Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

五輪の「感動」はどこから生まれてくるのか?

男子100m平泳ぎでの北島康介選手の金メダルを、自分は勤務先の昼休みに知った。
スポーツに疎い自分でも、さすがに知っている選手で、予選も見ていたので、早く家に戻ってスポーツニュースで「この感動」をいち早く確認しなくては!という気持ちになっていた。
しかし、帰ってスポーツニュースを見てみると、思っていたほどの嬉しさはこみあげてこない。逆に、何だかとてもつまらなくなってしまったのだった。
自分が楽しみにしていた「感動」とは何だったのだろうか?

スポーツの感動は「LIVE」から生まれる!

ありきたりの言い方だが、スポーツの感動は、「身体性」から生まれてくるに違いない。
まず、選手の意志の強さと肉体を制御する美しさ、という意味での「身体」に見ている側は心を揺さぶられる。
それ以上に、身体、肉体が逃れることのできない「時間」というもののもつ意味は大きい。特に、現地に行って、その「場の空気」を選手と共有して観る人よりも、その場から遠く離れて、「画面」を通じて観る人の多い現代においては、選手と共有できるのは時間だけだからである。*1
また、結果が分からない中で、同じ時間にそれぞれの「念波」を選手たちに向けて送っている人数が多いことは、(もしもそれが幻想であったとしても)観ている側の「一体感」を呼び、それがさらに満足度を高める。
その「時間」を共有するために、トイレを我慢したり、食事の時間をずらしたりする不便さこそが、実は、メディア時代のスポーツ観戦の醍醐味なのだ。
つまり、テレビ画面の右上に出ている「LIVE」という文字は、ものすごく重要なのである。*2
試合開始前に、ある程度、結果が予測できたとはいえ「金メダルをとった北島選手」のレースをテレビで見るのと、「金メダルをとれるかどうかわからない北島選手」のレースをテレビで見るのとでは大違いなのだ。
だから、自分が、スポーツニュースで「感動」を得られず、ガッカリしたのは当然だったのだ。
でも、それだけじゃない。

「感動」って何?

さて、レースの翌日、懲りずに朝のスポーツニュースを見ると、「北島選手の涙のワケ」といった内容が長々と放送されている。チャンネルを回したが、どこもそんな内容でゲンナリした。
上では、スポーツの感動は「LIVE」から生まれる、と書いたが、こういったストーリーを付加して楽しむのも、スポーツの楽しみ方の一つではある。でも、金メダル獲得の瞬間を観ることのできなかった自分にとっては、素直に入り込めない内容だ。プレーしていない自分の目の前で、よってたかってドラクエ談義をされている気分だ。
ちょうど、月曜日に配信された村上龍メールマガジンJMMで、村上龍らしい指摘があった。

北京五輪が始まり、大手既成メディアでは「感動」という言葉が多用されそうです。しかし、たまたま見た高校野球の開会式で「感動を与えるようなプレーをしたい」というニュアンスの選手宣誓があって、愕然としました。結果的に感動を与えることは可能ですが、感動を与えようという意図で、作品を作ったり、パフォーマンスを行うのは不自然で、不可能だからです。

「わたしはあなたに感動しました」というのは自然ですが、「わたしはあなたを感動させました」という表現はあり得ません。わたしは、小説を執筆していて、この作品で読者を感動させたいなどとは決して思いません。謙虚だとか、そういうことではなく、不可能だからです。わたしの作品を読んだ読者が「結果として」感動することはあるかも知れません。しかし読者の感動に、わたしが関与することはできません。だからわたしは、何とか最後まで読んで欲しい、と思いながら小説を書きます。
 
「感動を与えるようなプレーをしたい」という言い方ですが、宣誓をした選手に非があるわけではなく、社会全体にそういった倒錯があることの反映でしょう。高校野球のプレーやオリンピックのパフォーマンスが、ときに人に感動を与えるのは事実で、自然なことです。でも、どんなに優れた選手でも、意図して感動を与えるのは無理なのです。他人の心と感情の動きに、誰も関与することはできないからです。感動に関する社会的な倒錯は、社会が感動に飢えていることの証しかも知れません。

繰り返すが、スポーツの感動はLIVEから生まれ、そこでテレビメディアが担う役割は大きい。しかし、テレビメディアにとって、「生」の持つ力はその場限り。これを、何度も再体験可能にする*3(生で見ていない人にも追体験可能にする)には、物語を付加し、真空パック化してやる必要がある。「北島選手の涙のワケ」は、そうして生まれた種類の「感動」ということになる。
二つに分けてもう一度整理すれば、スポーツの持つ、一次的な意味での感動は以下のような要素に支えられる。

  • その時間限り(一期一会的)
  • (同じ時間を過ごす故の)観客側の一体感
  • 競技者が主役

それらの優位性は、生放送終了後のテレビメディアとして使うことのできないものであるから、これを編集する必要がある。そこで生まれるのが以下のような要素に支えられる二次的な感動である。そして、それは「物語」というかたちをとる。

  • 再体験(追体験)可能
  • (一体感とは対極の)個別的・個室的
  • (同じ物語に触れる故の)観客側の擬似的一体感
  • 競技者が主役と見せかけて、実は編集・解釈する者が主役

村上龍の文章に戻れば、競技者自身は「感動を与えようという意図で、作品を作ったり、パフォーマンスを行う」ことはできないが、編集側は、「感動」を最大限に引き出そうとして「物語」をつくる。*4
勿論、後者の感動が、偽物だとかいうつもりはない。沢木耕太郎や『六月の勝利の歌を忘れない』など、その種の「感動」は、むしろ自分を形成する大事な一因子になっている。
しかし、それらは別の種類の「感動」であるということを、観る側は認識しておく必要がある。また、観る側の「感動」のために、選手たちが競技を行っているわけではないことに注意しなくてはならない。
そして、スポーツ以外の部分にも広げるならば、「物語」には気をつけたい。最近、自分たちは「感動」や「気づき」を糧にしないと生きていけないのではないか、と思わせるほど、世の中には、感動や気づきの「物語」が溢れているが、そんなことはない。単に、商品として売りやすいのが「物語」であり、「物語」にできない、一期一会的な部分にこそ、自分にとっての重要な何かがあるはずだ。
つーか、あれだ。ビジネス書は全部ブックオフに売って、旅に出よう、という話だ。

*1:なお、マラソンという競技においては、選手と完全に時間と場所を共有できるのは、伴走車のみであり、柔道や水泳とは状況が大きく異なる。

*2:そういう意味では、開会式のCGと口パクノ話は、スポーツの感動の原則を理解していないといえる。でも、そんなことよりも「中国のイメージ」が大切なんでしょう⇒「丸顔で歯並びがあまりよくなかったため、中国の正しいイメージを表現していない」http://www.afpbb.com/article/beijing2008/beijing2008-news/2505893/3214713

*3:趣味嗜好が多様化する中では、個別の感動の再体験には、YOUTUBEの方が向いている。テレビは、どうしても番組制作者の解釈が入りこむし、それが不快なときも多い

*4:競技者と解釈・編集者が一体化しているスポーツがプロレスということになるのか。