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脱皮し続ける乙部のりえ〜手塚治虫『人間昆虫記』

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)

ひとりの悪女の生き方を軸にして、人間社会のゴタゴタを昆虫世界になぞらえて描いた風刺ドラマです。
その年の芥川賞を受賞したのは、天才と噂される新進作家・十村十枝子でした。
そしてその授賞式が行われているとき、別の場所で臼場かげりという女が自殺をしていました。
臼場かげりと十村十枝子は、かつて一緒に暮らしていたこともある仲であり、実は、十枝子が受賞した小説は、臼場かげりが書こうとしていた作品の盗作だったのです。
十村十枝子は、次々と才能のある人間に接近しては、その才能を吸い取り、作品を盗んでは成長していく寄生昆虫のような女だったのです。

ちょうど、町山智浩さんが、先日のキラキラ*1で、アカデミー賞主演女優賞候補の2作品を取り上げていた。2作品のうち、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のメリル・ストリープサッチャー役)は、容姿や口調までまるっきり似せた「物真似」とやや低い評価に終わった一方で、『マリリン 7日間の恋』のミシェル・ウィリアムズマリリン・モンロー役)は、外見は似ていないにもかかわらず、本物に見えてくると絶賛していた。ミシェル・ウィリアムズが取ったのは、メソッド演技やスタニスラフスキー・システムと言われる手法で、「担当する役柄について徹底的なリサーチを行い、劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や役柄がおかれた状況を擬似的に追体験する」ことが特徴。『ガラスの仮面』でおなじみの方法だ。
『人間昆虫記』の主人公の十村十枝子は、まさに、『ガラスの仮面』でいうところの、北島マヤ、ではなくて、マヤから主役の座を奪った乙部のりえに通じる。彼女は、才能ある俳優、演出家、小説家たちに目を付け、しばらくの間、行動をともにすることで、彼らの才能を奪っていく。それを、サナギから蝶に羽化する昆虫になぞらえて、人間昆虫記というタイトルがつけられているのだ。


全体を通して振り返ると、やはり読者が置き去りにされる感じのラストが印象深い。こうなってしまうのか…という感じだ。
何をラストに期待したのか(そして叶わなかったのか)といえば、やはり十枝子の破滅、もしくは改心を期待していたのだろう。十枝子が可哀想な人間であることを分かってなお、何人もの人間を不幸にしている報いは受けるべきだと考えていた。しかし、ラストシーンでも十枝子は十枝子のままだ。
この物語の終わり方について、巻末解説で真崎守も説明を加えている。

一般の娯楽作品は、あるいは多くのまんがは、ある出来ごとが提示され、その出来ごとに関わる何かが解決したとき、物語が終わります。
手塚まんがは、ある出来ごとが提示され、その出来ごとの奥に隠されていたものの本質が明らかにされると、必ずしも何かが解決されなくとも、物語が終わりを迎えてしまいます。
それは、手塚まんがのほとんどが、常に、普遍的なテーマを秘めているというところから生じる、作風の特異性です。
p365

この説明は『人間昆虫記』の終わり方の説明としては非常に納得が行くが、扱われているのが普遍的なテーマかと言われると、それは違う。つまり、1970年発表の、この漫画のテーマは、いまや現代が抱える問題点からは外れていると言える。というのは、男性中心社会における「強い」女性の生き方という視点を強く感じる作品だから。例えば、十村十枝子が最後まで愛したかつての恋人・水野瞭太郎。その妻で元芸者のしじみの、いかにも「慰み者」という可哀想な人生は、今読むと、昭和の時代ってこんなだったのかな…という“演歌”感が非常に強い。そう、圧倒的に女性が弱い立場にいた時代だからのテーマ設定なのではないか。
物語展開としては面白く、ラストも印象的ではあるが、当時読んでいれば、そして当時を生きていれば、もっと感じ方が違うだろうなと思ってしまうような物語だった。


ところで、冒頭に掲げた「TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト」というサイトは情報量が凄い。今後も参考にしたい。


*1:TBS RADIO 小島慶子 キラキラ。今年の3月で番組が終了してしまうと聞き、残念な限り。