Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

北方領土問題からウナギまで〜鈴木智彦『サカナとヤクザ』

何とか読み終えたが、内容が多岐に渡る。第一印象として、それほど字が詰まっていないので、すぐに読み終える軽い本だろうと思った自分を恥じたい。取材期間丸5年というのもよく分かる。


以下、1章ごとに備忘録替わりに簡単なメモを。(今後読み返す自分自身に向けて)

第1章 岩手・宮城 三陸アワビ密漁団VS海保の頂上作戦

「黒いあまちゃんがいるかも」という冗談から始まった取材は、いわば導入部。
三陸の密漁の現場を追ううちに、密漁が「市場ぐるみ」で行われていることが分かり、2章に続く。

第2章 東京 築地市場の潜入労働4ヶ月

作者が潜入したのは「荷受け」と呼ばれる卸会社。
中沢新一『アースダイバー東京の聖地』では築地市場で働く仲卸に焦点が当たったが、「荷受け」(卸会社)はその一つ前工程で、 密漁のアワビを買い受ける市場の窓口ということになる。
密漁云々よりも、前職も年齢も関係なく、色んな出自の労働者を受け入れる大らかさを持っているのが築地市場である(あった)という話が印象に残る。

第3章 北海道 “黒いダイヤ”ナマコ密漁バブル

黒いダイヤモンドと呼ばれるナマコは、特に中国では高級食材として珍重されるという。

  • 黒ナマコの密漁はチームで行い、それを暴力団が仕切っていること
  • 浅い海ではナマコは枯渇してしまったので、死亡事故が多発するような深い場所での密漁が増えていること
  • 発電所付近には漁業権が設定されていないため密漁しても違法にはならないこと

など、直接の取材による生々しい証言が多い。

第4章 千葉 暴力の港銚子の支配者、高寅

この章は、高橋寅松という実在のヤクザの評伝のような内容になっている。
かつての銚子は暴力団と漁業が強く結びついていたという話だが、今現在の人物への取材が出てこないので、他の章に比べて異質で読みにくい。

第5章 再び北海道 東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史

この章がとても面白かった。
根室という街の特殊性を知ることができる内容で、北方領土の問題を学ぶ上で、漁業との関わりは避けて通れない道だということがよく分かった。

  • 昭和20年代:船で1,2分もすれば超えてしまうソ連領海(少し前までは日本領海)での漁で拿捕される漁船が続出。
  • 昭和50年ころまで:ソ連が秘密裏に許可した「レポ船(赤い御朱印船)」がソ連領海内を自由に航海。レポ船は、ソ連に機密情報を渡していた。
  • 昭和50年以降:レポ船は消え、ソ連との中間ラインを猛スピードで越境し、巡視船を強引に振り切る「特攻船」が誕生し、大規模密漁を繰り返すようになる。勿論ヤクザがそれを仕切った。
  • 平成以降:ソ連の体制変化により、日ソが共同して取り組み特攻船は壊滅。その後、ロシアからのカニ密輸(ロシア人漁師による密漁)⇒日本領海での第三国による密漁など抜け穴を探しながら密漁は続いている。

この章では過去のルポルタージュなど他の本からの引用も多い。北方領土の話はしっかり勉強しておきたい。(沢木耕太郎は『人の砂漠』野中の一編「ロシアを望む岬」で北方領土問題について書いている)

北方領土・竹島・尖閣、これが解決策 (朝日新書)

北方領土・竹島・尖閣、これが解決策 (朝日新書)

人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

第6章 九州・台湾・香港 追跡!ウナギ国際密輸シンジケート

ウナギについては一通り勉強してきたが、ウナギが減っているということに科学的根拠がないとする説の紹介など、これまでにあまり触れてこなかった話もあった。
が、それ以上に養鰻業者の話が目白押しで興味深い。

  • 露地池で育てる古いやり方は減り、加温ハウス養鰻がスタンダード化し、大規模業者によるユニクロ・ウナギも増えている
  • 大手の養鰻業者が稚魚のシラスウナギ仕入れ先は闇業者が跋扈している
  • 県だけの取り組みで言えば、流通の透明化を最も進めたのは宮崎県。県の協議会が「公定価格」を決めるが、それをもとに「裏価格」が決まるのが現実。
  • 正規・密漁を合わせても養鰻業者の求めるシラスの量には足りないくらいで、密漁シラスを買う業者は必ずいる。
  • 輸入されているニホンウナギのシラスは台湾、香港を経由して日本に来る(合法のものもある)
  • ニホンウナギよりも絶滅の可能性が高いとされるヨーロッパウナギも中国の業者が加工品にして日本に売っている

ウナギについては、改めて勉強したい。昔、Wedgeでウナギ特集をやっていたが、そのときの特集記事を鈴木智彦さんが担当していたらしく、そのときの記事がまとめられているので、こちらも読んでみたい。(この本と重ならない内容もあるようだ)

ウナギ密漁 業界に根を張る「闇の世界」とは Wedgeセレクション

ウナギ密漁 業界に根を張る「闇の世界」とは Wedgeセレクション

まとめ

「おわりに」には東京海洋大学の勝川俊雄准教授の言葉も出てくるが、かなり広い範囲の識者の意見を聞き、文献を参考にしながら書かれている本のようで、本当に読み応えがあった。北方領土をはじめ、いろいろな本を読むきっかけにしたい。日本の漁業については、やっぱりこれか。

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

なお、BL漫画『コオリオニ』や桐野夏生『柔らかな頬』で描かれた北海道警の悪い面が自分の中で強化された読書となった。関連してこのあたりも見てみたい。

恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白 (講談社文庫)

恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白 (講談社文庫)

参考(過去日記)

巧妙な構成から伝わる重さ〜貫井徳郎『愚行録』

愚行録 (創元推理文庫)

