Yondaful Days!

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つながりの中での大事な役目〜手塚治虫『ブッダ』(6)

ブッダ 6 (潮漫画文庫)

ブッダ 6 (潮漫画文庫)

この巻の前半で、シッダルタは、それまで行動を共にしていたデーパから離れることになります。ウルベーラの森で続けていた「苦行」についての考え方が大きく異なることが分かったからです。バンド解散でいうと「音楽性の違い」です。

苦しめ そうだ 苦しみぬいて そのくされきった からだからタマシイをぬきだせ
それが ただひとつ きみの救われる道だっ(デーパ:p16)

どっちがおろか者だ きみたちこそじゃないかっ
欲のままにたのしみや遊びにふけることは低級でおろかだ
しかし 自分を苦しめるのに夢中になるのも苦しむばっかりでおろかじゃないのか?
そんなことで人間は救われない!!ほかに…まだ方法があるはずだ…ほかに…(シッダルタ:p15)

ネズミだってトカゲだってインコだって魚だって
死にたくないなんて死ぬときまで考えないニャ(アッサジ:p26)

宇宙という大きな生命のもとから無数の生命のかけらが生まれ…
この世界のありとあらゆるものに生命をふきこんでおる…(略)
生命には形がない
もちろん上も下も左右もない
そして過去もいまも未来も関係ない…(ブラフマン:p96)

こうして主要キャラクターのセリフを並べて見ると、生死についての考え方が、彼らの間で大きく異なってることに気がつきます。
デーパは、肉体的な死よりも魂が穢れていないことを重視します。そのために、たとえ死に至ったとしても苦行を行うべき(苦行を行うことで汚れた身体から脱するべき)と考えます。
シッダルタは、デーパとは異なり、魂よりも肉体的に生きていることを重視します。したがって過剰な苦行には全く意味がないと考えます。また、死を恐れるあまり、永遠の生命を志向します。
アッサジは、自らの死を全く恐れません。むしろ、他の生命のためには、進んで自らの生命を捧げます。飢えた狼のために我が身を差しだしたアッサジの最期を見て、シッダルタは「すさまじく恐ろしい苦行」と捉え、アッサジの自己犠牲を「勇気」のたまものだと誤解します。
しかし、スジャータの命を救うために、彼女の肉体の中に入り込んだシッダルタは、そこで宇宙を目にし、ブラフマンに会い、生命はみな同じで、時間の概念も無いということを理解します。その考えを広げ、この巻の最後に、巨人ヤタラとの問答をきっかけにして、遂にピッパラの樹の下で「悟り」を開くのです。

(ヤタラの「みんな不幸 そんならなんで人間はこの世にあるんだ……」という質問に対し)
木や草や山や川がそこにあるように 人間もこの自然の中にあるからには
ちゃんと意味があって生きてるのだ あらゆるものとつながりを持って……
そのつながりの中でおまえは大事な役目をしているのだよ(シッダルタ:p243)

ブラフマンにお墨付きを与えられ、これからは「ブッダ(めざめた人)」と名のるよう言われるも、やはりシッダルタは「悩みつづけるシッダルタ」のままで、これまでと大きく変わっているようには見えませんが、この先どうなるのでしょうか。

〜〜〜
さて、この巻でそれ以外に重要なこととして、シッダルタの故国カピラヴァストウが滅んだという話があります。両親やヤショダラ姫は、まだ殺されておらず、「私たちを助けて」というヤショダラ姫の声は、遠く離れたシッダルタにも届くのですが、シッダルタは動きません。この後シッダルタは悟りを開くのですが、故郷のことは、やはりシッダルタを悩ませているようです。
「助けて」という声を受け取り、放置するヒーローはあまりいないので、遅くなってもちゃんとヤショダラ姫を助けてあげて欲しいと思うのでした。