Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

森達也、森巣博『ご臨終メディア―質問しないマスコミと一人で考えない日本人』★★★

ご臨終メディア ―質問しないマスコミと一人で考えない日本人 (集英社新書)
対談形式をとった本には一長一短がある。
メリットは、突っ込み役がいることによって、要所要所で解説が入り、文章が理解しやすくなるという点が大きいと思う。読書というのは「読み手と書き手の会話(Q&A)」だと考えている自分にとって、対談形式であることが、「会話」の支援をしてくれるようで、はまると非常にわかりやすい本になる。*1

デメリットは、両人の結論部分がよくわからないまま議論が発散してしまう場合で、二人が主・従の関係ではなく、半ば対等な関係であるときに生じやすいと思う。
対談形式をとっているこの本については、まさに議論が発散している部分があり、デメリットの方が大きいように感じられた。特に、二人の意見が大筋では一致しており、ある程度の共通理解のもとで進むため、その共通理解の部分については、読み手に対して説明不足の感がある。実際、ランダムに開いたページの一節を読んでも、どちらの発言か判断しかねるところが多い。具体的には、二人ともが徹底的な反戦主義者で、自衛隊石原慎太郎についてたびたび飛び出す極論について、説明が少なすぎて納得できない部分がある。
また、両者の認識の微妙なずれの部分については、重要なテーマであるはずだが、本の構成も対談の進行も、それをうまく料理できていない。森達也の方は、なるべく二人の違いをクローズアップしようとしているようだが、それも歯切れが悪く、結局マスコミ批判や右傾化批判の「放談」になってしまうパターンが多い。
両者の認識のずれというのは、単純に言えば、諸悪の根源は「社会(国民・民意)」か「メディア」か、という部分で、例えば、以下の部分が典型的である。

森 :視聴者は、形にならないニーズを欲望して、それに対してメディアが形を与えるわけです。
森巣:やはり世論を誘導している。
森 :しかし、世論もメディアを誘導している部分があります。
森巣:「世論」というのは難しい問題だと思います。私は基本的に純粋な「世論」なんてものは存在しないという立場です。「世論」は都合よく操作されている。

森巣が、メディアの責任を強く指摘するのに対し、森は、メディアと社会の共犯関係を問題視する。*2最後でも述べるが、僕の意見は、森達也の意見の方に近い。
森は、メディアと社会が、相互に従属しながら、主体を喪失しているとして、繰り返し「この国の民意には主語がない」ということを主張する。客観報道が求められるメディアには、それが不可欠ながらも「決して中立公正にはなり得ない」ということに対する十分な自覚が必要で、そういった自覚が麻痺してしまうと、JR西日本脱線事故の際の記者の罵声「社長を呼んで来い」「人が死んでんねんで」*3のような現象が生まれてしまう。勿論、これらの報道を受け止める側も、「考える」ことをメディアにまかせっきりにせず、自らの努力が必要ということはいうまでもない。
そういえば、「主語がない」ことについては、かなり昔から村上龍もたびたび発言しており、今週月曜日のJMMでも以下のような記述があった。

違和感を覚えたのは、堀江前社長の衆議院選挙立候補の際に実際に現場で応援したという自民党武部幹事長と竹中総務大臣の「弁解」です。
二人は、「反省すべきは反省する」とインタビューで答え、そこだけがくり返し流れたので、そのあとの記者とのやりとりは不明ですなのですが、非常に奇妙な感じがしました。
「反省すべきは反省する」という弁解には主語がありません。ただ、主語がないから意味がわからないというわけでもありません。反省している主体はきっと本人なんだろうという暗黙の了解があるので、意味は伝わります。たとえばスペイン語も主語を省略しますが、動詞の変化で主体がわかるようになっています。しかし日本語の「反省すべきは反省する」という表現は、主語を省くことによって主体との間に距離が生まれ、ニュアンスを曖昧にすることが可能です。しかも、まるで抽象的な格言のような響きと効果を持つのでたいていそこで話は完結しがちです。「わたしは反省します」というダイレクトな表現と比べるとそのことがはっきりします。「わたしは反省します」と言ってしまうと、霧が晴れるように主体と行為が合致し、ダイアローグは完結せずに続きます。
       JMM [Japan Mail Media]                 No.360 Monday Edition

この指摘は、人によっては「重箱の隅」のように映るかもしれないが、僕にとってはなかなか鋭い指摘だと感じた。発言している当人も気づいていないのかもしれないが、確かにここに書かれているよう「ニュアンスが曖昧に」なっていると思う。
こうやって見てくると、先日自分で書いた文章も、結局この「主語がないこと」に対する苛立ちを述べたかったんだ、と思われてくる。

一つ目は、「自分自身」の興味・関心と「不特定多数」(一般大衆)のそれとの区別が付いていない文章(もしくは前者の分析が無い文章)だからである。僕自身の好みを言えば、ここで例に挙げられている「テツandトモ」と「はなわ」は評価が逆だし、毒舌ネタはあまり好きではないが、長井秀和なんかは、見るたびに、研究熱心な人なんだなあと感心する。「不特定多数」の興味・関心の分析が必要なのはテレビ関係者などの、いわゆるマーケティングの部分であり、それは芸の面白さとは直接的には無関係である。僕が好きな「評論」系の文章は、萩原健太など、自分の好みを前面に出すタイプの人の文章なので、筆者の好みが全く出てこない文章には不信感が湧く。・・・というか、(この文章を書いている人はそうではないと思いますが)「自分が面白いと思えることは何か」よりも「来年、誰が消えているか」に興味が行ってしまう人、というのは可哀想だと思う。

結局、自分は、ブログを書くことを通じて、何とか「主語のない民意」から抜け出そうとしているのかもしれない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本書を全部読んでみると、森巣博に比べれば森達也の意見の方が、自分とは親和性があるというか、読みやすい内容である。逆に、森達也が、メディア関係者は当然持つべき、という「後ろめたさや引け目」がなく、ズバズバと批判しまくる森巣の物言いには(ひっくり返したら同じではないかという)危うさを覚える。議論がやや発散してしまっているところも併せて考えると、同じテーマで森達也個人の文章を読んでみたい。また『A』『A2』も当然、早く見たい作品だ。レンタルビデオに出回っているのでしょうか?
 
追伸:昨年の忘年会で、この本をプレゼント?してくれた友人のid:D16に感謝。

*1:例えば、安井至教授のホームページや、H教授の環境行政時評などは、実際は一人で書いているのだろうが、対話形式をとることで、最新の環境問題をわかりやすく伝えようとしている。H教授の方は、webで読む文章としては長いと思うが。

*2:あとがき部分でも述べられているが、タイトルの「ご臨終メディア」というのは森巣博の案である。副題になっている「質問しないマスコミと一人で考えない日本人」という方が、森達也の意見が反映されている部分なのだろう。

*3:P145。この記者の発言は、小浜逸郎『「責任」はだれにあるのか』でも取り上げられていた。後世に残る名言?である。