Yondaful Days!

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何のために動物園はあるのか?〜あべ弘士『動物の死は、かなしい?』

動物の死は、悲しい?---元旭山動物園 飼育係がつたえる命のはなし (14歳の世渡り術)

動物の死は、悲しい?---元旭山動物園 飼育係がつたえる命のはなし (14歳の世渡り術)

先日行ってきた よう太の授業参観の科目は道徳。
NHKのビデオ教材を見てから意見を出し合う形式の授業で、そのときに扱ったのは「ペットの命はだれのもの?」 という内容だった。調べてみると、NHKのページで番組の放送内容を確認できる。だけでなく、中学生の道徳の授業の様子をまとめたページもあった。

ペットの命はだれのもの? | 道徳ドキュメント | NHK for School
 (番組の内容を動画で見ることができる)

【道徳ドキュメント「ペットの命はだれのもの?」あらすじ】
飼い主のわからない犬や猫が施設に運ばれてきます。この動物たちは、数日後には炭酸ガスによる窒息死、つまり「殺処分」されます。
あるおばあさんが、猫を連れてきました。捨てられていた猫を拾ってかわいがってきましたが、団地の規則が厳しくなり、飼えなくなってしまったのです。つらそうな様子で係の人に、猫を預けていきました。
一方で、こうした動物を救おうと活動する人たちがいます。NPO法人「犬と猫のためのライフボート」の塩見まりえさんは週に2日この施設を訪れて犬や猫を連れて帰ります。塩見さんたちのはたらきで、新しい飼い主に引き取られていく動物たち。でもそれは、小さくてかわいい犬や猫がほとんどです。生きるのも、死ぬのも人間の都合。本当にそれでいいのでしょうか?


自分は、結構泣いてしまった。猫が可哀想というより、都営団地で猫を飼っていた独り暮らしのおばあさんが保健所に来たときの、悲しそうな様子、でも猫に出会った日のことを、飼っていた頃のことを楽しそうに話す様子を見ているのがとても辛かった。
引用先の中学生の授業の例を見ると、(やはり中学生になると、なのか)「中には涙をぬぐう子もいました」とあるが、小学5年生はあまり涙も見せずに淡々と授業を受けているように見えたので、自分が少し恥ずかしかった。(途中で振り返って保護者を観察したよう太には気付かれたらしい)


ところで、この授業のテーマは、タイトルにもある通り「ペットの命はだれのもの?」。
考えてみると、これに対する回答は、「ペットの命は勿論その動物のものだけれど、それを支えているのは、もっといえば生殺与奪を握っているのは飼い主」という言い方になるかもしれない。飼い始めたときから、最期まで育てる責任が求められるということに気が付いてほしいというのが番組のメッセージだろう。
ところで、ペットについては、家族の一員であって、「自由を奪っているから可哀想だ」などとは普通は考えないと思う。
しかし、誰かの家族というわけではない動物園の場合はどうだろうか。
こんな記事が年明けにあった。

騒動の発端は昨年10月に書かれた英文ブログ。寂しげな写真とともに「木も生えていない狭いコンクリートの囲いの中にたった1頭で生気なく立ち尽くしている」と記載され、フェイスブックなどで一気に拡散した。
 ネット上では、はな子を別施設へ移すよう求める約30万の署名が集まり、外国メディアでも取り上げられた。タイの英字紙バンコク・ポストは「タイの多くのネットユーザーも、はな子をタイに戻すべきだと訴えている」と報じた。


ちょうど昨年末のビブリオバトルで、『動物の値段』という本が紹介されたのを見て、動物園の運営(餌代等)には、ここまで多額のお金がかかっているのか!!と驚いたと同時に、それでは何でそこまでして動物園を続ける必要があるのだろうか?と思ってしまった。
井の頭公園の「はな子」のニュースを見て、こんなこと言うのなんて感傷的で非現実的過ぎる!と、少し前の自分なら馬鹿にしていたかもしれないが、少し考えてみると、結構難しい問題だ。


何のために動物園はあるのか?


そんな問題意識もありつつ読んだのがこの本だった。
ちなみに、この本も「14歳の世渡り術」という河出書房の中高生向け新書シリーズの一冊で字も大きくとても読みやすい。
作者のあべ弘士さんは『あらしのよるに』でも有名な絵本作家。1972年から25年間、旭川市旭山動物園飼育係として勤務して、当時の活動が旭山動物園復活の鍵となった。のだという。


