Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

中野不二男『科学技術はなぜ失敗するのか』★★★☆

先日の『原発事故はなぜくりかえすのか』とセットで読んだ本。
タイトルからもわかる通り、オーバーラップする話題も多い。
「失敗」については、以下のような話題が取り上げられている。が中央公論の連載ものということで、これ以外にも科学技術に関する広い話題が取り上げられて、特に「科学技術をマスコミがどう伝えるか」「海外との競争にどう生き残っていくか」の観点から、日本の科学技術ビジョンについて持論を述べている。

  • 美浜原発の蒸気漏れ事故(2004年8月)
  • 高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故(1995年12月)
  • H-Ⅱロケット8号機打ち上げ失敗(1999年11月)
  • H-ⅡAロケット2号機のDASH分離失敗(2002年2月※打ち上げは成功)
  • スペースシャトルコロンビア号の事故(2003年2月)

例えば、美浜原発の蒸気漏れ事故については、原発に特有の事故ではないのに、原発であることばかりを取り上げて、技術的な原因の追求については疎かになっている報道姿勢に疑問を呈している。同じように、H-ⅡAロケット2号機の実験についても「便乗衛星」の分離失敗についてのみ取り上げるマスコミを非難する。
さて、こういった日本で起こった事故を念頭に置きながら、アメリカのコロンビア号の事故調査の経過を見て、作者はこう感想を述べている。

そこでつくづく感じたのは「原因究明に重点が置かれている」「再発防止に集中している」ということである。当然と言えば当然かもしれない。
しかし、これが日本で起きた事故だったならばどうだろうか。「責任追及」が先行していたことは確実だろう。(P132)

先日の本で、高木仁三郎は事故調査を「自己検証型」(原因を徹底的に究明する調査)と「防衛型」(これ以上ひどいことにはならなかったということを立証したいがための調査)に分けているが、まさに、日本においては、「責任追及」が重視されるがために、事故調査も「責任回避」型になってしまうというところだろう。こういう点は、やはり日本人は合理的な国民ではないのだなあ、と思ってしまう。
ところで、中野不二男は、2つの原発事故については、単純な技術的欠陥があったことを取り上げ、「本業軽視のツケ」とモラルの低下を嘆いているが、高木仁三郎は、それをさらに深く分析して、技術の細分化、数値シミュレーションの隆盛がモラルのバリア(壁)を低くしていることを指摘している。『原発事故は〜』は、そういった点で、怖くなるくらい現実の問題点を突いていると思う。
中野不二男のこの本で、もっともなるほどと思ったのは、最終章。
上手く要約できないので引用するが、作者は、失敗に寛容ではなく、常に完璧な安全性(例えば原発の「安全神話」)を求める日本の文化を以下のように批判する。

「失敗率0パーセント」は、変わってはならない数字なのだ。変わることは、すなわち低下であり、悪化である。スポーツであれなんであれ、「失敗率0パーセント」からスタートすることなどありえない。にもかかわらず日本人は、この数字にこだわっている。
(中略)
「失敗率0パーセント」は、情緒の世界で完結すべき表現である。あくまでも心構えであり、希望的観測であって、実社会に持ち込むべき基準ではない。私達の社会は、「成功率0パーセント」からはじめるべきだ。そして、0パーセントと100パーセントの間のどの地点まで到達したかを正確に評価しなければならない。(P245)

この「失敗率0パーセント」を気にするばかりに、データの改竄などが横行する。また、既に出来たものについては、構造物でも法律でも、基本的には見直さない。逆に他の国がどうなのか知りたいが、いわゆる官僚的な考え方は、まさにこの通りだろう。そういったところについて、真に合理的な考え方をしていかないと、科学技術競争の中で生き残れないだけでなく、安全面の不安も抱えながら暮らすことになる、というのが、中野不二男のメッセージ。
結構面白かった。でも、今回は中盤、繰り返されるロケットの話が難しかったので、★はちょっと少ないのでした。