んだり、音楽を聴いたりしていいる中で、自分が「続けてきて良かった」と思うのは、これまでと違った面白さに自分が気づくことが出来たとき。それは、作品の巡りあわせもあるし、受け手としての成長・変化とも関係する。
少し前に、ヤマシタトモコの漫画を読んで、ストーリーを重視しないタイプの漫画の楽しみ方がどこにあるかに気が付くことができたが、『さよならガールフレンド』も、自分が好んできた漫画とは異なるタイプで、非・物語、非・成長を軸としている。
でも、ヤマシタトモコとは全然違う、自分にとって新しいタイプの漫画なのだ。
自分は、音楽でも読書でも、面白いと思った作品は、それが何で面白いと感じたのかを言語化したい。それがこのブログを続ける意味だし、それをすることによって、もっと色々な作品と出会えると信じている。そういう意味では、この文章はとても個人的なものだけれど、人の考えることなんて、そう大きく変わるものではないという意味では、他の人が読んでも面白いと思ってもらえるかもしれない。
ということで、手探りの状態ながらも、自分は何でこの漫画を好きかをパーツパーツに分けて考えてみる。

絵柄

スタイリッシュという言葉で評価するのは簡単だけれど、言い方を変えると、描線が少なく整理されており、トーンの使った光の表現が上手い。目を含めた表情は、少しだけ河合克敏を思い出した。
キャラクターの描き分けも、「まぼろしチアノーゼ」の姉妹が”似ているけれど美人と地味”という微妙な状態を表現できているので、やはり上手いんだと思う。「わたしのニュータウン」での同級生二人の性格に合わせた描き分けもしっくりくる。
そして背景については、何といっても表題作「さよならガールフレンド」の”夜空をバックに輝く工場”。これだけで、この一冊はお釣りがくる。

幸福⇔不幸の「振れ幅」と非・物語系の漫画

幸福⇔不幸の「振れ幅」を考えたとき、物語メインの漫画は、「振れ幅」が大きい。
恵まれない境遇を才能で打ち返す。
不幸な事故がきっかけとなって信じられない出会いが生まれる。
幸せな日常が突如崩れ落ちて、そこからやり直す。
そういった幸福度の「振れ幅」の中でカタルシスを得るのが、物語メインの漫画の醍醐味だと思う。
自分が好きな羽海野チカも、よしながふみもそのタイプの漫画だ。


逆に、非・物語系の漫画は、幸福度の「振れ幅」が小さい。
例えば、日常系のギャグ漫画は、幸福度が高値安定しており、ウシジマ君のような漫画は低いまま安定している。どちらも成長は描かれない。
ヤマシタトモコ漫画のようなタイプでは、幸福度はニュートラルな位置で安定している。つまり、ちょっとした日常生活への不満がベースに描かれながら、作品内では不満自体は解消されず、代わりに「小さな幸せ」が描かれる。幸福度の「振れ幅」は最小限だ。


「さよならガールフレンド」も、幸福度の「振れ幅」は最小だが、作品内の独白ポエムが入ることによって、幸福⇔不幸の小さな心の動きが増幅される。読者側としては、物語的なカタルシスは無いが、登場人物の心の機微を知ることが出来るカタルシスがある。

場所

主人公の内面が場所とリンクしていることによって、さらに気持ちの変化が染み入るように伝わってくる。
「さよならガールフレンド」では、東京と田舎(地元)の対比が、成長と停滞、自分の気持ちと先輩の気持ちに重ねられている。夜に輝く工場の美しさは先輩の美しさであり、地元の素敵な思い出だ。
「わたしのニュータウン」では、これから遠くに離れてしまうことと、心が離れてしまう不安を描いた上で、最後に”希望”寄りに話を収める。
ポエム全開の「ギャラクシー邂逅」は、惑星の軌道になぞらえて通勤電車での出会いを描き、「エイリアン/サマー」は、自分のプライベートな部分として”自宅”を舞台に話が進む。
これまであまり考えてこなかったけど、「場所」が描けている、ということは、高野雀作品にとって一番の強みであるように思う。

時間経過と成長・気づき

どの短編でも、意識的に時間経過を絡ませていると思うが、特に「面影サンセット」が巧い。
実際には1週間くらいしか経っていないかもしれない話の中で「今見えている夕陽の光は8分20秒前の光」という雑学ポエムを絡ませて、読者に時間経過を意識させる。その中で、若くないことに気が付いた私(28)と、全く気付かない彼氏(28)の考えの違いを浮き彫りにする。どちらも成長してはいないけれど、成長したいという主人公の気持ちは読み取れる。そして、最後は希望方向の「気づき」で終わる。
成長はしないけど最後に「気づく」。これがパターンなのかもしれない。どの短編も、最後の1〜2頁で何かに気が付き、それが少しの希望になっている。ポエムベースで最後に「気づく」と書くと、自己啓発的で気持ちが悪いが、その「振れ幅」が最小限なので、純粋に前向きに受け取れる。

関係性

上からの続きだが、ラストでの「気づき」が関係性に関する場合も多い。
先輩への思いに気づく「さよならガールフレンド」、駅近の後輩といい関係になりそうな「ギャラクシー邂逅」、姉への気持ちが変化する「まぼろしチアノーゼ」、同級生への恋心に気づく「エイリアン/サマー」。
しかし、いずれも、ありきたりで平凡な関係性だ。ヤマシタトモコ作品が、魅力的なキャラクターと関係性を提示して「あとはご自由に」と読者に委ねるのとは全く方向が異なる。
「さよならガールフレンド」、「わたしのニュータウン」、「まぼろしチアノーゼ」は、いずれも女→女への淡い思いが描かれるが、本当にささやかなものだ。でも短編の中で変化するものが少ないから、「ほのかな感情」「関係性の微小な変化」が際立って見えるということはあると思う。

まとめ

細かく分けてみたが、総体で言えば、登場人物の心情と場所のリンク、時間経過と最小限の心の動き、あたりが、この人の漫画のポイントということになるだろうか。
さらに言えば「停滞」の描き方が上手い。セックスシーンが6編のうち3編出てくるが、いずれも彼氏がダメ男で「停滞」を感じさせ、全然いやらしくないのが面白い。勿論、表題作をはじめとして、地方の閉塞感と、都市生活の味気無さ、つまりは生活の「停滞」も伝わってくる。
自分がこの短編集を読んでどの作品にも他の漫画で得られないリアルさを感じたのは、前進したり成長したり変化するよりも、停滞していることが、自分の暮らしている世界の感じに近いのかもしれない、と思った。通勤電車っていうのは、停滞している日常の象徴だと思う。
そういう意味では、こういう漫画を読んで、「こんなのつまらない」「登場人物が前向きじゃないから嫌だ」という感想を持った読者の方が、生活が充実しているのかもしれない。
高野雀はWeb上でもいくつかの作品が読めるようなので、それらにもチャレンジして行こうと思う。