本の中では子ども時代からのあべさんの半生が語られる。
中学高校と合唱部に明け暮れて、高3から勉強を始めるも大学入試には失敗。さらに2年間勉強した末に大学を諦めて鉄工所で働くことになった。働くうちに絵が描きたいという自分の気持ちに気がつき、鉄工所をやめて絵の勉強に専念する。そんなとき好きな女の人ができたので、絵は後回しでまずは職!と仕事を探すことに。
そんな風に遠回りして辿り着いたのが旭山動物園の飼育係の仕事。
子どもの頃の自然体験に加えて本田勝一の『きたぐにの動物たち』という本に出会ったのがきっかけだというが、そこで働こうと思ったときまで一度も動物園に行ったことがなかったというのが面白い。


そのあとの話は、動物園での「生と死」の話が多く扱われるのだが、本の中で最初に出てくるのは働き始めて2ヶ月後に起きた「アジアゾウに襲われて亡くなった先輩の死」だった。
動物の飼育技術に関する専門書が少なかった当時(昭和40年代)は、数少ない本を頼りに現場で確かめながら学んでいくしかなかったようだ。
文字通り命がけの飼育係の仕事の中では、たくさんの動物の死に出会う。しかし、動物が死んだことをいつまでも引きずると、日常の仕事に悪影響を及ぼすために、落ち込んでもいられない。自分のミスで動物を死なせてしまうこともある。そんな中でいつも職員同士で「動物とは何か」「命とは何か」「何のために動物園はあるのか」を話し合ってきたという。


冒頭に挙げた井の頭公園のゾウの話に似た話も出てくる。

飼育係だからこそ、動物を飼っていることに対して、「罪の意識」が働く。動物のことを知れば獣舎のライオンがコンクリートの上にいる姿を見ているとつらくなってくる。そんな状況に動物を住まわせている自分に責任を感じるようになる。コンクリートは自然環境にはない。本物の自然の大地には凹凸があり、草や枯葉のクッションがある。本来、コンクリートは動物の棲む場所ではない。たしかにコンクリート床は動物園にとっては掃除がしやすく衛生面ではいいけれど、動物にとってはいい環境ではない。
「これではいけないんじゃないか」
ぼくたちは議論の末、少しでも動物たちが快適に過ごせるよう、コンクリートの上に土を敷くことにした。
(p103)

ここら辺は現在の旭山動物園の原型になるのかもしれない。仕事の量は倍増しても動物たちに少しでも居心地のいい環境をつくりたいと考えたのだという。
しかし、今の言葉で言えば「ブラック」な労働環境を自ら作り出しているわけで、でもなんでそこまで…と思ってしまう。


つまり、ここでも、あべさん自身が同僚と何度も話し合ったという「何のために動物園はあるのか」という問題に立ち戻ることになる。


この本は、その問いに直接答えを出していない。問い自体は本の中に何度も登場するが、どこにも答えは書いていない。
例えば「第5章 死に慣れるだろうか」には「生きている本当の姿」「命に命を与える」、「第6章 ぼくだちができること」には「人間が関わらない死はすべて正しい」「ペットと野生動物の違い」「死ぬものは死ぬ」などもっともらしい章立てがあるが、その中では「何のために動物園はあるのか」について教えてくれない。
ただ、「おわりに」の部分には、それに間接的に答えている部分がある。

動物園にいるときに、「動物園が存在する意義」や「動物がいかに快適に暮らせるか」を考え、毎日のように仲間たちと議論し続けてきた。結局それは、
「命とはなんだろう」
という問いにつながっていったように思う。
「命」とは、「生きる」とは、に答えるとすれば、ぼくにとっては「描く」ことになるだろうか。
p175


本の中で、あべさんが半生を振り返りながら書いているのは、自分にとって絵を描くことがどういうことか、自分が何に心を動かされ、何を求めて生きてきたのかということ。
一方で、「人間が関わらない死はすべて正しい」と言い切っているように、動物園で動物を育てることには、どうしても矛盾があるということも本の中では示唆されている。
あべさんにとっては、動物園が存在して、動物と触れ合い、動物の絵を描くことは、自分自身の「命とはなんだろう」という問いかけに常に向き合うことができる大切な行為。逆に言えば、日常生活の中で、誰も、自然の怖さ、生命の尊さ、他の生物と比較したときの人間、を意識することはほとんどなく、葬式程度でしか「命とはなんだろう」ということに向き合わない。
そこから考えると、人間がそういった問いかけや忘れてはいけない大きな価値に気が付くために、動物園は存在するのだと言える。勿論、それは人間中心的な考え方かもしれない。しかし、いくらDVDを見ても本を読んで勉強しても得られないものが、やっぱり動物園にはあるのだろう。
というように自分が辿り着いた答えは的を外しているかもしれない。が、これだけお金をかけて、これだけ職員の人が命がけで、しかも、日々「何のために動物園はあるのか」について考えながら維持している施設が、無意味なんてことはあるわけがない。
この本を読んで、新たな気持ちでまた動物園に行きたくなったのでした。


動物の値段 (角川文庫)

動物の値段 (角川文庫)