Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「物語」を拒否する男

昨日取り上げた話題については、大学時代の友人id:D16のコメントが美しくまとまっているので、まず、そのまま引用します。

競技者のパフォーマンスに対して見る側が何らかの「物語」を見出すのは勝手だし、「因縁の対決」とかは面白い。けど、見る側が見出した「物語」は競技者には“一切何の関係もない”。▼アリーナとスタンドの間には絶対の壁がある。アリーナはそこに立つことを許された者達だけの聖域であり、そこに何があるのかは競技者にしかわからない。その場所について競技者でないものが語るときは常に、“我々にはどうやってもわからない境地なのだ”と言う諦念と謙虚さ、競技者に対する尊敬が必要なんだろう

まさにその通りだと思います。テレビで鑑賞するだけの僕らも、やっぱり「諦念と謙虚さ、尊敬」の念が必要なのでしょう。その気持ちに欠け、漫然とテレビの前に座る僕らと同じ目線でインタビューするのが堀尾アナなのでしょう。

さて、昨日少し取り上げたように、最近、競技そのものよりも、競技の「解釈」=「物語」に焦点を当てるようになったのは、K1という興行の影響が強いと思います。プロレスは、D16が指摘する通り、あくまで「興行」であるため、スポーツとは捉えられてきませんでした。「物語」の浸食は、スポーツと興行の境界線にあったK1から始まったのだと思うのです。「プリンセス・メグ」も「なでしこジャパン」もK1の隆盛なくしては生まれなかった言葉です。当初からプロレスを意識してきたK1は、ボブ・サップという強力な駒を手に入れて、ますます「物語」化を加速しているように思えます。
しかし、今、K1のリングから、興行側の用意する、全ての「物語」を拒否する男が現れたのです。それこそが「曙太郎」。試合を見た誰もが言葉を失う、語ることに面白さを見つけられない曙のファイトスタイルは、ボブサップとは正反対。このまま、「物語」的スポーツの頂点ハッスルも大破壊してくれないかなあ、と変な意味で期待してしまうのです。