Yondaful Days!

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結末を思い出せないくらい異常な小説~吉田修一『湖の女たち』


異常な小説でした!
そもそも映画『愛に乱暴』を観た帰りに本屋で原作小説『愛に乱暴』が醸す物語としてしっかり構築された雰囲気を感じて、久しぶりに吉田修一の小説を読みたい!と思っていたところ。
ちょうど少し前にも吉田修一作品が映画化されていたのを思い出し、上下巻で2冊ある『愛に乱暴』ではなく、1冊で読み終える『湖の女たち』を先に読んだ。


と・こ・ろ・が…


あらすじを引用して、その異常さを説明する。

湖畔の介護施設で暮らす寝たきりの男性が殺された。捜査にあたった刑事は施設で働く女性と出会うが、二人はいつしかインモラルな関係に溺れていく。一方、事件を取材する記者は死亡男性がかつて満州で人体実験にかかわっていたことを突きとめるが、なぜか取材の中止を命じられる。吸い寄せられるように湖に集まる男たち、女たち、そして――。読後、圧倒的な結末に言葉を失う極限の黙示録。

この小説は、介護施設で働く佳代、介護施設の事件の捜査を担当する圭介、雑誌記者で、やはり事件に関わることになる池田の3人の語り手のパートが交互に登場して進んでいく。
あらすじに書かれる「圧倒的な結末」=事件の真相については、ドスンと重いものが用意されているのだが、そこには佳代も圭介も絡まず、「3人目」として登場する池田が結末を語る役目を負う。

佳代と圭介は、いわばエロパート担当。あらすじに書かれる「インモラルな関係」を表現するだけのために存在する。
しかも、圭介は語り手の1人だったのに、最後にそこから抜けてしまう。後景化する、というのだろうか。

圭介の異常性、佳代の異常性

通常なら事件の真相に近付くのは刑事の役回り。それを記者がサポートするはずなのに、この小説では、圭介(刑事)と池田(記者)が直接絡むシーンはない。
それどころか、圭介は、腐敗した警察組織の中で、その捜査方針に疑問を抱かず、介護施設職員に自白を強要して事件を終わらせようとする。
ここまで共感の難しい語り手も珍しいのではないか?


いやいや、しかし、そこじゃない。
この物語が異常なのは、圭介が共感しにくいから、ということ以上に、圭介と佳代が絡むシーンが、ほぼすべて「変態」だからなのだ。
序盤から続く、佳代が「なぐさみもの」として扱われるようなポルノ的な描写に、令和の時代にこれ?と驚く。
しかし、最後まで読むと、本書で登場する「変態」シーンには、佳代の欲望が強く表れており、むしろ、圭介の方が「道具」で、だからこそ用済みになった圭介が「後景化」するという構図が現れてくる。こういった形での主従交代はあまり経験したことのない読書体験で、刺激的ではあったが、変態は変態だ。

したがって、小説を読んだあと、圭介と佳代のパートばかりが印象に残ってしまって、池田のパート=物語のメインストーリーを思い出せないほど。
だから、この小説は異常なのだ。

池田記者パートのネタバレ

実際には、池田記者のパートは十分面白く、忘れるはずのない強烈なオチがある。
取材の過程で、介護施設の事件の被害者が、七三一部隊の生き残りであったことがわかり、政治家との関係も含め、一大スキャンダルになる可能性を池田記者が追う。どこからか圧力がかかるが、それでも取材を続ける記者の前に「意外な真相」が現れる。


池田記者のパートは、戦時中にハルビンの湖のほとりで起きた少年たちによる性暴力事件と、同じく諏訪湖のほとりで起きた介護施設の事件の真相が重ねられるように描写される。
そして不穏な空気の中で最後に、この事件が七三一部隊とは一切関係がなく、女子中学生を首謀者とする中学生グループによるものであることが示唆される。
しかも、彼女たちが影響を受けたのは、津久井やまゆり園の事件。


メインパートの物語は、ミステリとしても面白いし、社会派的に考えさせる要素もあり、その見せ方も上手い。
それでも、佳代と圭介のパートが強烈過ぎて、あまり記憶に残らないのが怖いところで、「なんなんだよ!」と本当に怒りに近いような不思議さを感じた。
この「変態パート」および圭介の描き方について、諏訪敦さん(画家)による文庫巻末解説が素晴らしいので長く引用する。

それにしても。著者が主人公である刑事・濱中圭介を、ここまで擁護しにくい人物 として描いたのはなにゆえだったのか。圭介は苛烈な尋問を被疑者に施す抑圧者である一方で、妻の妊娠を見守り、誕生したばかりの娘を愛しむ善き夫としての貌があったことも忘れてはならない。そして同時に、圭介はもう一人の被疑者であった豊田佳代をインモラルな関係に引き込み、共依存の関係を深めていく。
近年、社会的な妥当性の議論が沸騰し、正義が暴走する様をしばしば目にするが、 この世相にあって圭介と佳代がもしも晒されたなら、遠慮なく叩いても良い対象として世間は認定し、執拗に謝罪を求めるだろう。しかし、犯罪とまで言えない咎で他人を吊るし上げるのも結構だが、インモラルな行為に埋没できる者たちだからこそ手にできる生の充実だってあるはずだ。二人から放たれる生命のつややかさはどうだ。そして佳代の幻視を描写する、著者の生き生きとした書きっぷりは。性愛に没頭する姿というものは、本来的に他者から見れば浅ましく滑稽なものだ。しかし自滅的で愚かであるからこそ底光りする生だって在り得るし、唾棄されようと少なくともそこには世間への忖度や、偽善の薄汚さはない。

確かに、言われてみれば、善悪から離れた地平にある「二人から放たれる生命のつややかさ」に惹かれるのであって、この本の中で繰り返される「美しい湖」がそこに表現されているのかもしれない。
と、解説に助けられて何となく肚落ちしたが、これをどう映像化するのだろうか。


thewomeninthelakes.jp

改めて映画サイトを見てみると、圭介と佳代を演じるのは、福士蒼汰松本まりか


え!福士蒼汰なのか…
完全に伊藤英明を思い浮かべて読んでいたので驚き。
しかも池田役は女性(原作では男性)なのか!
時間の制約のある映画では、どういうバランスで物語を描くのかとても興味がある。映画comの点数などを見ると、どうも賛否両論の評価ということのようだが、配信を待ちたい。


ということで、改めて振り返っても、異常さが目立つ小説で、読後から時間が経つほど、ものすごく面白かったのでは?という気持ちが強くなっていきます。
吉田修一作品は本当に久しぶりでしたが、やっぱりもっと読んでみたいです。