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高尚と感じるか苦手と感じるか〜萩尾望都『ポーの一族』全3巻

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

ポーの一族 (2) (小学館文庫)

ポーの一族 (2) (小学館文庫)

ポーの一族 (3) (小学館文庫)

ポーの一族 (3) (小学館文庫)


萩尾望都は、『11人いる!』と『トーマの心臓』を読んだことがあったが、印象はそれほど強くなく、それ以上読む機会が無かった。
しかし、たまたま今年の3月に、ポーの一族を原案にしたドラマが放映されたということで話題(否定的な意味で話題に…→例えばこちら)になり、今読めば、何が問題にされているのかが分かるのでこのタイミングだ!…というスケベ心から、『ポーの一族』の漫画を読んでみた。

誰が殺したクックロビン

まず、今回、『ポーの一族』を読んで何よりも衝撃だったのは「誰が殺したクックロビン」。
つまり、パタリロの「誰が殺したクックロビン」が『ポーの一族』の一篇のパロディであると知ったこと。
元々、「誰が殺したクックロビン」(クックロビン音頭)については、マザーグースの詩がオリジナルであるということは知っていたので、特にそれ以上を突っ込んで考えなかったが、『ポーの一族』を読んでみれば、一目瞭然。
とてもシリアスなストーリーの中で、「誰が殺したクックロビン」が何度も繰り返されるので、パタリロを先に知っていると違和感がありまくりだが、ストーリーとはとてもマッチしている。
クックロビンが登場する「小鳥の巣」は、全寮制の男子中学高等学校、いわゆるギムナジウムを舞台にした話で、もっともBL的な要素が強い話と言えるかもしれない。学校内で起きた過去の事故(生徒の自殺)と絡めて、エドガーが真相をほのめかすように、何度も「誰が殺したクックロビン」と口ずさむシーンは、むしろ怖い感じだ。
このあとで、魔夜峰央が、このシリアスなフレーズをギャグとして使おうとする気持ちは、それはそれで納得が行く。


なお、これはWikipediaを読むまで気が付かなかったが、「ポー」の一族の主人公がエドガーとアランであるのは、エドガー・アラン・ポーから来ているらしい。これも驚きだ。(なお、Wikipediaの「ポーの一族」の項はとても詳しく、特に年表が整理されているのが分かりやすい)


読むきっかけとなったドラマ『ストレンジャー』については見てもいないし、特に言及はしない。

先進的な「鼻の描き方」

この漫画で、実は物語以上に重要なのがエドガーやアランの「美しさ」。バンパネラの彼ら2人がまさに「この世のものとは思えない美しさ」を備えていることで、その孤独や悲哀がさらに強調される。
漫画で「美しい顔」を表現するのに避けて通れないのが「鼻の描き方」問題で、現代に至るまで様々な漫画家が試行錯誤を繰り返していると思う。
しかし、今回『ポーの一族』を読んで、1970年代の時点で、こんな「鼻の描き方」が既に登場していることに驚いた。
以下に例(エドガーとアランが初めて出会った場面)を示す。(1972年『別冊少女コミック』9月号掲載分)


通常、右向きの顔では鼻の右側の稜線部分を描くことが多いが、そうではなく、鼻の左側の稜線(鼻の影にあたる部分)を描く方法がある。
上の例で言えば左側と右上のアラン(巻き毛でない方)の鼻の描き方がそうだ。
今では、アニメでも漫画でも多い表現方法だと思うが、もっと最近(80年代以降に)生まれた技法だと思い込んでいた。
ところが自分の生まれる前から、このような表現方法が使われているのを見てまず驚いた。しかも、もう少し調べてみると、ゆうきまさみが、この方法は萩尾望都あたりから広まったという話を書いているので、どうも彼女が元祖ということでそんなにおかしくないらしい。


ということで、「誰が殺したクックロビン」だけでなく、萩尾望都の漫画表現はその後の漫画家に強い影響を与えたということを改めて知るのでした。

本題

ここから本題に入る。
今回、『ポーの一族』がいかに傑作かという話を書こうかと思っていた。
いや、実際、この物語は、バンパネラという不死(実際には特定の方法で攻撃されると消えてなくなる)の一族の中でも、エドガーという美少年個人の話であり、その美しさは寂しさ、いわば「永遠の命という孤独」に結び付けられている。それが、通常の人間との比較の中で、また、同じバンパネラの中でもエドガーとアラン、エドガーとメリーベルの人生観の違いの中で浮き上がって見えてくる、とてもよくできた物語だと思う。
エドガーの孤独や悲しみについては、3巻の巻末解説でも有吉玉青さん(有吉佐和子さんの娘さん)が次のように語る。

