Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

香山リカ『貧乏クジ世代』

貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!? (PHP新書)

貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!? (PHP新書)

バブルを知っていて知らない世代

昨日の日経読書欄によれば、「バブル回顧本」の出版が相次いでいるという。伊藤洋介『バブルアゲイン』、都築響一『バブルの肖像』、そして『気まぐれコンセプトクロニクル』などだ。記事では、バブルを経験した世代が、懐かしく恥ずかしい思い出として読む/バブルを知らない若い世代が、一種のあこがれとして読む、という二種類の読まれ方がある、とされている。
しかし、両者の境にもっと不幸な世代がある。それが貧乏クジ世代だ。
貧乏クジ世代とは、高校時代にバブルを謳歌する上の世代の大学生や社会人を見たあと、自らは、バブル後の険しい道を歩むことを余儀なくされた(団塊ジュニアを中心とした)70年代生まれを指す。
上の世代と比べると、大学時代はつましい生活を送り、就職活動の美味しい話はたくさん知っているが、自分たちは実感したことがない世代である。
つまり、貧乏クジを引いた、ということだ。

香山リカの「世代論」本

そもそも、正高信男『ケータイを持ったサル』*1荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』*2がいい例だが、世代論は、作者の(半径数メートル以内で起きたことに対する)印象論の辻褄を合わせることに終始する話も多い。
したがって、あるある大事典ではないけれども、読む方は話半分に(それを面白がって)聞く覚悟が必要であると思う。
逆に、現実的な感覚を持ったライターなら、そういう世間の反応を分かっていて敢えて出してくるわけで、そういう意味では、なかなかチャレンジングな本ともいえる。
 
この本『貧乏クジの世代』に対しては、そういう厳しいスタンスで入ったため、あまり期待しなかったせいで、かえって面白く読めた。
かなりの多作家でもある、香山リカの作品の魅力は、内容以上に、視点(切り口)であり、それを示したコピーである。「?」と引っかかる部分がある「貧乏クジ世代」というタイトルだけでなく、以下の目次タイトルなんかは、詳しい説明をつけなくてもいいほど、世代の特徴を現しているともいえる。それだけでも読んだ価値はある。

  • 知らないはずの大阪万博をイメージできる70年代生まれ
  • 「ケータイ以前」と「ケータイ以後」、どちらも知っているがゆえの葛藤
  • 「キミにしかエヴァンゲリオンは操縦できない」といわれたい

なぜ、上の世代は「バブル」で区切りたがるか?

ところで、この本で、香山リカが、貧乏クジ世代を取り上げた理由は、「かわいそう」というのとは違う。
貧乏クジ世代」は、このあとの人生で、今まで以上の幸せに出会えないことを予測し、悲観的なモノの見方をする傾向にある。それが、これからの日本の成長に大きく影響することを危惧しているのだ。

まさに70年代生まれ、団塊ジュニア世代にあたる自分は、「バブルの恩恵を受けることができなかった」という感覚は多少はあるが、正直言って、それが「アンラッキーな時代に生まれた」という風にはつながらない。
そういう意味では、本書一冊全体に対して、「大きなお世話」という感じもするし、むしろ、「自分らだけバブルを謳歌して申し訳ない」という上の世代の罪滅ぼしの気持ちが強いために、それを大きく取り上げたいのだろうと勘ぐってしまう。
ただし、香山リカも70年代生まれ全てをひとくくりにするつもりは無く、「成功者」として、ホリエモン羽生善治熊川哲也川内倫子(写真家)、イチロー山崎まさよし(!)などを挙げて、「私はラッキー」と思う人との「幸福格差」の問題を取り上げている。
二極化という指摘も、どうか?と思うが、精神科医として、多くの人間と向き合っているからこそ感じる部分があるのだろう。

貧乏クジ世代への処方箋

また、精神科医の立場から、悩める貧乏クジ世代へ、いろいろと処方箋を挙げているのが面白かった。

  • 「自分で実現してしまう否定的予言」をやめなさい(p86)
  • 自分の名前で呼びかけて、自分に話しかけるトレーニングをしよう(p93−ちょっと怖いが・・・)
  • イメージしながら、それにともなう感情まで実際に体験する成功イメージの持ち方が重要(ただの成功イメージはかえってプレッシャーになり逆効果)(p104)

特に、最後のものは、自分でも取り入れていこうという気になった。

まとめと補足:自分が世代を区切るなら・・・

全体的には、内容も発散せず、面白い読み物となっていた。香山リカさすがだなと思った。
しかし、やはり、自分が直接体験していないだけに「バブル」で世代を分けるやり方は、根っこのところで共感できない。
これに関して、先日読んだ乙一『ZOO』の最後に収録されていた*3「落ちる飛行機の中で」の中に、こんな会話のやりとりがあった。

「ところでノストラダムスの予言です。私ね、信じていたんですよ。1999年に絶対、人類は滅ぶ。自分は死ぬんだって」
「同じです。その予言のことを知ったのは小学生のときだったんですけど」・・・(略)
「結局、滅びなかったですね、世界。オーバーかもしれませんが、あれ以降、余生という感じがしますよ。」
『ZOO2』P164

乙一は1978年生まれで、自分よりも4つ年下ということになるが、この部分の感覚は共有しているなあ、と思う。さすがに「余生」とは思っていないけど、やはり199X年というのは、いつ何が起こるかという怖い雰囲気があった。
自分に限って言えば、五島勉の本も何冊か読んだうえ、『ムー』愛読者だったし。(これは内緒だ)
こういう感覚は、平成生まれは勿論、1990年代生まれの人も持ち合わせないのではないかと思う。今さら『北斗の拳』に夢中なのも、多感な時期に199X年を迎えた僕らの世代だろう。
つまり、自分にとっては、「バブル前後」に特に意味を感じないが、「ノストラダムス前後」には大きな意味を感じるなあ。余談だが。

*1:著者は批判されることが多いですが、この本は好きです。感想はこちら→http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20050411/saru

*2:馬鹿本です。感想はこちら→http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20040831/waka

*3:ボーナストラック「むかし夕日の公園で」を除く