Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

壊れる日本人

本当は、先日(5/7)書いたエントリに合わせて引用しようと思っていたが、あれはあれでまとまりがあるので、改めて、柳田邦男『壊れる日本人―ケータイ・ネット依存症への告別―』の書評を別途紹介。
柳田邦男は一冊程度しか読んでいないので、何とも言えないのだが、河合隼雄は10年くらい前に数冊連続で読んで、いたく感動した覚えがある。少し前の『絶望に効く薬』にも登場していたが、信頼できそうな人というイメージは変わらず、この書評も河合隼雄だからこそ、僕にとっては意味がある。
引用先の文章も、一番大切なのが、親やその代わりの人との「じかの言葉のやりとり」という程度の文句には、言われ慣れているから心に響かないが、「本心」について述べた部分には、「オーケストラ」の比喩と合わせて、びびびときた。

ケータイもインターネット通信も、生の人間との接触ではない。これはじかに人に会うのではないので、かえって自分の「本心」を言いやすいという利点を持っている。しかし、下手をすると「他人への配慮」に欠けて、勝手なことを言ってしまうことになる。ここで、人間の「本心」ということについても反省が必要だろう。実際に人と向き合っていると、社会性とか他人への配慮とかがあって、何か「本心」が言えない、と思うことがあるが、人間の「本心」とは、そんなものだろうか。私は心の底にあることも表面にあることもすべてをこみにしたものが「本心」だと思っている。人間の本心を表現するにはオーケストラのようにいろいろな音が高鳴っていることが必要だ。低音部だけを鳴らして、これが「本心」と言うのはおかしい。

例の佐世保の事件のあと、ネットに熱中する小学生を取材する番組や雑誌があったが、そこで必ず聞かれたのは「ネットなら本心が言える」という言葉だった。
そういった子供が一般的かどうかはわからないが、彼等は「言葉」(論理)に拘泥しすぎるきらいがある。「どうして人を殺してはいけないのか」という質問も同じだ。実感が湧かない分、言葉にすがっているのだろう。自分の内側でなく、外の衣を繕う、そうやって足りない部分を埋め合わせてきた。
と、ここまで書いて、卑怯な書き方だと反省する。言葉にすがるのは子供だけではない。大人(自分)も含めて「ネット世代」は、言葉(書き文字)を過剰に信頼しているのだろうと思う。そうでなければ出会い系サイトなど流行らない。
これは、一見、中島義道の「言葉を軽視する日本人」という指摘に当てはまらない。しかし、過剰に信頼しているのは、実は「相手の」言葉なのではなく、「自分の」言葉なのではないか。つまり、やはり、相手の言葉は軽視し、自分の言葉しか信じない、というのが本当かもしれない。
特に、書き言葉については、それを容易に自分のところに引き寄せることができる。自分なりに想像を膨らませて、都合のいいように解釈できる。嫌なところは切り取ってしまえばいい。自分勝手な、都合のいい言葉の解釈がおおもとにある、という意味では、出会い系も、ネット心中も、ブログも変わらないだろう。
言葉を重ねて自己が肥大化すれば、他人に対したときの自分自身も受け容れられなくなる。だから「ネットなら本心が言える」のだろう。リアル社会の自分は、駄目な部分も全部出して他人と向かい合わなくてはならないから耐えられない。
ネットの「言葉」で構成された自分像は、一面では僕の良きアドバイザーになっているが僕自身ではない。真の成長(成功)は、社会(人の間)の中でしか為し得ない。僕こそネット依存症の「壊れる日本人」代表なので、ブログを書いていく上でも少しそこいらに気をつけておこう。