Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

乙一, 大岩 ケンヂ『GOTH』★★★★

GOTH (角川コミックス・エース)
GOTHを読んでの疑問は、ちょっと考えても解消されなかったので、評判の良い漫画版を購入した。
漫画家は大岩ケンヂ。(←初めは大槻ケンヂだと勘違いして、「オーケンとGOTHは、合ってそうで微妙に合ってないし、第一、漫画を描くのか?・・・」と、頭の中が?マークでいっぱいになりました。)
驚いたことにデビュー作だというが、黒白バランスもコマ割も、小説的表現を漫画の文法に置き換えた表現も、かなり上手に仕上げた作品だ。
でも、それだけじゃあない。漫画は、原作6編から4編が選ばれて漫画となっているが、漫画版でのラスト「記憶」は、原作とは、ちょっと違う話になっている。この内容が、僕にとっては原作を読み解くためのヒントにもなったし、『GOTH』自体が、非常に練られた作品だということを明らかにさせてくれた。
『GOTH』を読んで面白いと思った人は、是非600円出して乙一原作の番外編を買うのだと思って手にした方がよいと思う。絵柄も、ほとんどの人が抵抗感なく読めるはずだ。*1あと、漫画版のあとがきは乙一が書いているので、乙一のあとがきファンの人は、これだけは読んだ方がいい。
さて、ここからはネタばれ注意のため、「続きを読む」記法にした上で、空白行をたくさん入れることにした。漫画の感想に絡めて、原作のネタについてあからさまに書いた個人的なメモなので、原作を読んでいない人は読むことをお勧めしない。






















さて、僕は叙述トリックものが大好きなのだが、そういう作品は「オチが叙述トリック」というだけで内容について触れずともネタばれになるので感想を書きにくいのが残念である。*2『GOTH』についても、全編を通して大小取り混ぜて細かい叙述トリックが仕掛けられており、特に「犬」と「声」は、かなり比重の高い大ネタなので、昨日の日記では触れないことにした。
「声」で納得のいかなかった部分は、北沢夏海が、テープを渡してきた少年を、高校前のコンビニで待ち伏せしているシーン。森野の性格を考えると、森野と帰宅時に同行する生徒が、主人公である「僕」(神山樹)以外にいることがどうしても考えにくかったからである。
しかし、漫画を見れば分かるとおり、その生徒(漫画では高見という名)が、北沢姉の死体写真を餌に森野に近づいていた、というのが真相だった。小説でも、確かに、ぼかして書いてある。
漫画版が素晴らしいのは、そのあとである。結局、ラストの「記憶」は、北沢夏海の代わりに森野夜が狙われる、という原作「声」の平行世界での話ということになるが、この話があることで、原作以上に、森野姉妹と北沢姉妹の対比がよくわかるようになっている。
原作を読み終えたときは、上記の叙述トリックの矛盾点(と思った箇所)が気になって、全くそこに頭が回らなかったが、結局『GOTH』は、森野と「僕」が違う種類の人間である、ということを6篇の連作の中で掴んでいく、というところに醍醐味があるのだろう。
原作ラストでは、森野はサナギが殻を破るかのように、生まれ変わっている。森野は夏海をうらやましいと思った。それは、それまでの森野もずっと人間性を取り戻したいと思っていたゆえだろう。僕にとって、森野は「コチラ側」の人間で、「僕」は明確に「アチラ側」の人間だ。そういう意味では、「僕」が境界線の外をはみ出るように描かれているのは、正解だと思う。
また、それは読む人の判断にゆだねるべきことだが、僕としては、漫画のラストは、もう少し「僕」の異常性が際立つラストでも良かったと思う。そうしないと、漫画での「僕」のかっこよさのみに惹かれる人が出てくる。まあ、ここは昨日書いた結論と同じなわけだが。
 
さて、ある意味では「犬」のネタこそ、『GOTH』で一番の大ネタなのだが、ユカが犬である、という叙述トリックは、破綻しているように思える。例えば「彼女(ユカ=犬)にはじめて会ったとき、私(=人間)には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた」(P51-52)という記述は、「私」が三つ子以上であることを意味することになりはしないか?とすれば、かなり無理がある設定ではないか?
ただ、衝撃はこの作品が一番で、お気に入りの作品ではあるのだが・・・。

*1:ちなみに、森野と「僕」は、ほとんど違和感がないが、「リストカット事件」の篠原、「土」の佐伯については、漫画版はかっこよすぎると思う。中肉中背のイメージで描いてほしかった。

*2:折原一とか叙述トリックに特化した人は別だが。