愚行録 (創元推理文庫)

ここ最近、買ったり図書館で借りたりした本を、中2の長男(読むのが速い)に先に読まれるパターンが増えた。その結果、同時に数冊持ち帰った本の中から、長男セレクションで読む優先度を決めることになり、これも激推しされて読んだ本。
結論から言うと、かなり自分の好みに合う内容だった。

ええ、はい。あの事件のことでしょ?―幸せを絵に描いたような家族に、突如として訪れた悲劇。深夜、家に忍び込んだ何者かによって、一家四人が惨殺された。隣人、友人らが語る数多のエピソードを通して浮かび上がる、「事件」と「被害者」。理想の家族に見えた彼らは、一体なぜ殺されたのか。確かな筆致と構成で描かれた傑作。『慟哭』『プリズム』に続く、貫井徳郎第三の衝撃。 (裏表紙あらすじ)

この本に関しては、ネタバレはかなり大きな要素となり、それを伏せたままでは、ストーリーの素晴らしさを表すことが出来ない。
しかし、文庫解説の大矢博子さんは、ネタバレ部分を上手く避けながら、小説の特徴を上手く説明している。

ひとつの事件についてのインタビューや会話、あるいはモノローグだけで構成される小説というのは決して珍しい趣向ではない。(略)物語の中核にある事件もしくはモチーフをより掘り下げるために、このような形式は実に効果的なのである。
が、しかし。
本書の場合は、少し違う。いや、かなり違う。
(略)ここで語られているのは被害者である田向夫妻のことだ。それこそがメインであり、そしてそれだけのはずだ。なのに田向夫妻よりも、それを証言しているインタビュイーたちの印象が強く残るのはなぜだろう。
それこそが『愚行録』の真のテーマである。

つまり、他人を評価し他人を語ることは、自分を評価し、自分を語ることに他ならない。インタビューの中から明らかになるのは、田向夫妻に関する事実だけでなく、むしろ、インタビュイーたちの考え方や人間性なのだ。
このことから、この作品に限らず、書評自体が、自分を晒してしまうという危険性を孕んでいることを挙げ、特にそれをテーマとしている『愚行録』は解説を書きにくい本だと説明している。
また、この解説には「愚かなのは誰?」とタイトルがつけられ、『愚行録』という書名の意味についてまとめられている、小説の序盤では、被害者夫婦の若き日の行動が「愚行」なのだろうと思わせておいて、「自分が見透かされていることに気づかず滔々と他者を評価してみせる証言者たち」こそが「愚か」なのだとし、言葉の選択についてこう指摘している。

愚か、という言葉に注意したい。善悪ではなく、是非でもなく、ただ愚かなのだ。悪なら断罪できる。非なら糾弾できる。しかし愚かであるということは……ただただ哀しい、と感じるのは私だけだろうか。

この指摘は、まさにその通りで、作品の重要なテーマになっている。


というように、解説では、作品のもう一つのテーマであり、構成上の重要な因子(つまりネタバレ要素)である「各章ごとに挿入されるある女性のモノローグ」については、その内容に触れずに、書名の意味と作品のテーマについて丁寧に説明されている。
こういったネタバレ要素が大きい小説の解説を書くのは難しいだろうなと改めて思いながら、さすがプロの書評家は違うな、と思わされた文章だった。


さて、以降は、解説で触れられなかった部分について書くので、完全にネタバレしている。


この物語の犯人は誰なのか、つまり夫婦と子ども二人を殺害した人物は誰なのかといえば、妻の大学時代の友人(田中光子)で、動機は、自らと比べて段違いに幸せな生活をしている田向夫人を怨んでの犯行、ということになる。
こう書いてしまうと、シンプルで、「陳腐」にすら思えてくる。
日々のニュースに触れる中で、こういった格差を怨んでの犯行というのは、ある程度の数があるように思う。例えば、年末に竹下通りで車を暴走させ8人に重軽傷を負わせた犯人についても、竹下通りで幸せに過ごしている人たちに対する「リア充爆発しろ」的感性が爆発してしまったのだろう、と推測してしまう。
しかし、もはやそこには「人間」は存在しない。視聴者が事件について「納得」するために、犯罪と、犯行の動機が、方程式的に結ばれているだけだ。


『愚行録』では、その「犯人」「犯行の動機」について「人間」を中心に描く。そして、人間を丹念に描くと、かえって論理的ではなくなる。

ふふふ、それなのにどうして殺したのか、って?ただ殺すだけじゃなく、なんで家族まで皆殺しにしたのかって?うん、なんかねぇ、切れちゃったのよ。あたしの中で張り詰めていたものが、ぷつんと切れちゃったの。だってあたし、もっと幸せな人生を歩みたかったんだよ。そのためにいつも一所懸命努力して、後悔しないようにその都度ベストを尽くして、それなのに何もかもうまくいかなくてさ、ずっと悲しかったんだ。あたしは悪くないでしょ。p289


こういった全く論理的でないモノローグが説得力を持ってくるのは、ここに至るまで、この女性(田中光子)の語りをずっと聴いてきたからだ。彼女が、どれほど辛い家庭で、でも健気に育ってきたのか、を知っているからだ。
しかし、それだけではない。
少なくとも本の前半では、この女性が誰なのかは分からないし、犯人が男性か女性かも分からない。自分は、最初、この不幸な生い立ちの女性(および、その兄)が、夫婦の2人の子どもなのかと思いながら読み、次に、夏原さん(田向妻)自身なのかと思いながら読んだ。
このように、「犯人=惨めな境遇」というレッテルを貼らずに読み進めることで、田向夫妻のようなエリート家族が、恵まれない環境に生まれ育っているかもしれない、という事実とは異なる部分まで想像を巡らせた。
これは、正体を伏せたままで話を続けることで、先入観抜きに、よりフラットに状況を捉えさせることができる、そうした効果を狙った手法であるように思う。例えば、ジョン・グリシャム原作の法廷映画『評決のとき』で、マシュー・マコノヒ―の演説シーン、また、スガシカオの名曲「はじめての気持ち」でも、同様の手法が取られている。
⇒参考:スガシカオの方程式(2)〜関係性〜(2006年10月の日記)


