Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

茨木のり子『おんなのことば』

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

まずは、お気に入りの詩を写すことに心を傾ける。

みずうみ

<だいたいお母さんてものはさ
しいん
としたとこがなくちゃいけないんだ>

名台詞を聴くものかな!

ふりかえると
お下げとお河童と
二つのランドセルがゆれてゆく
落葉の道

お母さんだけとはかぎらない
人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ

田沢湖のように深く青い湖をかくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で

それこそ しいんと落ち着いて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖

教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから発する霧だ

早くもそのことに気づいたらしい

小さな
二人の
娘たち

海を近くに

海がとても遠いとき
それはわたしの危険信号です

わたしに力の溢れるとき
海はわたしのまわりに 蒼い
おお海よ! いつも近くにいてください
シャルル・トレネの唄のリズムで

七ツの海なんか ひとまたぎ
それほど海は近かった 青春の戸口では

いまは魚屋の店さきで
海を料理することに 心を砕く

まだ若く カヌーのような青春たちは
ほんとうに海をまたいでしまう

海よ! 近くにいて下さい
かれらの青春の戸口では なおのこと

聴く力

ひとのこころの湖水
その深浅に
立ちどまり耳澄ます
ということがない

風の音に驚いたり
鳥の声に惚けたり
ひとり耳そばだてる
そんなしぐさからも遠ざかるばかり

小鳥の会話がわかったせいで
古い樹木の難儀を救い
きれいな娘の病気まで直した民話
「聴耳頭巾」を持っていた うからやから

その末裔(すえ)は我がことのみに無我夢中
舌ばかりほの赤くくるくると空転し
どう言いくるめようか
どう圧倒してやろうか

だが
どうして言葉たり得よう
他のものを じっと
受けとめる力がなければ

汲む−Y・Yに−

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶  醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそりと汲むことがあるのです

ここから感想。
珍しく詩集を借りてきたのは、そもそもは、この本の冒頭にある「自分の感受性くらい」という詩をゴーログで見て、心惹かれたためだ。
茨木のり子さんを安倍内閣のブレーンにしよう!
「自分の感受性くらい」は、「怒り」が表に出た、非常に力強い印象だが、詩集で一連の作品に触れてみると、もっと瑞々しい表現に満ちた優しい作品が多く、結果として、かなりお気に入りの一冊になった。
一般的に、詩が素晴らしいのは、それが感情を読み手に「伝える」というよりは、読み手の中にある感情を「引き出す」ように作用するからなのだと思う。そういう意味では、読み手によって感想が変わるし、さほど感動できなかった作品は、読み手の畑が十分に育っていなかったからなのだ。それらの感動できなかった大部分については、趣味の違いということでやり過ごしてしまうが、茨木のり子の詩集は、そういう「不作の畑」にも種を蒔こう、と思わせるような力がある。
そんな彼女も2006年に80歳で亡くなっている。が、言葉は残る。そういう詩人のつむぐ言葉に、耳を澄ます。そんな機会は、数多くあるように見えて実は少ないのかもしれない。
だから、言葉に感動したときは、その気持ちを大事に扱っていきたい。

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらを見るのかしら
(「さくら」より)