Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

再び、子どもにテレビを見せることを考える

何度か書いているように、平日朝の8時〜9時の1時間は、我が家のテレビでは、NHK教育をつけっぱなしである。最近マニアックになり過ぎている「にほんごであそぼ」は僕も一緒になって楽しんでいるが、息子 陽太のためだ。したがって、本仮屋ユイカのりピーはすごく気になるが、「ファイト」は全く見ていない。
子どもに長時間テレビを見せることの弊害は、夫婦ともにわかっているつもりだ。また、頭で理解する以上に、陽太が取り憑かれたようにテレビに食い入る様子を見ていると、少し不安になってくる。*1
それでも、テレビを見せざるを得ないのは、楽だからだ。子どもが生まれる前は、よくわからなかったが、想像以上にテレビは「子守」役として素晴らしい働きを見せてくれる。朝の忙しい時間にひっくり返って大泣きしたり、親を求めて歩き回ったりとせわしない動きを繰り返す陽太を、ほとんど100%の確からしさで、おとなしくしてくれる。*2テレビが無かった時代の子育ての苦労を思うと、本当に、テレビ「様様」だ。*3
今はまだ、テレビ番組だけなのでいいが、子ども向けのビデオを揃えたりすると大変だ。いや大変「便利」だ。朝の時間に限らず、いつだって子どもをおとなしくできるから。そうなってしまうと怖い。*4
今現在の状況はいいとして、テレビの「害」を避けるためには何をすればいいのか?これに関して子どもにテレビを見せることの弊害を、うまい具合に表しているなあと感心した文章を75年も前に著された古典の中に見つけた。長くなるが引用する。

退屈に耐える力をある程度もっていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。(中略)
多少とも単調に耐える能力は、幼年時代に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼等は子供たちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている。そして、毎日毎日同じような日を持つことが子供にとってどんなに大切であるかを、真に理解していない。もちろん、やや特別の機会はこの限りではない。幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。興奮はさせるが、身体はちっとも動かさないような快楽、たとえば観劇などは、ごくたまにしか与えるべきではない。この種の興奮は、麻薬に似ていて、次第に多量に求められるようになるからである。それに、興奮しているときに肉体を少しも動かさないというのも、本能に反している。(中略)
私は、なにも単調さそのものに独自のメリットがある、と言っているのではない。(中略)
ある少年が娯楽と浪費の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽生えるのは容易ではない。なぜなら、そう言う場合は、考えがつねに次の快楽に向いていて、遠いかなたにある達成に向かわないからだ。

バートランド・ラッセル『幸福論』の第4章「退屈と興奮」だが、全文引用しそうな勢いで危険なので、一回切る。*5
ここでは、観劇が例に出されているが、今なら真っ先に「テレビ」「パソコン」が挙がるだろう。事態は、ラッセルが心配した1930年の世界よりも大幅に悪化している。多くの人が目先の快楽に捕らわれて、大きなものをつかみ損ねてしまう。「遠いかなた」にたどり着くためには、「退屈に耐える力」が絶対に必要なのだ。*6
ラッセルは、ひたすらに耐えることを推奨しているわけではない。自然のゆったりした過程、季節のリズム、生命・・・といった<大地>に触れることは、観劇などにくらべて単調かもしれないが、大切なことだと説明する。

快楽の中には、たとえばギャンブルなどが好例だが、こうした<大地>との接触の要素がまったくないものが多い。こうした快楽は、尽きるやいなや、人を索漠とした、不満足な、自分でも何がほしいのかよくわからないものを切望する気持ちにさせる。そういう快楽は、歓喜と呼べるようなものは何ひとつもたらさない。これに対して、私達を<大地>の生と接触させるような快楽は、その中に深い満足を与えるものを持っている。こうした快楽が尽きても、それがもたらした幸福感は残る。

前半部には、「激しく同意」だ。まさに索漠とした気分を実感として持つ。
こう読み進めていくと、ラッセルが言いたいのは、レイチェル・カーソンセンス・オブ・ワンダー』と同じことだとわかる。以前も引用したが、同じ部分を引用する。

わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもたちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。(P24)

勿論、「明日からテレビの無い山小屋で、田畑を耕し生活する」というわけではないが、陽太の成長に何が必要か考えながら、自分も足りないものを埋めていきたい。(最近、草花などの身近な自然に興味を持つようにしているのは、都会育ちの自分に不足するものだと痛感しているからだ。)
そのためには、このブログを書く時間をもう少し短くして、なるべく陽太と外に出て遊んだ方がいいだろうなあ。

*1:苦手なものもあって、(1)野村萬斉の顔がアップになる「二人大名」の狂言?を見ると泣き出す。(2)今の「にこにこぷん」に当たる「グーチョコランタン」でも、急に集中力がなくなり、テレビの前を離れる。→理由は不明。

*2:朝の時間に子ども用番組が多いのは、そのためだと思う。自分が子どもの頃は、民放でも、「マンガ世界昔話」とか「小さなバイキングビッケ」とかやっていたような気がする。

*3:昔は、母親がおぶりながら朝ご飯を作ったりするのが一般的だったのだろうか?勿論、現代においても、テレビに頼らない現代的な子育てを行っている人達がいるだろうことはわかります。

*4:上京時に親に確認すると、自分が子供の頃は、あまりテレビについて気にはしなかったという。しかし、子供番組の放映時間が限られていたことは、何よりも忍耐の訓練になっていたと思う。ビデオがあったら間違いなく「あれ見せろ」「これ見せろ」と駄々をこねていたはずだ。

*5:ISBN:4003364937。だいぶ前に買ってまだ読み通していないが、非常に読みやすい!

*6:話はずれるが、ことごとく退屈(待ち時間、移動時間)を埋めるしくみ、具体的には携帯ゲームは、非常に問題があると思う。どんどん日本人が馬鹿になっていくようで不安になる。