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好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』★★★★☆

子どもたちはなぜキレるのか (ちくま新書)
amazonのレビューではタイトルに裏切られた人が辛い点数をつけていたが、今回も「売れる新書タイトルの法則」*1に沿ったタイトル付け。僕は、そこまで気にならないが、現場の教育者の立場で、同種の本を探していたとしたら、羊頭狗肉にも思える書名に文句の一つは出るだろう。
さて、本書の中心となるテーマは何かと言えば「腰肚(はら)文化の再生」。もし、このタイトルだったら全く食指を動かされない*2ので、上記のタイトルにしたのは、やはり巧いといえる。
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内容についていくつか重要な部分を抜き出す。(1〜3章)

  • 私は学校の主な機能は、上達の論理を技として身につけさせることにあると考える。・・・「上達へのあこがれを共有し技を磨く場」としての学校の本質を共通認識とすることが必要である。(36p)
  • 深刻なのは、言葉がニュアンスを失うことで感情自体がやすりをかけられたように微妙な陰影をなくしていくということである。相当異なる状況での感情に対して、すべてムカツク一語ですんでしまうというのは、いかにも便利だが、その便利さは、感情のひだにヤスリをかけることにもなる。(56p)
  • プライベートな快適空間をどれだけキープできるか。これが、時代をおおう大きな傾向である。(63p)
  • 「がんばる」の一辺倒は、「ムカツク」を連発する子どもを笑えないほどの語彙の貧困を示すものだ。(81p)
  • 「がんばれ」とか「負けないで」のように、身体の技術知がなくても通用する漠然とした言葉は、奥行きがあまりなく、意味の固有の重さが少ない。・・・・「踏ん張る」のような身体知を伴った基本的な動詞がすべて「がんばる」に駆逐されるのは、大きな社会文化的損失である。(85p)

さて、「腰肚文化」について踏み込む前段の1〜3章の部分では、「キレる」「ムカツク」「がんばる」「楽しむ」などが、語彙の貧困を助長している言葉として標的にあがる。以前、"「語彙の貧困」は思想の貧困の現われでしかない”という言葉をとりあげたことがあるが、自分にとっても非常に耳が痛い指摘だ。

参考(過去の日記):励ましの言葉

ところで、斎藤孝が問題にしているのは、実は「語彙が貧困」ということではない。「身体知を伴わない語句を身につけていない」ことを問題視しているのだ。「腰肚文化」とは身体=言語的な文化であり、身体的な実感(過去の経験や訓練)が伴うような言葉こそが自分を育てる、という主張がそこにはある。
これはなかなか面白い。「ムカツク」「がんばる」などの“便利な言葉”が「感情のひだにヤスリをかけることにもなる」と指摘しているように、逆に、身体知を伴う言葉を用いることが、感情のひだを深くし、人間的な成長を促すというのだ。いやはや、その通りだと思う。
そのためには、身体を鍛えることにも意識的である必要があり、その基本が腰、肚であり、呼吸法である、というのが4章以降の内容だ。
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さて、上に引用した文章の中で挙げられている「がんばれ」とか「負けないで」を見て、やっぱり思い出すのはZARDが流行した90年代前半J-POPの歌詞。根拠なく肯定的なメッセージソングは、恥ずかしい以上に「空しさ」を感じる。*3
対照的に、身体的な実感を伴う言葉を意識的に取り込んでいるのがスガシカオだと思う。スガシカオの書く歌詞には、匂い、(心のではなく身体的な)痛み、肌触りについてのフレーズが多く、独特の雰囲気をつくり出している。聴く人に何かを伝える、何かのイメージを想起させるには、曖昧な言葉を選んでいては為し得ない。ましてや既に「ヤスリのかかった」脳味噌では、いくらよさそうな歌詞を切り貼りしたって、どんどん焦点がぼやけるだけだ。スガシカオの描く歌詞には、そういった点に常に意識して磨かれてきた芸術品のような美しさを感じる。斎藤孝式にいえば「技化」された作詞手法が確立しているのだろうと思う。
 
その他、4章〜6章についても、『7つの習慣』と絡めて思うところがあったが、また今度。星は5つでもいいのだが、この人の場合、期待度も高いので4つ半。
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これを読んで初めて知ったが、身体論や呼吸法といったものは、斎藤孝の考え方の根幹部分に位置するようだ。今度はこれかな?→呼吸入門

*1:作品のテーマとずれていても、興味を引く言葉を用いて疑問形にする。

*2:実は、こんな本も出しているようだが・・・。ISBN: 4140018933:title

*3:論旨に反しますが、僕はZARD「負けないで」は好きです。