それにしても、田中光子の独白を読んでいると、まさに暗澹たる気持ちになる。
特に、何度も繰り返される「男を捉まえる」という言葉が耳に残る。ここから、彼女にとって男性は「捉まえる」対象で、お金があるかないかだけにしか興味がないことがビシビシと伝わってきて辛い。彼女がこれまで父親や、母親が連れてきた男性からされてきた仕打ちを考えれば当然の感覚なのかもしれないが。
だからこそ、「人はみな愚か」と書く、この小説の最後の言葉が重さを持って心に響いてくる。自分にとっては、久しぶりに胸を衝く重い小説だった。

人生って、どうしてこんなにうまくいかないんだろうね。人間はバカだから、男も女もみんな馬鹿だから、愚かなことばっかりして生きていくものなのかな。あたしも愚かだったってこと?精一杯生きてきたけど、それも全部愚かなことなのかな。ねえお兄ちゃん、どう思う?答えてよ。ねえ、お兄ちゃん。

補足

この構成なしには、この小説はあり得ない。だからこそ、映像化は難しいのでは?と思っていたが、映画版は、あらすじを読むと、小説版とその構成が大きく異なるようだ。

エリートサラリーマンの夫、美人で完璧な妻、そして可愛い一人娘の田向(たこう)一家。
絵に描いたように幸せな家族を襲った一家惨殺事件は迷宮入りしたまま一年が過ぎた。
週刊誌の記者である田中は、改めて事件の真相に迫ろうと取材を開始する。
殺害された夫・田向浩樹の会社同僚の渡辺正人。 妻・友希恵の大学同期であった宮村淳子。 その淳子の恋人であった尾形孝之。
そして、大学時代の浩樹と付き合っていた稲村恵美。
ところが、関係者たちの証言から浮かび上がってきたのは、理想的と思われた夫婦の見た目からはかけ離れた実像、
そして、証言者たち自らの思いもよらない姿であった。
その一方で、田中も問題を抱えている。妹の光子が育児放棄の疑いで逮捕されていたのだ――

愚行録 [DVD]

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確かに、光子が育児放棄で逮捕されているのは、小説版でも冒頭1頁目に新聞記事の形で明らかになっているので、モノローグではなく、最初から本人が登場するという改変はあり得るだろう(というか映画にする以上、それ以外の方法は難しい)。しかし、まさか(小説では登場しない)「お兄ちゃん」が主人公的扱いで、週刊誌の記者として事件を追う、とは思わなかった。だが、これはかなり巧い改変のように思う。映画も是非見てみたい。

『おっさんずラブ』映画版に期待すること

おっさんずラブ DVD-BOX

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普段はドラマを全く見ない自分は、本放送は気にはなっていたものの見逃してしまっていた。しかし、Amazonプライム見放題に入ったのを機に観てみると、第1話から一気に引き込まれ、全7回を繰り返し見るほど好きな作品となった。
そこで、この大好きなドラマの何処に自分は惹かれ、映画版に何を期待するかをまとめてみた。

このドラマのキモ

このドラマの面白さのキモがどこにあるかと聞かれたとき、「おっさん同士のピュアな恋愛」を描いていることをまずは誰もが挙げるだろう。
しかし、自分がこのドラマを好きな理由は、ストーリーよりもひとえに黒澤部長(吉田鋼太郎)の表情の変化(声の表情を含む)にある。
黒澤部長が苦しみ悶え、そしてとびきりキュートに振る舞う。そこに引き込まれ、観ている側としても全力で応援したくなってしまう。ストーリーは、その顔芸のお膳立てのためにあるのだとさえ思う。
主人公・春田も、表情の変化が豊かで、おどけたり怒ったり、迷ったり自分勝手に振る舞ったり、いろいろな側面を見せるが、台詞以外に、頻繁にモノローグが挟まりその内面を説明する。しかし、黒澤部長は、表情と声色だけで、心の浮き沈みが強く伝わってくる。(厳密に言うと、黒澤部長のときだけは、街明かりがハートマークになったりする特殊効果がある気はする)
ここは明らかに人間が演じる映像作品の強みで、小説は勿論、漫画でも難しいと思う。
例えば、春田に別れを切り出されるシーン、妻の蝶子にばれたシーン、そして、フラッシュモブからのプロポーズのシーン、すべてのシーンの黒澤部長が愛おしくなる、『おっさんずラブ』はそんなドラマだったと思う。

登場人物全てが好きになれる作品

2018年を代表する映画『カメラを止めるな!』が良かったのは、よく出来たストーリーと構成にあることは間違いない。しかし、何度も見たくなる理由は、登場人物全員を好きになれる映画だからだと思う。『おっさんずラブ』にも同じことが言える。
序盤からずっと好きだった登場人物は、最初に挙げたように黒澤部長だが、ちず(内田理央)は、中盤以降、大好きになり、とにかく肩入れして観て、告白シーンには泣いた。
ただし、ちずに対する想いはやや複雑だ。物語としては、ちずの気持ちは片思いで終わるべきだからだ。幼馴染の男女である春田とちずが付き合うのは流れとして自然だが、観ている側も含めて傷つく人が多過ぎる。でも、ちずの想いが成就して欲しい。
そう思わせるのは、内田理央という女優の上手さなのかもしれない。ラストで、とりあえずの幸せを掴んだように見えるちず。好きなキャラクターだけに、あの終わらせ方は少しぞんざいな感じもしてしまったのだが…。


