Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

オーソン・スコット・カード『消えた少年たち』上・下(ISBN:4150114536)

学生時代に『エンダーのゲーム』を読んだことがあり、オーソン・スコット・カードの名前は知っていた。SF小説に対しては、いつも構えてしまうところがあるが、『エンダーのゲーム』は、ハードなSFではなく、ストーリー重視の非常に読みやすい作品だった。
そうした予備知識しかない僕が、この本を手に取ったのは、本の雑誌の90年代の小説ベスト10の1位(且つ2003年のオススメ文庫本1位)であったからだ。ハヤカワの「水色」の本、しかも上下巻の本など、相当な覚悟がなければ読まないのだが、それでも読んだのは、作者オーソン・スコット・カードに対する好印象の記憶と、『本の雑誌』の評価、二つの後押しがあってこそだった。
 
さて、SFと思って読み始めた『消えた少年たち』は、下巻の中盤に差し掛かっても、SFらしさを見せない。ある家族の生活を追った作品となっている。大きく展開しそうなこれ以降の話を読む前に、今の段階での感想を書いておきたい。(読んでもらえばわかるが、話の筋とはあまり関係のない部分だ。)

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ここまでを読む限り、この話は「役割」の重要性について書かれたとてもよくできた本だ。
多くの家族が直面する育児(しつけ)、出産、転職、引越しの問題に対して、夫ステップと妻ディアンヌの夫婦は悩み、考え、選択する。*1特に、育児(しつけ)の問題について、夫婦、友人同士の意見の対立は、とてもリアルだ。例えば

  • 子供の安全のために、子供を常に目の届く範囲に置いておくべきかどうか
  • 子供の精神に不安定な状況が見られるが、精神科に連れて行くべきかどうか
  • 上司の自分への評価が著しく低いことを理由にせっかく見つけた職を再度改めるか
  • 仕事で時間的な制限のある中、家族との時間をつぶしてまで、教会の要職を引き受けるか

こういった問題に対して、各登場人物は、自分が果たすべき「役割」について、常に意識しながら行動する。(親だけでなく、子供も!)
たとえばステップなら、ディアンヌの夫である自分、転職先のエイト・ビッツ社の社員である自分、スティーヴィーの父親である自分というそれぞれの役割を十分に考慮したうえで、自分がどう発言し、行動するべきか考える。自分の意見を言う前に!だ。「ディアンヌの夫である自分」を意識するということは、ディアンヌが希望する「役割」と自分が望む役割の妥協点を常に探っている、ということ。
ステップとディアンヌの夫婦は二人とも敬虔なモルモン教の信者であるから、宗教的な側面も大きいだろうが、大半の人が無宗教である日本人にだって、そのまま通用する話だ。僕自身にもやはり、家族の中での役割があるし、会社の中での役割があるし、(弱いながらも)地域社会の一員としての役割がある。しかし、これを意識することが少ないのは、それこそ、「宗教」の問題なのかもしれない。
 
僕は、何も、今週末から教会に行こう、とかそういう話をしているわけではない。強く意識するようになったのは、自身の「役割」について認識を深めることが、僕自身が現代的な諸問題に対峙するときに必要になるのだろうということ。夫婦喧嘩みたいな小さな問題から、鬱や犯罪の低年齢化などの大きな問題まで、一部は「役割」というキーワードに還元できる部分があるのではないかと思う。
つまり、理想的には、自分の描く「役割」像と、他人が期待する「役割」像に大きな差がなく、また「役割」の配分(優先順位)についても、少なくとも夫婦の間・家族の間では、共通の認識があることが望ましいように思う。
子供たちは、自らの「役割」を与えられ、認識する場面が昔に比べて減少しており、こういった場面を増やす必要がある。与えられた「役割」の中で行動する訓練が少なければ、自らの拠りどころを見つけられずに不安になる。
簡単にいうと、そういうことだが、未消化な部分も多い。詳しくは、別の機会に再び話題にしたい。

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さて、このように、僕にとって大きな問題提起のきっかけとなってくれたこの本だが、物語は、まだしっかり始まっていない。ここまでを読む限りでは、「物語」として高く評価される理由がわからない。残り300ページでどのように展開するか、非常に楽しみだ。

参考『消えた少年たち』読了後

*1:最近、思うのだが、具体的な行動(選択)を伴わなければ、「考えている」ことにはならないと思う。そういう意味では、僕は、あまり考えていない=選択していないかもしれない。