Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

小学6年生の「死の理解」について(昨日の続き)

昨日のエントリについて、id:maesanさんからリファを頂きました。これについては、maesanさんのところでコメントしようかとも思ったのですが、長くなりそうなので、ここで書きます。maesanさんのエントリはコチラです。
http://d.hatena.ne.jp/maesan/20050125
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maesanさんは、「死のイメージ」について、スマトラ沖地震津波災害を引き合いに出して、以下のような疑問を呈している。

(数が全てではないけれど)何万という犠牲者が出ているのにも関わらず、それを伝える画面から死の匂いが全くしないのはなぜだ。

この後、報道についての意見が続くが、今回の話題に関連づけてスマトラの災害を出してくるところは、僕の考え方と異なる部分がある。
単純にいえば、僕は、身近な死とそうでないものは区別して考えるべきだと思っている。海外の災害報道から「死のイメージ」を感じ取ることが出来るのは、いわば特殊能力か病気*1みたいなもので、普通の人はそこから「死者のリアリティ」を感じ取れないし、その必要もないと思う。*2
佐世保の事件でクローズアップされて、問題になっているのは、そういった、自分と無関係なところにある「死」ではなく、親類や友達の死についての理解が十分ではないのではないか、という部分だろう。事件後の新聞記事(弁護士の会見)を読むと、そういった不安感が長崎の教育関係者から生まれたのは自然だと思う。

 今回自分のやったことを振り返ってどう思うか、という話をした。彼女は「何でやったのかなあ。よく考えて行動すればこういうことにならなかった」という話だった。
 御手洗(怜美)さんに対してどう思っているか、については「手紙や掲示板でなく、会って謝りたい」という話だった。
 両親に対しては「迷惑を掛けてしまってごめんなさい」ということだった。その上で「あなた自身どういう生活をしたいか」と聞いたところ「普通に暮らせればいいんだけど」という話だった。反省していないという意味ではなく、普通に暮らしたいという話をしていた。

加害者の小学6年生について言えば、自分のしたことが「取り返しのつかないこと」であることが把握出来ていないのがよくわかる。死んでしまった(しかも自分が手を掛けた)相手に「会って謝りたい」という発想はちょっと考えられない。
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もし、今の小学6年生が、そういった身近な「死」を理解できていないとすれば、その原因は、何なのだろうか?
間違いなくいえることは、そういったものに触れる機会が少ないことは、死の無理解を助長するのだろうということ。それに関連して「親の教育(家庭内での会話)が不足している」という話が出ることもあるが、これはおかしい。こういったことを言葉で伝えるのには限界がある。言葉は万能ではない。
例えば、お婆さんが亡くなったとき、その孫が未だ幼くて状況が理解出来なかったとしても、残されたおじいさんが、すっかり元気をなくしている。直接の親類でなくても、例えば父が親友を亡くして泣いている。そういうのを見ていくことで、人は「死」を学んで行くのだと思う。しかし、核家族化、共働きが進めば、当然、「死」そのものだけでなく、身近な人が悲しんでいるところを見る機会も減少する。そういった「言葉以外のコミュニケーション」が、人が社会性を得ていくのに役立っているのだと思う。*3
自分が小学6年生だった18年前と、今の小学6年生の状況がどう違うのか明確には言えないが、部屋にパソコンがあれば外で遊ぶより楽しいだけでなく、友達との「会話」もできる「便利」な世の中が、人と触れあう機会を減少させ、言葉よりも重要なことを置き去りにしてきているように思った。

*1:インドネシアで何万人の犠牲者が出ても、僕らは日常をこなしていかなければならない。スーダンダルフールの状況が心配で会社に行けない、と言う人は精神的に健康とは言い難い。

*2:ただ、「自分とは無関係なところにある死」について無関心な自分を不安に思うのは、人間として当然だと思う。イエモンにもそういう内容の歌詞があった。→『JAM』?

*3:「怒り」「喜び」などの基本的な感情も全部同じだと思う。