ちずだけではない。 最初は、「その他の登場人物」だった 武川主任に対しても、鉄平兄に対してもの、回が進むにつれて好意を抱くようになる。中でも面倒くさい後輩だったマロと蝶子(黒澤部長の妻)は、最終話では大好きなキャラクターになった。

春田フラフラ問題

ただ、観たほとんどの人が感じると思うが、登場人物の中で唯一、春田に対しての評価は、終盤に大きく下がることになる。
「分からなかった自分の気持ちに気づいていく」というタイプの話は自分は好きだ。(特にBL)しかし、春田については度が過ぎる。相手が男でも女でも、結婚式当日に、結婚を約束した相手以外への想いに気が付く、というのは酷いとしか言いようがない。
春田が牧と結ばれるラストは、物語的にはもっとも納得のいく着地点だが、もっと黒澤部長やちずのことを傷つけずにそこに辿りつくラストは無かったのかと思ってしまう。


なお、ここまで書かなかったが、牧(林遣都)は、その気持ちが一貫していて、むしろ、こちらを主人公として観たいくらいだ。自分の中では「応援したい度」は、黒澤部長とちずの次になってしまうが、だからこそ、ドラマのラストはとても良かった。

映画版に期待したい展開

公式HPには映画について次のように書かれている。

キャストはドラマ版と同じメンバーが全員続投!田中圭吉田鋼太郎林遣都の3人やお馴染みのレギュラー陣に加え、超豪華ゲスト俳優の出演も予定!?ドラマ版のその後のストーリーを描きます。
HappyHappyWeddingを迎えたはずの男たちに恋の嵐がまたもや吹き荒れる!?そこに新たなおっさんも参戦なのか・・・・!?“平成最後の純愛ドラマ”が、スクリーンでも熱い恋の火花を散らします!

さて、普通に考えれば本編と同様に春田を中心とした恋模様が描かれることになるが、ここまで書いてきたドラマの面白いところと問題点、そして最終回からすると、春田がまたフラフラして牧と別れてしまうような展開は、さらに春田に対する視聴者の嫌悪感が増してしまうだろう。
それは作中の登場人物にとっても同じで、春田が同じことを繰り返してしまうと、「また、春田か…」と呆れてしまい、その恋の行方を真面目に案じてくれる人は出てこないだろう。

と考えると、映画版で描かれるのは、黒澤部長の恋愛が中心になる。
黒澤部長が新キャラクターに対して恋をする。それであれば、蝶子や武川など、サブキャラクターも部長の恋愛を応援するし、観ている側も応援できる。
そこに、春田−牧のカップルのイチャイチャ&いざこざを絡めて描かれる映画であれば、もう誰も傷つかずに安心して物語を楽しく観ていられる。
つまり、本編の面白さとは完全に別の楽しさを持った作品を、映画版は志向すべきと思う。
などと書きつつ、映画版には大いに期待しています。
是非笑って楽しく見られる、そして登場人物みんあが幸せになれる映画を!


ウナギ関連本の感想 目次

10年後も20年後もウナギが食べられる世の中だといいなあ、と思っていますが、本を読めば読むほど不安は募ります。

三秋縋『三日間の幸福』×キリンジ「この部屋に住む人へ」

寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

ときどきストロングゼロが飲みたくなる。
読書にも、もう少し刺激が欲しいなあ、と思っていたときに出会ったのがネット発というこの小説。
少し前に、ネット小説隆盛の中、それでも編集者が小説家を発掘し育てていく面白さが描かれた『書店ガール』の伸光パートを読んだあとに、こういう本を選択するのはどうかと思うが、ストロングゼロを飲みたくなるときは体に悪そうだと思っていたとしてもそれを選んでしまう。

どうやら俺の人生には、今後何一つ良いことがないらしい。寿命の“査定価格”が一年につき一万円ぽっちだったのは、そのせいだ。未来を悲観して寿命の大半を売り払った俺は、僅かな余生で幸せを掴もうと躍起になるが…。


今読み直すと、裏表紙のあらすじは、本編の内容をかなり書いてしまっているように感じたので、後半部は削って引用したが、こんな話。マンガ化の際には『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』となっているが、ラストに1ミリも触れないという意味では、このマンガ版の方が良いタイトルかもしれない。(総じていえば『三日間の幸福』の方が作者の書きたかった核心をついていて素晴らしいのだが)
物語の導入部で、主人公は実際に寿命を買い取ってもらう。生涯年収は3億円と聞いたことがあるから…と皮算用していたのにもかかわらず、「1年につき1万円」というあまりにも低い査定金額が出てくるという辛過ぎる話だ。


さて、今回は、あまりネタバレせずに書きたいのだが、この本は、以前読んでややイマイチに感じた『君の膵臓を食べたい』と共通点が多い。

  • 性格やコミュニケーション能力に難のある男性が主人公
  • 少ない登場人物の中で、主人公の相手として、お互いをかけがえのないと感じるような女性が登場する
  • どちらかの命が残り僅かであり、お互いがそれを知っている
  • ラストに向けて主人公は改心し、大切なことに気が付く


しかし、以下の点で2作品は全く異なり、自分は圧倒的に『三日間の幸福』を推したい。
『君の膵臓が食べたい』がイマイチだったのは何故か?ということについて「実在感」だなんだと理屈をつけたが、やはり、キミスイの主人公には「共感できない」。これに尽きるのだ。
人には誰にでも都合のいい思い込みがあるが、2作の主人公のようにコミュニケーションが少ないほどそれは顕著だと思う。(自分がそうだから特にそう思う)そんな自身の思い込みについて、『三日間の幸福』の主人公は、何人かから徹底的に批判されてボロボロになるのに対して、『キミスイ』では主人公が傷つかない。それが自分は許せない。
つまり、主人公がどん底に落ちないのに(しかも大切な人は死んでしまうのに)明るい未来が開けてしまう話になっているというのが、キミスイの主人公に共感できない理由だ。
『三日間の幸福』の作者は、その点(絶望の必要性)に意識的なようで、あとがきで以下のように書いている。

