Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

大泣き

最近、陽太は風邪気味で泣いてばかりいる。今晩の食事のときにも、自分の分はなかなか食べようとせず機嫌が悪い。しばらくすると、椅子に座っている僕の膝の上に乗ることを要求してきたので、そうすると、僕が食べているスパゲティを箸でいじくって遊ぶが、口に持っていっても食べない。しまいには、皿の外に出そうとしだするので、「ダメ!」と叱って、手から箸を剥ぎ取ると、それからずっと泣きっぱなし。断続的にやみもしたが、しばらくすると泣き出して埒があかない。結局、夕食もほとんど食べずに泣き続けたまま寝てしまった。
もう少し、優しくしてあげればよかったかもしれない。そういったさじ加減は、ホントに難しい。(いつもそういう難しいさじ加減の連続をこなしている奥さんには感謝。)
だからこそ、伊藤進は、育児を語るなら、育児本として別に出すべきだと思うのです。最終章で、自分の育児を自慢しているけど、自分の父親と同い年ということは、30年くらい前の話なので、かなり美化されているはず。また、母親との分担の度合いも考えないと、それがいい指導かどうかなんてわからない。(奥さんに9割任せておいて、自分の育児方法を自慢する、などということはしてほしくない。)
 
(追記)
いろいろ書いたのだが、amazon評を見ると、高評価の人が多いので、自分の感覚がずれているのではないかと少し不安になった。
そこで、再度考えてみると、ポイントは、やはりインパクトのありすぎるタイトルに辿り着いた。
まず、本文中では、教える相手によって方法を変える必要がある、という主旨のことを書いており、作者も「絶対にほめるな」と言っているわけではないので、そもそもはタイトルにやや問題があるのではないか、と感じた。しかし、タイトルに引っ張られたのか、作者の本心なのかよくわからないが、以下の記述には頭をひねる。

本人がアモーレ情熱にもとづいてやっていることに対しては、なるべくほめたりしないことです。かりに本心からほめたい気持ちになったとしても、それをぐっと抑えるようにする。大事なアモーレ情熱をはぐくむには、大人があまり介入しないほうがいいのです。(P89)

言いたいことはわからないでもないが、小さい子どもであれば、何かに興味を向けさせるために「ほめる」というのは、非常に有効であるどころか、必要不可欠であるように思われる。興味・関心があって、はじめて行動に結びつくわけだし、「ほめられた経験」が、何かを始める(続ける)「きっかけ」になるということは、これまでの半生を振り返っても多くあったように思える。
また、行動のモチベーションを「内発的動機付け」と「外発的動機付け」に二分して、『ほめる→外発的動機付け』と結びつけて考えるのは、事象を単純化しすぎているように思える。むしろ、純粋に「内発的動機付け」のみにもとづいた行動なんていうものは、ありえないのではないかと思う。自分を考えてみても、ほとんど全ての行動には、何らかの「外発的動機付け」が作用している。
何度も書くように作者の言いたいことはわかるが、迫力のあるタイトルに向けて文章を落とし込もうとするあまり、いろいろと矛盾がでてきてしまっているのではないかと考えてしまう。
まあ、教育論めいたものは、あまり読んだことがなかったので、今後の課題にします。