Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

レジ応援お願いします!~町田康『ギケイキ2』


相も変わらずの『鎌倉殿の13人』関連作品。
まだドラマには出ていない源義経が主人公で、南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』を元に町田康がいわば超訳した小説。
だいぶ前に一巻を読み今回は2巻目。
pocari.hatenablog.com

ダウナー義経

2巻の印象は実は1巻とは大きく異なる。
1巻は、「早業」に代表される超人的な能力を持った義経が向かうところ敵なしで、仲間を増やしながら快進撃し、そしてついに兄・頼朝に会って平家打倒へ!という、いわば「義経ライジング」。
ところが2巻では、その「ライジング」はすぐに消え失せ、全編に渡って「ダウナー」な空気に覆われていて、まさに、「奈落への飛翔」の副題通りの内容だ。


何故こうなってしまうのか。
その大きな理由はひとえに頼朝の存在にあるのだが、物語上の断絶による影響も大きい。


というのも、2巻冒頭で頼朝との出会いが描かれたあと、突然平家は滅亡してしまっているのだ。つまり、一の谷の合戦も壇ノ浦も描かれない。
文庫巻末の高野秀行の解説を読むと、一番の盛り上がりを描かないのは、そもそも元の『義経記』がそういう話だからとのこと。つまり『義経記』は、『平家物語』などで源平合戦が一般常識になってから登場したので、そこで描かれなかった話がメインになっており『裏・平家物語』『源平合戦スピンオフ』という意味合いが強いらしい。


さて、成り立ちは別として、義経活躍のメインのシーンは描かれないことで、「ダウナー義経」の幕が開く。
武勲を挙げた義経は、鎌倉に凱旋報告に来たが鎌倉の目の前(腰越)で足止めを食う。このシーンから再開となる。
義経は、頼朝が自分自身を疎ましく思っていることは既に分かっている。しかも、1巻からそうではあるのだが、物語は21世紀の現代から義経自身が 800年以上前を振り返って語る、という形式になっている。結末を分かっている義経が、梶原景時の悪口を(頻繁に)入れたりしながら、くどくどと語る、この形で話が明るく成りようがない。


腰越から京都に戻った義経を討つべく、頼朝が土佐坊正尊(とさのぼうしょうぞん)を差し向ける話が中盤の山場なのだが、頼朝の意図が分かっている義経は飲んだくれて、もう完全にダメな人になっている。
そんな中でもスーパールーキー喜三太の孤軍奮闘の大活躍、そして遅れてきた武蔵坊弁慶の協力による勝利、その後の「都落ち」行でも、常陸海尊片岡八郎経春など、チーム義経の強さを味わうことは出来る。おかげで義経もやる気を出す。
高野秀行も触れているが、この巻の名シーンの一つは、元々ぺーぺーだった喜三太が弁慶を「店長」と呼び、援軍を呼ぶよう命じられて「現在応戦中ですが大変、混雑しております。レジ応援、お願いします」と叫ぶ場面だ。)
しかし、一行が乗った船は嵐に見舞われ大変な状態となり、静御前とは別れることになる。2巻ラストは静御前が吉野の山寺で捕まるところまで。やっぱり辛い。このあと彼女は北条時政経由で頼朝に会い、舞を舞うことになるのか…。

中世社会がわかる『ギケイキ』

文庫巻末解説で高野秀行は、清水克之・明治大学教授(日本中世史専攻)の言葉も挙げながら、『ギケイキ』には中世人の心性と中世社会の仕組みがひじょうに鋭く描かれていると主張する。
実際、この時代の制度について現代語で分かりやすく書かれている場面は多い。


例えば、義経が正尊を殺してしまい、頼朝との対立が決定的になってから頼朝討つべしの「宣旨(せんじ)」をもらいたかったという話。頼朝が持っていた「令旨(りょうじ)」との違いをこう説明する。

宣旨とか綸旨というのは天皇が出す。院宣というのは上皇(含む法皇)が出す。令旨というのは皇太子とか皇后とか親王が出す。
つまり、宣旨とか綸旨とか院宣に比べると一段落落ちというか、宣旨とか綸旨とか院宣がロイヤルストレートフラッシュだとしたら令旨はただのストレートとかフラッシュみたいな感じでカードとしてはかなり弱い。p257

この物語前半・正尊との話のキーとなる起請文(きしょうもん)の説明。

神に嘘を言っていないことを誓った文書を提出する、と言い出したのである。というと現代の読者は、「あ、なんだ、そんなことか」と思うに違いない。けれどもあの頃、起請文は実際に効力があった。具体的に言えば、起請して神仏に誓ったうえでこれを違えた場合、文中にある通り、というのは、これが嘘だったら滅ぼしてください、と書いてある通り、その人は確実に滅んだ。これが形骸化したのはあれから大分と時が経ってからの話だ。p100

起請文は、義経が頼朝に向けて書いている手前、他の人が書いた起請文であっても「実際の効力」があってもらわないと困る。「テキトー」なものではないのだ、という話は、このあと何度も出てくる。
さらには、義経一行が乗った船は平家の死霊から成る黒雲にも見舞われるし、中世社会が信仰や怨霊が支配する世の中であるということを改めて感じる一冊だった。


なお、義経を討ちに京都に行った土佐坊正尊が見つかって言い訳に使った(義経のところが目的地ではなく)「熊野詣に向かう途中だった」。
北条政子が卿二位のところに密談をしに行く際にも同じ言い訳をしていたことを思い出した。鎌倉から熊野までなんて大変な道のりだが、同時代の話で出てきているのは当時の流行なのか、このあとずっとそうなのか。熊野詣にも興味が出てきた。
それとは別だと思うが、先日ランニングで大山街道を走ったときに大山詣りも気になる。
色々と興味は広がるが、巻末解説で高野秀行が触れている、『ギケイキ』も扱ったこの本は読んでみたい。