Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

本村洋さんの会見を見て

山口母子殺害事件の上告審判決が出たあとの、本村洋さんの記者会見での言葉は、非常に印象に残るものだった。

「自分の命を取られることを初めて実感したときに、自分の犯した罪の重さを知る。それこそ死刑という刑罰の意味だと思う」
「何とか人間の心を取り戻して死刑を受けてほしい。悔い改めてもなお、命を落とさなければ償えない罪がある。その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」。

こればかりはテレビの力を思い知った。おそらく文字のみのニュースで、この会見に触れていれば、大きな引っ掛かりは無かったかもしれない。
テレビに映る顔、目、声の表情、その全部が、本村さんの発言を、聞く人の心に届くものにしていた。
この会見と併せて、加害者の父親のインタビューを流している番組も多かったが、内容はどうあれ、その言葉には、話者の「人間」を感じられなかった。*1
 
自分は、特に死刑制度の存続に強く賛成するものではないし、これについては判断を保留している。「無期懲役」という制度が有名無実のものならば、今のところは、死刑制度を存続するしかないのでは?という程度である。
また、敵討ち(復讐)を是とするものでもない。本村さんは、過去には「自らの手で」という発言もしていたようだが、これをそのまま賛成することはできない。
今回の記者会見の内容には、本当に、心に響いてくるものがあった。そのことを、ここに書いておきたかった。
 
不謹慎な方向に脱線するが、『デスノート』の思想というのは、法によらない犯罪者の死が、犯罪の発生率が下げるのではないか?というものである。やや異なるが、『イキガミ*2も、同様に「死」への恐怖が、まじめな「生」を導く、というものである。
どちらも、絶対的な「神」のいない日本に、生死を司る「神」を持ってくる点が共通しており、厳罰化による犯罪抑止というよりは、「死」への恐怖が、行動を自制させる。そして、デスノートの場合は、犯罪を犯した者は、死を持って裁かれる。
ところが、本村さんの会見を聞くと、彼の求めるものは、デスノートのようなかたちでの裁かれ方とは異なることがわかる。
あくまで「人間の心を取り戻して死刑を受けてほしい」のだ。
自らもそう発言しているように、残酷な望みだとは思うが、池田小事件の宅間守の死刑が(死刑制度の意義さえ疑ってしまうほど)本当に空しいものだったことを考えると、その通りというしかない。
それは、もはや「怨嗟」などというものではなく、「願い」とでもいうべきものである。
そして、加害者でも被害者でもない人たちも「その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」のだろう。

*1:勿論、疑心暗鬼になるならば、テレビによる意図的な編集といったものも疑わなくてはならないのだが。

*2:コチラ⇒ISBN:4091532810