久しぶりにJMMに村上龍本人の投稿があり、これが非常に興味深かった。
8月24日付の朝刊に、「マルーシ通信」という沢木耕太郎のアテネオリンピックレポートが載った。「見えない敵」という見出しが付いたそのレポートは、女子マラソンで優勝した野口みずき、入賞を果たした坂本直子と土佐礼子の三人の選手が、「高橋尚子」という「見えない敵」と戦って勝った、というような内容のものだった。
わたしは、いろいろな意味でそのレポートに異和感を持った。そして異和感の中でもっとも大きかったのは「沢木耕太郎の文脈」とでも呼ぶべきものに対してだった。*1
という導入部から始まる文章は、一面においては、五輪報道に対して、皆が少なからず思っていることを代弁していると思う。すなわち、メディアが、競技そのものよりも、競技者の持つ「物語」の報道に不当に重きを置いているということだ。
村上龍は、スポーツを語るときの沢木耕太郎が常に必要とする「物語」を否定し、スポーツの持つ「政治や個別の人生の負の部分をゼロにしてしまう強さと美しさ」にこそ意味があると語る。これはまさにその通りだろう。NHKの堀尾アナが連日連夜行っているインタビューは、その「強さと美しさ」をかき消すものかもしれない。
僕自身は、『一瞬の夏』を大変面白く読んだので、沢木耕太郎が、過剰に「物語」を追う文体*2には耐性がある。しかし、村上龍がいうように、それは、まさに「近代化途上・高度成長時」を背景にしていたから成り立つ物語であって、今の時代に合わないことも確かだと思う。
一方で、最近の報道での「物語」重視の問題は、沢木耕太郎の時代錯誤とは多少異なるものだと思う。ここら辺は思いつきなのだが、「消費」と表裏の関係にあった「流行」が衰え、形を変えて「物語」となったのではないか。つまり
「流行」(画一化)→(反流行=個性を求める動き)→「物語」
という感じ。うまく説明できないので、例を挙げれば
- 「流行」:Jリーグ開幕当初。カズダンス。アルシンドになっちゃうね。
- 「物語」:プリンセス・カナ、パワフル・メグ、なでしこジャパン、20世紀最後の暴君などの過剰なキャッチフレーズ。山本ジャパン、長嶋ジャパンなどの団体競技のスクール・ウォーズ化。
こういうのが進むほど、スポーツを真に楽しみたい人の気持ちは少なくとも民放やNHK地上波からは離れていってしまうのだと思います。*3
とはいえ、僕も、スポーツ鑑賞が得意ではなく、つい「物語」を求めてしまうので、村上龍と一緒になってメディアを批判出来る立場にない。しかし、彼の言う「物語を必要とする文脈への警戒」は常に意識しておこうと思うのでした。
(補足)
沢木耕太郎というキーワードで辿ると、以下のような感想を持っている方もいました。
うちは新聞を取っていないので、実際の文章が読めず、残念です。
うちは朝日と日経をとっているんですが、朝日に沢木耕太郎のオリンピックの記事が載っています。
まったくのところ、これは失望させらるもいいところで、ただ大御所になったおやじが傲慢をかましているとしか読めないような記事ばかりです。
福田和也が沢木耕太郎はナルシスティックといっていたのですが、今回の記事はまさしくその言葉にふさわしい。要するに、やっていることと言えば、自分が勝手に思いついた言葉を選手に投げかけて、必ずしもその言葉とはかみ合っていない言葉が戻ってきても、自分の文脈の中に強引にもっていってしまう。自分の言葉を選手に投影して、その投影された像しか選手の中には見出さない。それじゃあ、自分の姿を選手の中に見出して、鏡に映る自分の姿を描いているのと何ら変わらないんじゃないかと、そういう気がします。
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