Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

大熊孝『技術にも自治がある』★★★★

ローカルな思想を創る〈1〉技術にも自治がある―治水技術の伝統と近代 (人間選書)
(昨日の続き)
新潟・福島豪雨による被害が出たときにちょうど読んでいたのが、新潟大学大熊先生のこの本。
現代の治水に関する考え方(河道主義治水)を、日本古来の「氾濫受容型治水策」に改めるべきとする作者の主張は一貫しており、脱ダムの話題のときもいろいろなところで名前を見かけた。本の内容自体は、本高水や堤防の余裕高の問題など専門的ながら非常に示唆に富んだものも多いのだが、ここでは「氾濫受容」の考え方に限定して、内容を紹介したい。
結論に当たる部分を抜粋すると、このようになる。

氾濫受容型の治水策は、地形条件を前提として洪水を溢れさせるため、地域によって不平等を強いることになる。表面的な近代の平等主義にとらわれるかぎり、根本的には実行できない治水策でもある。これを実行するには、技術者や地域住民同士が相手を思いやる精神に基づいた粘り強い話し合いが必要不可欠である。すなわち「技術の自治」が必要なのである。(111p)

すなわち技術一辺倒では問題解決には至らず、「話し合い」が重要だ、と言う。
不平等が前提の「氾濫受容型」の考え方を取るならば、五十嵐川の破堤についても、真の治水対策は、「市」が堤防を強固にするだけでなく、「市民」がどうするかに踏み込んだものである必要がある。

そもそも”近代化”とは、国家そして企業と個人を、それらの間の束縛となるような遅延・血縁の中間的組織を排除してストレートに結び付け、もしくは契約を介在させて、国家と企業の命令だけが人間を自由に動かし得る制度を、換言すれば市場経済制度を確立することであった。こうした近代化の中で土木技術に何が養成されたかをみると、可能な限り自然と人間との結びつきを弱めること、自然の束縛から人間を解放することにあった。これが河川技術に強く現れた典型例が水路の三面張りコンクリート護岸化や堰の可動堰化である。川の生態系の壊滅と引き替えに、その維持管理を最小限にすることを可能にしたのであった。(81p)

この問題は、単に河川の問題だけにとどまらない。日本でも盛んになってきたNPOなどの運動(例の公的年金タスクフォースもその中に入る)は、高度に専門化した技術を一般市民の手に取り戻したいという思いがかたちになったものだといえよう。僕は市民運動のすべてが正しいとは決して思わない*1が、裁判員制度なども同様の精神によるものであるし、こういった動きは(運動にとどまらず)既に現実化してきているといえる。
また、高度に発達した技術を反映するにはコストがかかる。コスト面から見ても、従来の「河道主義治水」は限界に来ている。今回の豪雨などの異常気象に完全に耐えることができる堤防の改築を、全川に渡って行うことは現実的に不可能だろう。
極端な少子高齢化から人口減少社会に向かおうとしている日本のこれからの中で、発達する科学技術をすべて現実社会に取り入れるのは無理である。環境面や社会面などの厳しい制約条件とどのように折り合いを付けていくか、その折り合いの付け方まで踏み込んで書いてあるのが、この本だ。
他にもいろいろ気に入った部分があるので、機会があったら取り上げます。

*1:たとえば、住民投票ひとつとっても問題点が山積み。