ですが、冒頭で述べた通り、僕はこうした馬鹿を、死ぬまでには治るものと考えているのです。より正確にいえば、「死の直前になって、初めて治るだろう」というのが僕の考えです。幸福な人はそうなる前に治るきっかけを得られるかもしれませんが、たとえ不運な人でも、自身の死が避けられないものであると実感的に悟り、「この世界で生き続けなければならない」というしがらみから解放されたそのとき−ようやく、馬鹿から解放されるのではないでしょうか。(略)
ただ、僕が思うに、そうした「馬鹿は治ったが、もう手遅れの彼」の目を通して見る世界は、たぶん、すべてがどうでもよくなってしまうくらいに、美しいのです。「俺は、こんなにも素晴らしい世界に住んでいたのに」、「今の俺には、すべてを受け入れて生きることができるのに」といった後悔や嘆きが深ければ深いほど、世界はかえって、残酷なくらいに美しくなるのではないでしょうか。
そういう美しさについて書きたいと、僕は常々考えています。この『三日間の幸福』にせよ、作品を通して命の価値だとか愛の力だとかについて語ろうという気は、実をいうと更々ないのです。


この通りの小説だと思う。
SFと捉えると設定に緻密さが欠けるのかもしれないが、多くの人に支持されている理由が分かる、とても清々しい気持ちになれる小説だった。

キリンジ『7』について

7-seven-

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ちょうど、キリンジ / KIRINJI メジャーデビュー20周年記念ライブ「KIRINJI 20th Anniversary LIVE19982018」の直前だったこともあり、キリンジの中であまり聴き込んでいなかったアルバム『7』を聴きながら、『三日間の幸福』を読んでいた。
キリンジ(KIRINJI)の音楽を聴くとき、自分はそれほど歌詞を気にしない。が、小説の内容とシンクロすると、途端に聴こえてくるもので、それが面白いのだと思う。以前、重松清カシオペアの丘で』を読みながらキリンジ「小さなおとなたち」を聴いたときのマジックを期待して、今回も試してみた。
すると、アルバム全体から滲み出る「もの悲しい中での幸せ」みたいなものが浮かび上がってくる。

  • 独り言呟いたなら 詠み人知らずの歌になる 街を覆う 明日の朝には消えるが(家路)
  • 人生って不思議さ すべてが手遅れのようでいて 始まったばかり そんな気もするね(タンデム・ラナウェイ)
  • 君にもしもの何かがあったら 堪えられないよ 電話の繋がるどこかにいるよ(もしもの時は)

そうそう。キリンジってこんな感じ。
キリンジが小説に合うのは、背景の書き込みがしっかりしているからだと思う。
このあたりは、映画『咲-saki-』のときにも書いたことだが、自分は、登場人物と舞台設定の組合せで物語を受容するようだ。その舞台設定=背景の部分が、キリンジは抜群に上手いから登場人物の心情がより引き立つ歌詞になっていると思う。
絵を描くときに、人物の余白を埋めるように描かれた背景なら要らない。よく批判されるJPOPの歌詞の悪い見本では、恋の背景として「夏の海」や「花火」が「枕詞」的に描かれる。それを巧妙に避けながら、主人公の住む街や生活を描くというのは、高樹、泰行に共通に見られるキリンジの歌詞の特徴だ。
今回の20周年ライブで一番感動した「Drifter」の歌詞の何がすごいって「冷蔵庫」だと思う。あそこまで歌詞で泣ける冷蔵庫は無い。


さて、話を『7』に戻すが、このアルバムで一番読み応えのある歌詞は「この部屋に住む人へ」だろう。
まず、3番で主人公が変わるという構成。宇多田ヒカル『俺の彼女』も似た構成だが、珍しいし、効果的だ。
何より、「終わり」と「始まり」を「手紙」が繋ぐという歌詞のモチーフが面白い。

旅立ちの時 終わりの季節 カーテンを外して
窓を拭く眺めが好きだった でも忘れるだろう

旅立ちの時 終わりの季節 僕が行った後に
どんな人この部屋に住むだろう 
手紙を置いていきたいけど
気味が悪いだけさ


基本的な解釈は引越しについて歌った歌だろう。
しかし、『三日間の幸福』を読みながら聴くこの歌では、そうしても「僕が逝った後に」と聴こえてしまうし、「置いていく手紙」は、「遺書」のようにも感じられる。
ただ、『三日間の幸福』で描かれる死はとても明るく迎えられるものだけに、「この部屋に住む人へ」で歌われる「旅立ちの時 終わりの季節」と同じ程度に、軽く、前向きな内容の「遺書」だ。
考えてみれば、人の死というのは、広い視点で見れば、引越しで新しい空き部屋が出るという程度の軽いものなのかもしれない。そうして、他の誰かの「旅立ちの時 始まりの季節」が上手く行くように、時にはメッセージを受け渡していくものなのかもしれない。


なお、この小説は、ダメダメになってしまった20歳の主人公が、10年前小学生だった頃まで振り返って「あの時ちゃんとしていれば…」という後悔を繰り返すような内容とも取れ、中学2年生のよう太には辛い鬱小説と感じたようだ。しかし、反面教師的に作用したようなので、ことあるごとに、この小説をダシにして、今頑張っておかないと『三日間の幸福』みたいになるよ、というような話をしている。(笑)
同じ意味で、自分にとっての鬱小説は米澤穂信ボトルネック』なので、是非読んで比べてほしい、と薦めておきました。(笑)

