Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

夜空に輝く工場と通勤電車〜高野雀『さよならガールフレンド』

さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)

さよならガールフレンド (フィールコミックス FCswing)


漫画を読んだり、音楽を聴いたりしていいる中で、自分が「続けてきて良かった」と思うのは、これまでと違った面白さに自分が気づくことが出来たとき。それは、作品の巡りあわせもあるし、受け手としての成長・変化とも関係する。
少し前に、ヤマシタトモコの漫画を読んで、ストーリーを重視しないタイプの漫画の楽しみ方がどこにあるかに気が付くことができたが、『さよならガールフレンド』も、自分が好んできた漫画とは異なるタイプで、非・物語、非・成長を軸としている。
でも、ヤマシタトモコとは全然違う、自分にとって新しいタイプの漫画なのだ。
自分は、音楽でも読書でも、面白いと思った作品は、それが何で面白いと感じたのかを言語化したい。それがこのブログを続ける意味だし、それをすることによって、もっと色々な作品と出会えると信じている。そういう意味では、この文章はとても個人的なものだけれど、人の考えることなんて、そう大きく変わるものではないという意味では、他の人が読んでも面白いと思ってもらえるかもしれない。
ということで、手探りの状態ながらも、自分は何でこの漫画を好きかをパーツパーツに分けて考えてみる。

絵柄

スタイリッシュという言葉で評価するのは簡単だけれど、言い方を変えると、描線が少なく整理されており、トーンの使った光の表現が上手い。目を含めた表情は、少しだけ河合克敏を思い出した。
キャラクターの描き分けも、「まぼろしチアノーゼ」の姉妹が”似ているけれど美人と地味”という微妙な状態を表現できているので、やはり上手いんだと思う。「わたしのニュータウン」での同級生二人の性格に合わせた描き分けもしっくりくる。
そして背景については、何といっても表題作「さよならガールフレンド」の”夜空をバックに輝く工場”。これだけで、この一冊はお釣りがくる。

幸福⇔不幸の「振れ幅」と非・物語系の漫画

幸福⇔不幸の「振れ幅」を考えたとき、物語メインの漫画は、「振れ幅」が大きい。
恵まれない境遇を才能で打ち返す。
不幸な事故がきっかけとなって信じられない出会いが生まれる。
幸せな日常が突如崩れ落ちて、そこからやり直す。
そういった幸福度の「振れ幅」の中でカタルシスを得るのが、物語メインの漫画の醍醐味だと思う。
自分が好きな羽海野チカも、よしながふみもそのタイプの漫画だ。


逆に、非・物語系の漫画は、幸福度の「振れ幅」が小さい。
例えば、日常系のギャグ漫画は、幸福度が高値安定しており、ウシジマ君のような漫画は低いまま安定している。どちらも成長は描かれない。
ヤマシタトモコ漫画のようなタイプでは、幸福度はニュートラルな位置で安定している。つまり、ちょっとした日常生活への不満がベースに描かれながら、作品内では不満自体は解消されず、代わりに「小さな幸せ」が描かれる。幸福度の「振れ幅」は最小限だ。


「さよならガールフレンド」も、幸福度の「振れ幅」は最小だが、作品内の独白ポエムが入ることによって、幸福⇔不幸の小さな心の動きが増幅される。読者側としては、物語的なカタルシスは無いが、登場人物の心の機微を知ることが出来るカタルシスがある。

場所

主人公の内面が場所とリンクしていることによって、さらに気持ちの変化が染み入るように伝わってくる。
「さよならガールフレンド」では、東京と田舎(地元)の対比が、成長と停滞、自分の気持ちと先輩の気持ちに重ねられている。夜に輝く工場の美しさは先輩の美しさであり、地元の素敵な思い出だ。
「わたしのニュータウン」では、これから遠くに離れてしまうことと、心が離れてしまう不安を描いた上で、最後に”希望”寄りに話を収める。
ポエム全開の「ギャラクシー邂逅」は、惑星の軌道になぞらえて通勤電車での出会いを描き、「エイリアン/サマー」は、自分のプライベートな部分として”自宅”を舞台に話が進む。
これまであまり考えてこなかったけど、「場所」が描けている、ということは、高野雀作品にとって一番の強みであるように思う。

時間経過と成長・気づき

どの短編でも、意識的に時間経過を絡ませていると思うが、特に「面影サンセット」が巧い。
実際には1週間くらいしか経っていないかもしれない話の中で「今見えている夕陽の光は8分20秒前の光」という雑学ポエムを絡ませて、読者に時間経過を意識させる。その中で、若くないことに気が付いた私(28)と、全く気付かない彼氏(28)の考えの違いを浮き彫りにする。どちらも成長してはいないけれど、成長したいという主人公の気持ちは読み取れる。そして、最後は希望方向の「気づき」で終わる。
成長はしないけど最後に「気づく」。これがパターンなのかもしれない。どの短編も、最後の1〜2頁で何かに気が付き、それが少しの希望になっている。ポエムベースで最後に「気づく」と書くと、自己啓発的で気持ちが悪いが、その「振れ幅」が最小限なので、純粋に前向きに受け取れる。

関係性

上からの続きだが、ラストでの「気づき」が関係性に関する場合も多い。
先輩への思いに気づく「さよならガールフレンド」、駅近の後輩といい関係になりそうな「ギャラクシー邂逅」、姉への気持ちが変化する「まぼろしチアノーゼ」、同級生への恋心に気づく「エイリアン/サマー」。
しかし、いずれも、ありきたりで平凡な関係性だ。ヤマシタトモコ作品が、魅力的なキャラクターと関係性を提示して「あとはご自由に」と読者に委ねるのとは全く方向が異なる。
「さよならガールフレンド」、「わたしのニュータウン」、「まぼろしチアノーゼ」は、いずれも女→女への淡い思いが描かれるが、本当にささやかなものだ。でも短編の中で変化するものが少ないから、「ほのかな感情」「関係性の微小な変化」が際立って見えるということはあると思う。

まとめ

細かく分けてみたが、総体で言えば、登場人物の心情と場所のリンク、時間経過と最小限の心の動き、あたりが、この人の漫画のポイントということになるだろうか。
さらに言えば「停滞」の描き方が上手い。セックスシーンが6編のうち3編出てくるが、いずれも彼氏がダメ男で「停滞」を感じさせ、全然いやらしくないのが面白い。勿論、表題作をはじめとして、地方の閉塞感と、都市生活の味気無さ、つまりは生活の「停滞」も伝わってくる。
自分がこの短編集を読んでどの作品にも他の漫画で得られないリアルさを感じたのは、前進したり成長したり変化するよりも、停滞していることが、自分の暮らしている世界の感じに近いのかもしれない、と思った。通勤電車っていうのは、停滞している日常の象徴だと思う。
そういう意味では、こういう漫画を読んで、「こんなのつまらない」「登場人物が前向きじゃないから嫌だ」という感想を持った読者の方が、生活が充実しているのかもしれない。
高野雀はWeb上でもいくつかの作品が読めるようなので、それらにもチャレンジして行こうと思う。