Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

CD時代のグルーヴに一発録りは必要か?

(前から続く)
スポーツの感動の重要な要素を説明する言葉として、黒田教授が「結果の不確定性」「今」「ここ」という言葉を選んだのに対して、自分が、わざわざ「LIVE感」という言葉を選んだのは、音楽のライヴのイメージが強かったことに関係がある。(単に語彙の貧困さを示しているともいえる)もっといえば、それは「グルーヴ」と言い方と同義である。
最近、平日更新を欠かさないオリジナル・ラヴ田島貴男の「Tajima's Voice」でも以下のような文章があった。

うごくものと書いて「動物」と読むけれど、音楽でもバイクでも「動き」が好きなんだ。グルーヴィーな音楽に身をゆだねて「イエー!」となるとき、バイクに乗ってコーナーを曲がるとき、自分に働く力に自分が出す力でこたえて、世界の力学と会話しているような、宇宙の挨拶の言葉が聞こえたような面白さを感じるんだ。と同時に、グルーヴっていったいなんなのだろうと思い始める。なんでグルーヴというものが存在しているのか不思議なんだ。

 グルーヴは拍子をとることじゃない。「いち、にい、さん、しい」と、拍子をとってリズムが合う合わないというのは、グルーヴじゃないのさ。グルーヴは音楽でダンスするための言葉なんじゃなかろうか。
「バイクに乗せてもらうんじゃなくて、自分でバイクを操って乗りこなすのが、バイクの面白さだ」ってバイク乗りの人がよく言うんだが、このバイクという言葉をそのままリズムとか、グルーヴとか、ロックンロールとかに言い換えていいんじゃないかと思うのさ。

音楽でよく使われる「グルーヴ」という言葉は、ここでも指摘されているように、単なるリズムではなく、一体感やノリを意味する。勿論、演奏者間での一体感もあるだろうが、聴き手に焦点を合わせるなら、演奏者と聴き手の一体感、聴き手の音楽への主体的参加(ダンスなど)と言ってもいいと思う。当然、CDで聴くよりもライヴで強く感じるものだといえる。
田島貴男が「グルーヴ」にこだわることは、、一発録りを重んじる最近のCDの傾向からもよくわかる。*1


しかし、個人的な好みから言えば、「グルーヴ」と「一発録り」は、それほど相性がいいとは思えない。*2
聴き手の音楽の楽しみ方として、通常は、ライヴよりも、個々がウォークマンやステレオを通して楽しむやり方が頻度が高い。したがって、一回限りではなく、繰り返し聴く中で、その音楽を好きになっていく。ましてや、レコード時代ではないのだから一曲をエンドレスでリピートしたり、好きな部分だけを繰り返し聴くこともあるだろう。(この部分は、以前のエントリでいう「スポーツの二次的な楽しみ方」として挙げていた話に対応する。スポーツ観戦と違い、音楽は、繰り返し聴いて楽しむという個室的な要素が強い。)
しかし、「一発録り」の良さは、CDのパッケージを破って一回目に聴くときに発揮されるのではないか。それこそ聴き手にとっても、「一期一会」のときで、勿論、そのときにグルーヴを感じることができれば最高だろうが、自分なんかには、よくわからないことがほとんどだ。
とするならば、繰り返し聴くことを前提としてつくられたCDの方が、自分にとっては好きな音楽ということになる。オリジナル・ラヴでいえば、一発録りを公言するようになった『踊る太陽』以降は、ファースト・インプレッションの評価が高いときがあっても、あまり繰り返し聴かないのだ(社会人になったという生活環境の変化は大きいのだが)。目まぐるしく変化するオリジナル・ラヴの音楽性がその理由であるという考え方もできるが、自分としては、田島貴男が一発録りを強調すればするほど、その手法が自分とは合わないのでは?という疑念を深めてしまうのだ。


先日も菊地成孔のDub Sextetについて以下のような記事があった。

昨年末、一枚目のアルバムが出た時点で、メンバーはお互い顔を合わせたことが無かった。CDでは各メンバーが別々に録音し、後で菊地がコンピューター編集して一つの演奏に仕上げる。
(略)
メンバーが集まって、一緒に録音すれば、互いのリズムはシンクロし、演奏に一体感が生まれる、そういった「ジャズの伝統芸」の反対をいくことで、逆に同時演奏よりもグルーヴ(乗り)が出てくるのだという。
(略)
コンピューター編集で、各楽器のリズムを微妙にずらすことで、このうねりをつくり出すのがダブ・セクステットの狙いだ。
日経新聞2008.8.17アート探究欄)

菊地成孔もDub Sextetもほとんど聴いたことがないだけでなく、ダブの良さがよくわからない自分が、こんな記事を取り上げても説得力がないのだが、一発録りの祖であるジャズ界の方がこんなことを言っているのだから、自分の言うこともそれほど的を外していないのではないか。


菊地成孔ダブ・セクステットのアルバムはこちら。

The revolution will not be computerized

The revolution will not be computerized

Dub Orbits

Dub Orbits

補足

いやー、音楽ド素人の自分が「一発録り」に意見するみたいな挑戦的なエントリを書くのはどうか、と自分の中でも何度もストップがかかったのだが、いつの間にか更新ボタンを押してしまっていた。(笑)
よくよく考えると曽我部恵一なんかを思えば、演奏の一体感とはじけるような勢いなど、一発録りの魅力というものも自分はわかっているような気がする。そこで、オリジナル・ラヴと一発録りが相性がよくないのでは?と気づいた。

何が違うのか?

結局、「歌い方」の問題に帰着するようだ。これまでに何度も繰り返したのだが、オリジナル・ラヴについていえば、自分は、『Rainbow Race』の頃の「少し抑えた歌い方」「日本語の正確な発音を意識した歌い方」が好きで、『ムーンストーン』以降の崩し過ぎる歌い方はあまり好きではない。それを助長しているのは、間違いなく「一発録り」だろう、ということで、「一発録り」を敵視することになったのだ。
ということで、悪いのは「一発録り」そのものではないような気がしてきました。(笑)

「歌い方」について書いた過去エントリ

(無駄に歴史が長い割に、書いている内容があまり変わっていません・・・。)

補足2

一言でいうならば、最近のアルバムには、「HUM A TUNE」や「水の音楽」みたいな、100回連続で聴いても飽きない、みたいなスルメオブスルメみたいな曲がなくなった、と個人的には思う。それが何のせいなのかは解明できていません。自分は残念なことにそれほど変わらない(変われない)人間なので、趣味嗜好の変化の問題ではないはずです。

*1:「俺は渋谷系じゃねえ」の発言からもわかる通り、昔から、自分の音楽がカタログ的に消費されていくことに我慢ならなかった→ライヴを重視していたということなのだろうが

*2:言い訳すると、自分は音楽的な素養がないせいか、あまり一発録りの良さというのがわからないのです。「ライヴ盤」のよさはわかりますが。というか、皆さん、一発録りの良さについて教えてください。