参考日記

 ⇒東日本の震災直前の日記ですが、いまだに「小さなおとなたち」を聞くと重松清のこの小説を思い出します。

 ⇒ここから始まった『キミスイ』研究(笑)

 ⇒続『キミスイ』がイマイチだった理由

 ⇒さらに続『キミスイ』がイマイチだった理由(奇しくもキミスイ映画版でヒロインを演じた浜辺美波繋がりの映画評)

 ⇒改めて感想を読むと、よう太に薦めたのは間違いだった気がしてくる…(笑)

湯たんぽと疑似カップル〜サンキュータツオ『ヘンな論文』

ヘンな論文 (角川文庫)

ヘンな論文 (角川文庫)

サンキュータツオさんは、自分にとっては思い入れの強い『俺たちのBL論』(文庫化に伴い『ボクたちのBL論』に改題』)の人で、かつ、ポッドキャストを2番組も聴いているので、親しいお兄さん的な感じ。(でも年齢的にはタツオさんが年下)
実は、この本の元となるTBSラジオ荒川強啓デイ・キャッチ!』のコーナーも聴いていたので、こうした珍論文研究の取り組みについても知っていたのだが、ビブリオバトルで数回紹介されたのをきっかけに読んでみた。


感想を一言で言えば、「さすが!でも、突き抜けてはない」。
予想通りに面白い。でも自分の期待していたレベル(『俺たちのBL論』級の面白さ)が高過ぎたためか、それを遥かに超えた内容というわけではなかった。


この本では、13本の論文が、1本につき1章という形で紹介されているが、13本目の「湯たんぽ」研究の話が圧倒的に面白い。さらに、その後の「あとがき」までの流れが最高で、この熱量が本全体に行き渡っていれば、自分の中では、『俺たちのBL論』を越えていたと思う。
タイトルからは分からないこの本の最大の魅力は、あとがきに書かれている。

研究は長らく「人」に焦点を当ててこなかった。この本ではなるべく、論文の内容だけではなく、それを書いた人がいて、その人もみなさんとおなじ人間なんだ、ということをリアルに感じ取ってもらいたいということを意識して書いた。
「あっちにヘンな人がいる」という笑いもいいのだが、この本を読んで、「あっち側」の人の気持ちを理解し、「あっち側」の視点に立って、いままでいた「こっち側」の風景を見たときの面白さを、少しでも感じ取ってくれた人がいたらこんなにうれしいことはない。


だからこそ、伊藤紀之先生の家を訪れて、湯たんぽコレクションを見せてもらう(でも家族には全く理解されない笑)13本目が圧倒的に面白いのだと思う。そして、あとがきでは、今まで観察する側だったサンキュータツオも、半ば当事者的に、伊藤先生の論文の無断引用に怒ってみせる。こうした主客の逆転がとてもスリリングで、読んでいる側もハッとさせるのだ。


いや、実際、湯たんぽ研究は、研究内容もとても面白く、室町時代からあった湯たんぽが、江戸中期から後期について消えてしまった理由について、絵画や小説、俳句など様々なものから推理していくのだ。結論としては一度滅びかけた湯たんぽが西洋経由で「舶来品」として受け入れられ、再び隆盛を極めた、ということなのだが、まさか国外が重要なカギを握っているとは思わず、ミステリを読んでいるような気持ちになった。レンブラントフェルメールの絵にも湯たんぽ(フット・ウォーマー)が描かれているなんて初耳だ。


なお、もう一つ挙げるとしたら、やはり二本目“公園斜面に座る「カップルの観察」”が面白い。
横浜港大さん橋国際客船ターミナル」をフィールドにして、その斜面に座るカップルが、それぞれどの程度離れて座るか、距離によってどの程度密着度が変わるか、等を調査する内容。
その内容は、いかにも「ヘンな論文」的で、それだけだと「へぇー」なのだが、このフィールドワークが、調査対象にばれないよう、調査する側は男女ペアの疑似カップルで行われる、というところが、かなりドキドキする。しかも、実際に、調査にあたった3組の疑似カップルのうち、1組がつき合うことになったというからめでたい。


大学生は楽しそうだなー、大学生に戻って調査したいなーという無邪気な夢を見てしまったのでした…。
なお、娘(小5)に読ませたら、コンピュータにしりとりをさせる研究(11本目)が気に入ったみたい。確かにこれも面白かった。


『もっとヘンな論文』も読んでみよう。

もっとヘンな論文

もっとヘンな論文

築地の仲卸と編集のこれから〜碧野圭『書店ガール』(5)(6)

書店ガール 5 (PHP文芸文庫)

書店ガール 5 (PHP文芸文庫)

書店ガール 6  遅れて来た客 (PHP文芸文庫)

書店ガール 6 遅れて来た客 (PHP文芸文庫)

主役交代の4巻で、今後の「書店ガール」の看板は、宮崎彩加と高梨愛菜が背負っていくのかと思いきや、5、6巻の主役として宮崎彩加に次いで抜擢されたのはと、初の男性主人公となる元祖「書店ガール」の夫・編集者の小幡伸光。
ちょうど編集という仕事に興味を持ち始めた自分にとってドンピシャな題材だ。
最初に、何故今さら編集という仕事に興味を持ち始めたのかを少し説明したい。


