Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

松木安太郎は何故・・・・

昨日、コメント欄で、“親”松木派の意見をいただいたので、松木安太郎に対して、なぜ僕が「うざい」と思うのかを少し考えてみました。*1
まず、はじめに断っておきたいのは、僕は、スポーツ観戦が苦手で、サッカー、野球、格闘技、競馬、とほとんどのスポーツについて「ファン」的な精神を持っていません。地元のチームだとか、知っている選手がいるとかの多少の贔屓はあっても、特定のチームに愛着を感じたりもしません。選手の名前も大概覚えられません。したがって、こんなことを語ること自体に間違いがあるのではないか、という気持ちを自分でも強く感じています。
話はずれますが、スポーツの「ファン」たりうるかどうか、というのは個人の資質(大きな要素として記憶力)に大きく左右され、自分が、今後、急に何かのスポーツに「はまる」というのも考えにくいものがあります。
 
さて、本題に入りますが、テレビ朝日のサッカー中継の場合、角澤アナが実況、松木安太郎が解説、ということになると思います。ここで両者の役割を細かく分けることはしませんが、「解説」役の人は、つまり解説するのですから、「素人」であるテレビ観戦者に分かりやすく説明することが求められます。このとき、解説−テレビ観戦者は、先生−生徒のように、向かい合って座っているイメージです。
松木安太郎の解説の特徴は、「応援」に力が入りすぎる点にありますが、応援しているときの彼は、テレビ観戦者と向かい合っているか、といえば、そうではありません。例えば、動物ドキュメントで、ナレーター役として、視聴者に状況を説明するのが通常の「解説」役だとすれば、テレビの前で視聴者の隣に座って「ウサギ、逃げろ!」と騒いでいるのが松木安太郎です。勿論、ナレーター役に徹するときもありますが、ほんのちょっとです。
まず、ここが「うざい」ポイントになります。つまり「一人で楽しませてほしいので、松木安太郎に邪魔されたくない」のです。
 
ただ、僕も日本代表を応援していますから、松木&角澤の過剰な応援を聞いて、一体感を感じるときも確かにあります。
しかし、それは波長があったときです。
例えば、映画を見に行って、隣の席の人が、同じ場面で泣いたり、相槌を打ったりする波長の合う人であった場合、一体感を感じるかもしれません。しかし、隣の人が異常に相槌を多く打ったり、静かにしてほしいシーンで怒り出したりした場合、その席に座ったことを激しく後悔します。
特に、昨日の試合では、日本の失点となった43分のPKのシーンで、松木安太郎が「止めろ!」と叫んだのは最悪でした。僕はああいうシーンは、静かに「念」を送りたいタイプなので、松木の声で「念」が乱された気がします。川口がボールを止められなかったのは、多分、松木のせいです。
また、これはいつものことですが、相手チームと審判への悪口が多すぎます。少しならいいのですが、多すぎるので我慢できません。
 
少しまとめに入ると、スポーツ観戦の「解説」役の人の戦略として、一体感を得るために、テレビ観戦者と同じ視点に立つ、というのは、一定の効果があると思います。しかし、それは得失点のシーンなど、ほとんどのテレビ観戦者が同じ気持ちを抱く場合に限られます。例えば、不可解なジャッジに対しては、怒る人もいるだろうし、すぐに頭を切り替えたい人もいるでしょう。そこで、松木安太郎が一テレビ観戦者の視点まで降りていくことは、一定の理解者を得る代わりに、確実にアンチ松木を生むことになり、非常にリスクが高いのではないでしょうか?
したがって、やはり、解説者は、テレビ観戦者に対して教え諭す役割を自認して、サッカーの国際試合という、一つの芸術作品の進行役を務めてほしいのです。
松木安太郎は、嫌いではないのですが、松木安太郎の解説は、やっぱり「うざい」のです。
長く書きましたがわかりにくくてすみません。

*1:自分が嫌いだなあ、と思う人に対して、その理由を挙げるのは、僕の古くからの趣味です。結果として自分自身の分析につながる「良い趣味」だと思っています。