Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

遠藤周作『沈黙』★★★☆

沈黙 (新潮文庫)
夏目漱石『それから』につづく古典シリーズの第二弾。*1
遠藤周作は何冊か読んだ記憶があったので、最も有名なこの作品は読んだことがあるだろうと思い違いをしていたが、今回が初めてだった。
舞台は「島原の乱」直後の長崎。ポルトガル人司祭のロドリゴは布教のために日本に潜入したが、日本人信徒に加えられる拷問や殉教が目の前で繰り返される中、苦悩を続ける。
「沈黙」とは「神の沈黙」。これは物語の大きな二つのテーマの内の一つである。
惨状が続く中、救いの手をさしのべようとせず、頑なに黙り続ける神に、ロドリゴは、こう問いかける。

神は本当にいるのか。もし神がいなければ、いくつもいくつもの海を横切り、この小さな不毛の地に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片目の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。(P216)

「神の沈黙」についてはタイトルにもなっており、全編を貫くテーマになっているが、もう一つのテーマは強い者と弱い者についてである。

人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。(P121)

キチジローは、ひたすら弱い人間として描かれる。捕まれば、すぐに踏み絵を踏む。人を裏切って自分だけ逃げようとする。ロドリゴには、自分を裏切ったキチジローを許せない気持ちもあり、キリストのユダに対する行動と自分を重ねて、さらに悩みを深める。
はっきり言ってテーマが重すぎて自分の中からは言葉が出ない。作品中では、ラストに、この二つのテーマに対する答えが、ロドリゴの頭の中に現れたキリストの言葉として語られる(P294)のだが、つまらない回答でがっかりした。
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上記のメインテーマに対して、サブのテーマとして「西洋と日本」の宗教的な観点からの比較(対立)があり、物語を陰で盛り上げる。特に、ロドリゴらがそのあとを追って日本に入り、崇拝するフェレイラ師との対面シーンは、この小説のクライマックスと言ってもいいと思う。暗闇のどん底のような話だが、盛り上げ方が非常にうまい。
フェレイラは、教会の中でも地位の高い人物であったが、転んだ。つまり棄教した。ロドリゴらにはとても考えられないことだった。かつての師は、ロドリゴに対しても棄教をすすめ、こう説得する。

  • この国にはお前や私達の宗教は所詮、根を下ろさぬ。
  • 彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで、(中略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。
  • 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を越えた存在を考える力も持っていない。
  • 日本人は美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在を持つものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。

とにかくたたみかけるのだが、ぴんと来ない神の概念のことながらも何となく納得してしまう説得力を持つ。外からものを取り入れるときに何でも日本流にアレンジしてしまう、ということは、他の国にはない、日本人の大きな特質なのかもしれない。ここから話を広げてもみたいが、何だか今日は筆の進みが遅いので、またの機会に。

*1:今年の目標は「古典に親しむ」デス。