Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「影響の輪」「関心の輪」

僕にとってのブログの存在意義は、「自分の確固たる考えがあって、それを誰かに伝えたい」というよりは、「ネット上の情報を自分なりに解釈して、何とか自分のものにしていきたい」という点が大きい。したがって、書いた文章によって、自分がなぞった思考の足跡を、多くの人が見て、それについて意見をもらったり、関心を持ってもらったり出来るような内容が一つの理想である。
そういう意味で、loveless zero(秋風 碧さん)の、以下のエントリは、理想の形に近い。関連サイトとして挙げられたリンク先も興味深い内容が揃っているし、考えるヒントを与えてくれる。

「ゲームのルールを変える」ゲーム
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000091.html

ここでテーマになっている「ゲームのルールを変える」というのは、文章中の言葉を使えば「内なる」ゲームのルールを変える=「価値観を変える」ということである。「社会を変える」のは困難で、「自分を変える」のもしんどい場合、一番現実的な方法が「価値観を変える」ということになるのだろう。特に、コロンブスの卵的な「働いたら負けだと思っている」発言への考察が面白い。これについては、内田樹氏の「意欲格差」の問題提示が、多くの人がこのことについて考えるきっかけになっているようだ。

この「意欲格差」(インセンティヴ・ディバイド)は短期的に加速している。
この階層分化が急速に進んでいるのは、「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(210頁)からである。
不思議なことだが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えているのである。
これについては苅谷さんが恐ろしい統計を示している。
私たちは「勉強ができない」子どもは「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることができないだろうと推測する。ところが統計は微妙な経年変化を示している。
もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ない。しかし、階層間では有意な差が生じている。
「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…)社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)
つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する-すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)
(※苅谷剛彦『階層化日本と教育危機-不平等再生産から意欲格差社会へ-』の感想として書かれたエントリであり、頁数は、この本の頁。)

内田樹氏の意見をさらにかみ砕いたのが、umetenさんのエントリである。

自由主義的競争がそれに参加すれば、否応なしに勝敗のレッテルを身につけざるを得なくなるのに対して、参加すること自体を無効化してしまえば、「勝ち」と判定されることもないが、「負け」と判定される、蔑視されることもなくなる。
そのことはさらに、「自分の価値を自分で認める」という、実に完成された「近代個人主義的なるもの」に近しいのではないか。
そして、この自己肯定感、現実肯定感とは、結局のところ「競争の結果としての勝利」と同じくらいの価値を持つもの、同じくらい自由主義的な価値観なのではないだろうか。
競争という「効率の悪いプロセス」をすっとばして、いっきに近代個人的な自己肯定感を獲得できるとしたら、いったい誰が回りくどい、そして対価の魅力に乏しい競争などという、「遅れた」システムに参加するだろうか。

そう言われてしまうと否定できない。「おもしろきこともなき世をおもしろく」*1生きていくためには、かなり有効な策であるだろうと思う。ただ、僕自身が、その境地に至るのは御免被りたい。僕は、「自分を変える」ことにこそ生きる面白みを見つけていきたい。
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ここから先は「自分の」話だ。
桜井和寿は、どんどん変わっていく日本社会に不安を覚え、ミスチルの2000年発表の9枚目『Q』収録の「CENTER OF UNIVERSE」で次のように歌っている。

誰かが予想しとくべきだった展開
ほら一気に加速してゆく
ステレオタイプ ただ僕ら 新しい物に飲み込まれてゆく
一切合切捨て去ったらどうだい?
裸の自分で挑んでく
ヒューマンライフ より良い暮らし そこにはきっとあるような気もする
(中略)
あぁ世界は薔薇色
総ては とらえ方次第だ
ここはそう CENTER OF UNIVERSE

この曲は、ジェットコースターのような疾走感のある歌なのだが、歌詞からは、桜井和寿の「やさぐれ」感が伝わってくる、ミスチル混沌期*2を象徴する曲だと思う。
すなわち「自分を変えて」も「世界が変わらない」ことを憂い、諦め、結局は「価値観を変える」という道を選ぶしかないのでは?という前向きのようでいて後ろ向きで投げやりな歌だし、それを桜井和寿自身が自嘲気味に歌った歌だと解釈している。
こういう思考の袋小路(のように見えるもの)に嵌らないためにはどうすればよいのか。その処方箋が、『7つの習慣』に明確に示されていると思う。

私たちは皆それぞれ、多くの関心事を持っている。健康、家族、仕事の問題、経済、世界の平和など。関心の輪を描くことで、関心を持っている事柄と関心を持っていない事柄とを分けることができる。
そして、関心の輪の中に入っている事柄を見つめれば、実質的にコントロールできないものと、コントロールできるもの、あるいは大きく影響できるものがある、ということがすぐに分かる。後者の範囲は、もっと小さい輪、つまり影響の輪を描くことによって示すことができる。
自分が時間やエネルギーの大部分を、この二つの輪のどちらに集中させているかを考えることにより、主体性の度合いをよく知ることができる。
主体的な人は、努力と時間を影響のに集中させ、自らが影響できる事柄に働きかける。彼らの使うエネルギーは積極的なものであり、その結果として、影響の輪が大きく広がることになる。
一方、反応的な人は関心の輪に集中している。他人の欠点、周りの環境、自分のコントロールの及ばない状況などに集中する。これらのものに集中すると、人のせいにする態度や反応的な言葉、あるいは被害者意識をつくり出すことになる。反応的な人は消極的なエネルギーを発生させ、影響を及ぼさせる事柄を疎かにするので、影響の輪は次第に小さくなる。

(P103-105)

つまり、「変えるべき変えられることを変える勇気を、変えられないことを受け入れる平和を、そしてその区別を付ける知恵を」*3つけることが重要なのである。
ブログにおいては、どんなテーマで書くにしても、自分でコントロールできるかできないかを度外視し、ひたすら「関心の輪」に集中した問題の捉え方をしがちである。自らの「影響の輪」に深く関わることは、先日購入したフランクリン・プランナーに任せることとしても、この日記では、なるべく、取り上げるテーマが「影響の輪」「関心の輪」のどちらに入っているのかを意識し、少しでも自らの影響の輪を拡げていけるような物の見方を少しずつ身につけていきたい。

*1:高杉晋作辞世の句。下の句に「すみなすものは心なりけり」と続けたのは、看病していた野村望東尼だという。引用はしてみたが、実は高杉晋作のことをあまり知らない。要勉強!

*2:申し訳ありませんが、ミスチルに詳しいわけでなく、この時期が果たして「混沌」期にあたるのかは、よく知りません。あくまで、このあとのアルバムの一皮剥け具合から解釈しています。

*3:アルコール依存症連合会という断酒団体の座右の銘吾妻ひでお失踪日記』でも冗談めかして取り上げられているが、実は鋭く真実を突いた言葉。