人は、一人では生きてゆけない。人は社会の中で、人との係わりあいの中で生きてゆくのだという。そうだろう、そうに違いない。けれど、人は、社会と、また人と、ほんとうに係わってゆけるのだろうか。『ポーの一族』を読むと、そんなことを考えさせられる。
エドガー、アラン、メリーベル。美しい主人公たちは、年をとらない。永遠に十四歳の少年少女のままだ。
(略)
人間社会の中に、彼らのやすらぐところはない。友だちをつくれない。人を愛することもままならない。
(略)
人というのは、自分の想像を越えたところにいる。自分のことを思えばわかるのだが、誰と一緒に何をしたところで、それは出来事として自分だけのものであり、悩みになると、それはもっと自分だけのものである。誰もそれを解決できない。日々複雑になってゆく自分という宇宙。人はそれを知らない。知りようがない。想像する以外になく、そしてそれは想像以上のものではない。
人は、ほんとうにたった一人で、社会の中に、人の中に彷徨っている。だから、係わりを持ちたい。誰かに係わりたいと思う。
(3巻、巻末解説:有吉玉青

つまり、エドガーの孤独は、実は誰もが抱えている、逃れられないものであり、『ポーの一族』を読むことで、自分の中の孤独に向き合うことになるとする解説で、とても共感できる。
また、文庫版全3巻というコンパクトな長さで、余韻を持ちながら上手くまとめてある部分も、とても好きだ。


しかし、難点を言えば、結構、この漫画は難しい。
「難しい」というのは、読み手の能力と関係してくるので、自分の理解力の無さが難しさの原因と言ってしまってもいいのだが、それと合わせて、自分が何となく、いわゆる「少女漫画」に感じていた苦手ポイントが詰まった作品と言える。
ひとことで言えば「読みにくさ」がある。


そこで、自分が、この「読みにくさ」を(意識した上で)乗り越えれば、もっと少女漫画を楽しめるのではないか、という期待をこめて、何が読みにくいと感じるのかを少し考えてみる。


勿論、今から40年前という時代的な部分もあるだろう。
しかし、『ポーの一族』は1972年〜1976年の作品だが、同時期の作品である手塚治虫火の鳥 望郷編』や、楳図かずお漂流教室』『洗礼』は自分の大好きな作品だし、同じ少女漫画でも、1976年から連載開始の美内すずえガラスの仮面』は、自分はとても「読みやすい」と感じていた。
美内すずえの漫画が読みやすい理由を、以前「白黒バランス」(画面の中で白色の占める割合が多い少女漫画に比べて黒が多くバランスがいい)という言葉で説明したことがあったが、どうもそれだけではない。
改めて『ポーの一族』を見返すと、以下の部分が、(少年漫画と異なり)自分が同時期の少女漫画を苦手に感じていた原因のようだ。

  1. コマが多い
  2. 台詞が多い
  3. コマが(途中から点線になるなど)途切れて、閉じていないことが多い(もしくはコマを囲う線が無い)
  4. 吹き出しの線が細い。結果として吹き出し線が閉じていないことが多い
  5. 顔などの輪郭線も細い。そして、輪郭線も閉じていないことが多い


例えば、1や2というのは、最近の『ワンピース』や川原泉作品に感じる読みにくさだが、これらには3〜5が無いので、苦手意識を持たずに読むことができる。勿論、『ガラスの仮面』も台詞が多い部類の漫画に入るかもしれない。
つまり、自分がいわゆる少女漫画っぽい少女漫画に感じる読みにくさの原因は、圧倒的に3〜5だ。線が細くて閉じていないだけで気持ちが落ち着かなくなり、各ページをしっかり読めた気がしなくなってしまうのだ。
1,2と比べると、3〜5は、物語の筋にもほとんど関係ないし、雰囲気だけの話だと考える人もいるだろうが、こういった自分の理想とのズレはボディブローのように地味にダメージを蓄積させ、本を読み進める駆動力を失わせる。この感じは、アメコミの『WATCHMEN』を読んだときの感想に似ている。
内容が面白いことは頭でわかっているのに、同時に違和感からくるストレスがブレーキをかけるから、わくわくした読書にならない。


一方で、そのストレスを「高尚なもの」と感じる受け止め方があるのも分かる。
自分が大学生の頃だったら、「漫画自体」ではなく、「高尚な漫画を楽しく読める自分」にわくわくして、無理をしてでも熟読し、周囲の人間に薦めまくっていたかもしれない。そういう魅力に満ちている。
で、今回、41歳の自分が読んでみた当初も「高尚な漫画を楽しく読める自分」にわくわくする気満々だったのだが、怠惰な気持ちがそれを上回ってしまった。
この漫画は、他の人がいくらでも褒めているから、自分は、今日読んで面白かった、えすとえむうどんの女』とかそういうのを褒めたいよ、と思ってしまった。
ただ、萩尾望都先生は、勿論現役でもあるので、最近の作品も読んでみるなど改めてチャレンジし、ゆくゆくは苦手意識を克服した上で、改めて絶賛する文章を書いてみたいと思います。


うどんの女 (Feelコミックス)

うどんの女 (Feelコミックス)

参考(過去日記)

伊藤潤二の短編「記憶」が、萩尾望都の短編「半身」を下敷きにしていることを説明している内容で、2作品が類似していることを見つけたときは感激しました。