Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

パクリじゃなくて、シンクロニシティなんだ!

「五輪の「感動」はどこから生まれてくるのか」という先日のエントリだが、

  • 自分の素朴な気持ちを原点としている点
  • 何となく理論だてた結論を得ている点

で、自分なりにはまあまあ納得の行く文章が書けたと思っていた。
確かに、月並み過ぎる結論ではあった。書き終えてみると、わざわざ指摘するほどのことでもないと思い、最後をひねりすぎてしまってよくわからない締め方になってしまったりもした。しかも、その部分を友人atnbから突っ込まれもした
ただ、文章としては、自分の頭から生み出されたものは確かだったのだ。
〜〜〜
ところが、その後、以下の関西大学黒田教授の文章をみつけて驚いた。

こんばんは。いよいよ北京オリンピックが開幕しました。
普段、スポーツに関心のない皆さんも、テレビのまえに釘付けということも多くなるかもしれませんね。
今日は、オリンピックをはじめとしてテレビのスポーツ番組の変容について考えたいと思います。
(略)
 さて、そうした国威発揚的な盛り上がりがなくなったにもかかわらず、オリンピックをはじめとして、スポーツ番組には、以前に比べて、大げさな表現や一方的な応援放送、そしてバラエティのような演出が目立つようになりました。このようなスポーツ番組に眉をひそめるスポーツファンは多く、たとえば亀田兄弟のボクシング中継のあり方についても多くの批判が集まりました。ただ、テレビの視聴者全体からすれば、その声はあくまで少数派なのでしょう。このような傾向はますます加速しているようにも見えます。
 ところで、スポーツ観戦の感動、あるいはスポーツの醍醐味とは何でしょうか。作られたフィクションストーリーの感動と最も異なるのは、スポーツは先が分からないこと、「結果の不確定性」にあると私は考えています。フィクションは、たとえ、受け手は知らなくとも、すでにストーリーは決まっています。スポーツの場合は、次の展開が分からないので、「今」という時間の中でハラハラドキドキしながら、喜びか、落胆の結果を待たなければなりません。これがスポーツの醍醐味です。
ですから、「いま」を伝えることができる放送メディアは、このスポーツとたいへん相性がいいわけです。その結果、テレビとスポーツは互いに影響しあいつつ、大いに発展してきました。
テレビやラジオでの実況中継は、そのときどきの「今」と「ここ」を私たちのもとに届け、スポーツの感動を手助けしてくれました。これまでにも多くの感動的な実況中継があります。先ほどの「前畑がんばれ」や、東京オリンピックの女子バレーの「金メダルポイントです」、などの言葉は、多くの人の心に残っています。
しかし、テレビのスポーツは次第に変化していきました。
誤解を恐れずに言いますと、現場の感動をいかに伝えるかではなく、テレビとして現場をいかに感動的なものに作っていくのか、それに力を入れるようになってきました
テレビがスポーツを利用して安易な「感動」を演出しようとしていると言い換えてもいいでしょう。もちろん、視聴率のアップにはそれが必要だと考えているのです。

書かれた日は、自分のエントリよりも少し前でありながら、テーマと基本的な論旨はほとんど一致、しかも断然わかりやすい
黒田教授の文章は、引用部分のあと、スポーツ中継の番組制作に関わる3つの問題点を指摘して、さらに主張を肉付けしているが、それらの指摘も納得性を高めているし、最後に例示された「2006年のW杯 日本−オーストラリア戦のNHK、栗田アナウンサーの実況」も、スポーツ中継のひとつのあり方として興味深い。
満足行くと思っていた自分のエントリが、他の劣化コピーにすぎないと感じるのは非常に辛い。
ただ、やや軸が異なるのは、黒田教授がテーマとしているのが、スポーツ中継という限定したものであるのに対して、自分がテーマとしたのは、やや漠然とした「感動」を与えるものすべてであるということ。だからこそ、最後に自己啓発本みたいな話が出てくるのだし、音楽や本についても同じ視点で考えることができる。逆に、何にでも広げて考えられることが、自分の解釈・自分の文章が幼稚なのではないか、誰もが常識的に考えていることではないかと懸念を抱いてしまう原因にもなったのだが、まあ、あまり考えないことにする。少し、関連エントリを続けて書くことにする。