まず、今年の夏に、築地の歴史に興味を持って中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』を読んだ。
この本は、古典的名著『アースダイバー』の続編として、築地と明治神宮という、まさに今変わろうとしている二つの場所*1を「聖地」として捉え、その歴史を掘り下げた本。なのだが、築地についての説明は、「仲卸業者」という存在の重要性を強く訴える内容となっていた。
この本を読むまでは、直接、商品の販売に関わる仕事をしていない自分が、あくまで消費者の立場から考えた場合、中の工程は出来るだけ無くした方いいのではないかと思っていた。実際、農産物には「産地直送」というような形もあり、市場で仲卸を挟む意味があまり理解できなかった。
しかし、築地市場には、400年もの歴史をもつ、海洋民族日本人の食文化に関わる暗黙の知恵が、ぎっしりと集積されており、それを担うのが仲卸業者だというのがこの本の主張だ。

アースダイバー 東京の聖地

アースダイバー 東京の聖地


この考え方を強化したのは、映画『築地ワンダーランド』。(Amazonプライムビデオのコンテンツに入っており、プライム会員であれば2018年11月現在では無料で見られる)
この映画はドキュメンタリーで、築地に関わる人へのインタビューで構成されているが、対象のほとんどが仲卸業者。
やはり築地の文化・歴史というのは仲卸が背負っているというわけだ。映画の中では、仲卸の人が実際に卸している店に顔を出し、自分が卸した魚がどのような料理として提供しているのかを客として確かめる。そのことで、自分がその店に卸すべき魚を考え、また、自信を持って薦められるようになる、その気持ちの部分までが伝わってくるようだった。


そして、また話が飛ぶが、杉田水脈新潮45騒動。
このときの小田嶋隆さんのコラムを読んで、仲卸業者とのアナロジーもあって、これまで何となくのイメージで捉えていた編集という仕事への、自分の理解レベルが上がったと感じた。小田嶋さんは、編集という仕事の意味を「魔法」という言葉を使って次のように表現する。

なんというのか、われら出版業界の人間が20世紀の雑誌の世界でかかわっていた「文章」は、単なる個人的なコンテンツではなくて、もう少し集団的な要素を含んでいたということだ。

で、そのそもそもが個人的な生産物である文章をブラッシュアップして行くための集団的な作法がすなわち「編集」と呼ばれているものだったのではなかろうかと私は考えている次第なのである。

してみると「編集」は、一種の無形文化財ということになると思うのだが、その「編集」という不定形な資産は、この先、文章というコンテンツが単に個人としての書き手の制作と販売に委ねられるようになった瞬間に、ものの見事に忘れ去られるようになることだろう。

書き手がいて、編集者がいて、校閲者がいて、そうやってできあがった文字要素にデザイナーやイラストレーターがかかわって、その都度ゲラを戻したり見直したりして完成にこぎつけていたページは、ブロガーがブログにあげているテキストとは別のものだ。

ここのところの呼吸は、雑誌制作にかかわった人間でなければ、なかなか理解できない。
で、その違いにこそ「編集」という雑誌の魔法がはたらいていたはずなのだ。
「編集」が消えていく世界に(日経ビジネス・小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明)


しかし、タイトルにあるように、その編集は今「消えていく」。

無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。
そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている。


こういった中で、実際に編集の人たちの仕事について、まさに『築地ワンダーランド』の中での仲卸業者の方々を見る視点で知りたいと思っていたのだった。


ということで、そろそろ『書店ガール』の感想に入る。
男性である伸光が主役だということは驚いたが、それ以外に「あれ?」と思ったことが2つあった。
5巻を読んで、最初に「?」と思ったのは、ラノベに対する、若干のマイナス面も含めた描写。自分があまりラノベを読まないように、碧野さんもそれほど読まないだろうという勝手な想像から、(当然取材をしているとは言っても)詳しくない分野を批判的に取り上げるのは怖いなあ…と思ってしまった。
例えば、今回の主人公・取手のエキナカ書店の店長となった25歳の宮崎彩加が、バイトの面接に来た、ずっと下を向いているフリーター男性に対する印象が書かれる。

「どんな本が好きなんですか?」
「漫画とかライトノベルとか……」
やっぱりね、と彩加は思う。読書よりゲームの方が好き、というタイプだ。それほど本も読んでないんじゃないだろうか。
(略)
正直この子はあまり気が進まない。中退したとはいえ、いい大学にいたのだから頭は悪くないだろう。だけど、接客には向いてるとは思えないし、そもそもあまりいっしょに仕事したいタイプではない。
p33


実際には、このフリーターが実際にアルバイトとして採用され、5、6巻で第三のメインキャラクターとなる超重要人物となるので、ここで否定的に描かれるのも納得なのだが、宮崎彩加の「ラノベ読み」に対する印象はあまりよくない。そもそも最初は彩加の書店ではこの段階ではラノベを置いていない。
碧野さんは、ラノベをどのように捉えているのだろうか?とまず思った。


しかし、よく考えると、この5、6巻の主戦場は、まさにそのラノベなのだ。5、6巻の主人公・小幡伸光が新しいライトノベルのレーベル「疾風文庫」の編集長として働いているのだから。
そして、読み進めると、その内容があまりにリアリティに満ちていて…というより詳し過ぎることに驚く。

  • こだわりが強過ぎるが有能な契約社員と、能力的には劣るがおおらかな正社員を(契約社員の待遇改善以外の方法で)どう扱うか、という問題
  • 他社のやり手編集者に対して独りごちる「俺たちは敵ではない。いつだって、作家に対しては共犯者だ。」という伸光の含蓄深過ぎる言葉(5巻p110)
  • 漫画と小説の編集過程の違い(漫画の方が作業過程が見えるので、途中段階でチェックする機会が多い)(5巻p149)
  • 実際の編集会議の内容とその反映のさせ方(5巻p151)
  • コミックノベライズにおけるコミック側編集者と小説側編集者のやり取り(物語の中では、最初、漫画家と小説家が顔を合わせず担当編集同士でノベライズの中身を議論して険悪なムードになる)6巻
  • アニメ化における編集者とアニメ制作側とのやり取り(ノベライズと同様だが、オリジナル要素の入れ方や、原作では未だ出てこない設定をアニメで先に出すことの是非など)6巻
  • 起きてはいけないミス(編集者が原稿に手を入れる不祥事5巻p143*2ラノベのイラスト指定の入れ替わり6巻p195


