Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

東浩紀『動物化するポストモダン』★★★★★

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
90年代のオタクと「萌え」がよく分かる本。
元々、「萌え」については、いろんなところで目にするようになっても、自分が使う機会のない言葉だろうということで、意味については深く考えずにスルーしていた。しかし、年末に話題になった「フィギュア萌え族」関連の元記事*1を読み、(内容を肯定するものでは全く無いが)自分なりの「萌え」という言葉のイメージが掴めた気がして、尚更、「萌え」とは何かが無性に気になってきたのだった。「オタクとは何か」議論の好きな僕としては、昔から読みたかった本だったが、今回、そういう経緯で、読んでみた。
 
最初に書いてしまうと、最終的な結論部分が、(煽る書き方ではないが)作者の強い危機感が伺えるもので、その部分が自分の危機意識と通じるところもあり、かなりツボにはまる本だった。本文中で作者も述べているように、オタクに限定したテーマではなく、今後、いろいろなことを考える際に基礎と出来る知識体系であり、非常に有意義な読書だった。

東浩紀は、オタクを60年前後に生まれた第一世代、70年前後に生まれた第二世代、80年前後に生まれた第三世代に分け、特に第三期の「90年代のオタク」に焦点を当てている。ちなみに僕自身は、74年生まれであり、(自分がオタクであるとすれば)第二世代に当てはまる。
さて、90年代のオタクの特徴は、端的に言えば以下のとおりである。

90年代のオタクたちは一般に80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。(P58)

さて、この文章と以下の文章をつなげると、それなりに「萌え」を説明しているような気分になるが、これをつなぐ部分が非常に重要である。

彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ。(P135)

つまり、「萌え」は90年代のオタクに特徴的な感覚(技術)である。詳しい説明は省くが、80年代以前のオタクは、失われた「大きな物語」を捏造し、物語を消費することで「虚構の時代」を生きた。それとは異なり、90年代のオタクは、「大きな非物語」であるデータベースに重点を置き、「大きな物語」は廃棄してしまった上で、よりお手軽な(ファストフード的な)「小さな物語」に満足する。

作品の強度は、作家がそこに込めた物語=メッセージではなく、そのなかに配置された萌え要素
と消費者の嗜好の相性によって判断されるのだ。(P129)

そこでは、作家性は全く重視されず、オリジナルとシミュラークル(模造品)が全く等価な位置にある。そして、シミュラークル(小さな物語)が宿る表層とデータベース(萌え要素)が宿る深層の二層構造の間を往復することが、彼らの消費行動の全てであり、それがいわゆる「萌え」という現象になる。
ということで、ここまで、非常にコンパクトに「萌え」について今現在の理解を整理した。僕自身は「物語消費」という言葉で説明される80年代のオタクについては実感として非常に理解できる。しかし、90年代のオタクの「データベース消費」については、本の中で取り上げられた様々な例(アニメやノベルゲーム)を例に出されれば想像できるが、実感が沸かない。したがって、この文章中の「萌え」の説明が不足しているとすれば、僕自身の体験に基づかないからだろう。
なお、今回は、テーマが重すぎて取り上げずに、次の機会にまわすが、実際には、ヘーゲルやコヴェージュなど難しげな内容と合わせて「ポストモダン人間性はどうなるか」を説明した部分が、非常に重要であるし、ショックを受けるような内容だった。単純に言えば、人間性は無意味化していくのだが、ポストモダンという現象が、いろいろな部分に散見されることを考えると、我が事として捉えることだと深刻に受け止める。最近、何を読んでも「救いの無い終わり」だなあ。

*1:大谷昭宏氏:コチラ。強引な理論展開だが、本書読後に読み返すと、どうも『動物化するポストモダン』自体は読んでいるような感じ。。http://homepage2.nifty.com/otani-office/nikkan/n041123.html