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自分はデーパかシッダルタか?〜手塚治虫『ブッダ』(5)

ブッダ 5 (潮漫画文庫)

ブッダ 5 (潮漫画文庫)

この巻の解説では、筑紫哲也が、自らが行ったインタビュー*1を引き合いに出しながら以下のように記している。

(人生観の中心にあるものについて)手塚氏はズバリ「生命の尊厳」と答えた。ここで言う「生命」とは人間だけでなく、この地球上に生きるすべてのものを指している。それは人間中心の「ヒューマニズム」「人間性原理」あるいはモラル、正義などとは峻別されるべきものだと語り…(略)
ブッダの説く教え、つまり仏教はこの世の「生きとし生けるもの」を同じ地平でとらえ、「人間性原理」が強烈に投影している欧米の宗教・哲学とこの点で大きく異なっている。

2巻の解説で、大沢在昌が、手塚治虫を称えて使用していた「ヒューマニズム」という言葉を、手塚治虫が追い求めた「生命の尊厳」と峻別されるべきものとして使っているのが面白い。
そうやって異なるものとの差を見つけていくことで、『ブッダ』のテーマに近付けるのも確かで、この巻あたりからは、修行仲間のデーパとの違いが明確になっていく。
特に、シッダルタがアッサジを助け、ミゲーラを助けるシーンでのデーパの対応に、その差を見ることができる。アッサジの病気治療にデーパは協力するが、決して自分を犠牲にすることはしない。さらにミゲーラ治療を懸命に成し遂げたシッダルタを叱る。自己犠牲という観点で二人は大きく異なる。
ただし、“正解”のシッダルタと対比してみた場合「デーパ、お前は何やってんだ!」と言う感じの捉え方は物語としてはしてしまうが、自分はどちらかといえば、明確にデーパだろうな、とも思う。自分の行動すべき範囲を決めた上で、基本的にはその内側で行動するというのは、ある程度まで合理的な判断だろう。そう考えると、自分(デーパ)の考え方はどこまでがOKで、どこまでがNGなのか、と考えてしまう。そんな風に、いろいろと考えを巡らせながら行きつ戻りつ読んでいます。


なお、この巻でマガタ国王登場。漫画『ブッダ』の中で、シッダルタを初めて「ブッダ」と呼んだ人だ。登場人物たちの交差する人生に、マガタ、コーサラ、そしてカピラヴァストウの国家間のやりとりが絡められて描かれていく様子が、『ブッダ』は非常に上手い。(そして、それは早足過ぎた『アドルフに告ぐ』に不満を感じた部分だ。)

*1:1987年の『若者たちの大神』