また、心情的な視点から「ここまでは書けない」と思った部分は、少しでも本を多く売りたいと、ラノベファンの間でも影響力のある書店員にゲラを読んで貰おうとして伸光らが叱られる場面。

「あのね、木下さんもいるんでこの際言っときますけど、最近版元の人たち、安易に書店員を頼りすぎていませんか?(略)こっちも忙しいですから」5巻p224

こういった書店員側のネガティブな感情は、書店側の取材で得たとしても、編集側の取材で得たとしても、部外者であれば使いにくい題材だろう。


と、挙げていけば枚挙にいとまがない。
前回書いたように、『書店ガール』は、碧野さんが実際の書店をたくさん取材しているから書けた部分がたくさんあることは理解していた。が、ここまで編集の仕事内容に踏み込んだ内容は取材だけでは書けないのではないか?と、不思議に思っていたその謎の答えは、5巻の大森望さんの解説にバッチリ書いてあった。

それもそのはず、著者の碧野圭は、2006年に『辞めない理由』で作家デビューするまで、ライトノベル雑誌の編集者として、十年余のキャリアを持つ。


なるほど!
ここでも参照先として挙げられている「WEB本の雑誌」のインタビュー記事がものすごく読ませる内容で、幼少期からの読書遍歴も面白いが、鈴木敏夫編集長のもとで『アニメージュ』でライターをしていた話や、ラノベという言葉がない時代のドラゴンマガジン富士見書房)編集部での10年間、そしてスニーカー(角川)編集部での話など仕事の話がやはり興味深い。

乙一さんの『GOTH』や谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』の仕掛けを編集部みんなで考えたり、綾辻行人さんの作家本を作ったり。スニーカーに在籍したのは4年間と短かったけれど、面白いことがたくさんありましたね。

というように、自分が大好きな本も碧野さん経由で世に出たものだったのだと考えると凄い。
なお、大森望さんの解説によれば、一人の作家に対して二つの編集部が話し合いを持つ5巻の一場面は、『涼宮ハルヒ』のときに実際にあった話だというが、『書店ガール』に出てくる疾風ノベル大賞のような旧来型の公募新人賞は、だんだんとその労力と売れ行きが引き合わなくなりつつあるという。

ネットでめぼしい作品を見つけて賞を出し、本にする方がはるかに簡単だし、ビジネスとしてもリスクが少ない。次が書けるかどうかも定かでない新人の、海のものとも山のものともつかない作品を手間暇かけて送り出すなどという非合理なシステムは、前盛期の遺物として滅びゆく運命かもしれない。

実際、特に似た作品があるかどうか、いわゆる「パクリ」の問題は、ネットの集合知のチェックを経ている方が安心だ。実際、科学論文にもパクリや改竄がある時代だから、心理的なハードルは低く、誰もが「ついやってしまう」レベルであることを考えると、それを編集部だけで行うのには無理がある。(実際に、今年夏の芥川賞候補作『美しい顔』で盗用疑惑が問題になっている)
やはり、今が過渡期なのだろうか。だからこそ、現在、編集の仕事をしている方々を応援したくなる。


さて、また本の話に戻ると、5〜6巻では、第一回の疾風ノベル大賞を受賞した田中がとてもいい味を出すキャラクターとなっている。
まず、自分の息子が熱心に取り組むことに無理解な親が最後に理解を示すという展開はベタ(先日見た映画『ボヘミアンラプソディ―』も同様の展開)ながら、胸が熱くなる。それだけでなく、序盤から伏線が張ってあるペンネームの話が良い。小説家を目指していた父親の使っていた原滉(はらあきら)に「一」を足して「原滉一(はらこういち)」として作った作品が評価されたことで、弟いわく「お父さんの夢もかなえた」のだ。
6巻で一気にアニメ化の話が出ても、書店のアルバイトをギリギリまで続ける田中は、人間的魅力が増して、成長が楽しみなキャラクターになった。なお、伸光目線では、「原」と作家名で書かれ、彩加目線では「田中」と本名で書かれるのも面白い。


そして何と言っても主人公である宮崎彩加。
新天地の取手で「吉祥寺と違うやり方。地元に愛される店。」を考えて、実際にそれをアルバイト店員たち(田中含む)と実現していく5巻から一転して、閉店を申し渡される6巻。閉店騒動は1巻でもあったが、店を潰さないための努力をギリギリまで続ける1巻とは異なり、どのように店を畳むかという過程が丁寧に描かれる。
そんな彩加も4巻から話のあった沼津の伯母の書店を継ぐことになり、好意を寄せていたパン屋の大田ともグッと距離が近づいたのは素直に嬉しい。
同じく恋愛という意味では、恋愛要素ゼロだった田中が思いを寄せる相手については、やや伏せられたような形になっているが、7巻にも話は続くのだろうか。


ということで、最終巻の7巻は、誰が主役となるのか、だけでなく、田中などサブキャラクターたちのその後も含めて、楽しみが多い。何より、リアル書店は、そして編集の仕事はこれからどうなっていくのか、そういう部分にも期待して読んで行こうと思う。
でも、最終巻なのか…。短い間に一気に駆け抜ける読書となったが、読んでいて本当に楽しいシリーズです。

*1:国立競技場は明治神宮外苑にある。

*2:小説の中では、編集者側の問題というより、編集者と作家のコミュニケーション問題という扱いとされているが、大森望さんの解説によればよくある話で、2015年末にも似た話があったとのこと。おそらくこちら⇒KADOKAWAが小説発売中止 編集者が原稿を無断改変