Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

YUKI『メランコリニスタ』★★★★

メランコリニスタ
まずはじめに言っておくと、このメロディー(作曲:蔦谷好位置)はいろんな意味で反則。イントロを聴けばわかるが、この必殺のメロはサンボマスターそのぬくもりに用がある』と同じ。ということは、シカゴ「サタデイインザパーク」のコード進行をそのまま持ってきている。*1また、歌詞(とうぜんYUKI作詞)を聴くと「そのぬくもり〜」のキーワード「さみだれ」をわざわざ使っているので確信犯かもしれない。
歌詞なんだけど、YUKIが自ら語るように、これまでのシングル(『長い夢』『ドラマチック』『歓びの種』)のような重苦しさがなく、今回はあくまで軽くて楽しい歌に仕上がっている。

YUKI:今までの曲は感情的な部分を入れていくことが多かったんですけど、この曲に関してはとにかく踊れるようにしたくて、それを一切なくしたいというのがありました。詞の世界もあまり深読みできないような、語弊があるかもしれないけど、詞の内容に意味があまりないようなものにしたかった。私が好きだった歌謡曲の時代の、口ずさめる、そこに重苦しさのないものをやりたいなって。

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同じインタビューからもうひとつ引用。

■じゃあ詞の書き方も変わってきました?
YUKI:そうですね。ただ、フィクションでもノンフィクションでも、自分が感じてないことを書くということが一番よくないと思うんです。本当にいいメロディーに寄り添う日本語で、自分がちゃんとメロディーから感じていること。そこに忠実でありたいんです。自分自分っていう主張や、自我のために書くっていうことがなくなったから、こういう詞になっているんじゃないかなと思います。

「自分が」どう感じるか、を大切にしている、と言うのは簡単だが、自分が感じたことを言葉にできるのがYUKIの才能なのだろう。「素敵だな」と思った詞をそのまま引用するのと、「素敵だな」と思った心の動きを「自分の言葉」に置き換えるのとでは、全く質が違う。
前回のエントリに繋げて書けば、後者は「主語がない」歌詞、ということになる。
話は飛ぶが「世界に一つだけの花」の話をさせてほしい。
最近、この歌詞については、『ドラゴン桜』の中で「オンリーワン」の認識について批判され、『下流社会』でもそれが引用され、『超バカの壁』でもやっぱり難癖をつけられ、批判され放題である。上に倣えば、「主語のない」口当たりのいい歌詞ということになるかもしれない。
しかし、作詞作曲の槇原敬之自身が歌っている分は、彼自身の実感に基づいた「主語のある」歌詞だったと思うのだ。そもそもがSMAPへの提供曲だったことから始まり、爆発的なヒットを果たす中で「主語」を失い、まやかしのような言葉になってしまった。
ひとことで言えば「消費」されてしまった。賞味期限が切れてしまった。マンネリ的に使われる言葉には、聴いた人に何かを考えさせるほどの力はなくなってしまっている。
そういった「消費」されてしまった言葉を避けて、鮮度の高い歌詞を上手に繋げていくスガシカオなんかの職人技はすごいなあ、と思う一方、リスナー側も「世間」的な感覚に左右されすぎないよう、自分がどう感じるかというアンテナを磨く必要があるのだろう。半ば天邪鬼的に言うのだが「世界に一つだけの花」の歌詞もそんなに悪くないぞ。
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ところで、花と言えば、YUKIのこの前のシングルは『歓びの種』だったのだが、「種」についての説得力のある分析があったのでいつも読んでるところから引用させてもらう。

 花は、美しく咲き誇るけれど、やがては枯れてしまうものです。単純に美しいもののイメージとしてあるいは枯れてしまうはかないものの象徴として、表現に使われます(最近は後者が増えている/好まれているような気がします。顕著な例)しかし、花を「実を実らせるためのもの」としてとらえている歌って、ちょっと出てこないですね。
 この曲が「種」にこだわっているのは、美しさや散ってしまうもののはかなさや切なさとはまるで別種のものを志向しているんだ、ということを、端的に表しています。それは『見逃してしまう』ような、小さいもの。けれど、成長するもの。成果として結実するもの。次につながっていくもの…育てていくもの。

これは見事な分析だと思う。そして「花」に目が行きがちな現代だからこそ、敢えて「種」にこだわるYUKIの主張がよく出ている。「世界に一つだけの花」も、もともとは「歓びの種」と主張したい部分は変わらない気がするので、その叩かれぶりを可哀相に思ってしまうのだ。

*1:以下のアドレス、5曲目で視聴可能→http://www.towerrecords.com/product.aspx?pfid=1187742